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炎―かぎろひ―  作者: 紗夏
第一章 葬送の笛
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雪の朝(後)

 入鹿が眼前に現れても、片岡の態度は変わらなかった。

視界に入ったか入らなかったか、判断に迷うような瞳の揺らぎを見せて、片岡はまた人形になる。

 入鹿は寂しく笑って、その前に座る。降り積もった庭の雪が、日の光に反射して、部屋の中はいつもより明るかった。けれど、中の空気は、重く澱んだままだ。誰も口を利かないまま、等間隔に距離をおいて、板べりの冷たい床に座ったまま。

 白く雪化粧された庭を、入鹿はぼんやりと眺めていた。庭の雪をすっかり溶かしてしまった冬の太陽が、西の空に沈んでゆく頃、漸く片岡はポツリと言葉を発した。

「母上が」

「うん…」

触れたら消える淡雪のような頼りない声に、入鹿は優しく相槌を打つ。

「亡くなって哀しいの。でも、何処かでほっとしてる…」

 涙に詰まった、途切れ途切れの声。

 入鹿は、「おいで」と言うように、両手を前に差し出した。その腕に倒れ込むように、片岡は入鹿の胸にしがみついた。

「一日でも長く生きていて欲しかった、そう思わなきゃいけないのはわかってるのに、私、ずっと思ってた。

こんなに苦しむお姿は見たくない。早く、天がお召しになればいいのに。そうすれば、母上は楽になれるのに、って」


 母の死を哀しむ喪失感と、母の死を願ってしまった罪悪感。二つの相反する気持ちに苛まれ、片岡は言葉も表情も奪われてしまったのか。



 まるで、懺悔みたいな告白をして、涙も声も、枯れんばかりに泣いて泣て、そして片岡は眠ってしまった。入鹿の膝の上で。

「子どもみたいだな」

 あどけない寝顔を覗きこんで、山背は呟く。

「子どもでしょ、まだ13の女の子…」

 涙の後もそのままに、入鹿の着物の裾をしっかり握って、片岡は規則正しい呼吸で眠ってる。

「寝台に移すか?」

 山背の提案を入鹿はやんわりと退けた。

「いや、いいよ。気持ち良さそうに眠ってるし」

「でも、それ足と腰に負担くるぞ」

「うん…」

 頷きはするものの、入鹿は片岡の頬の涙の後を指でなぞったりするだけで、体勢を変えようとはしない。

 やっと彼女の肩から下りた荷。与えられた安堵の地。守りたいと、入鹿は思っているのかもしれない。山背にはそう見えた。


 いつしかうとうとと、山背も入鹿も眠ってしまった。


「あらあら、お三人方、こんな所で、お風邪をお召しになりますよ」

侍女の声に、目を覚ました時は、既に辺りは明るくなっていた。

「おはよ…って、お前あのまま寝ちまったの?」

 片岡は、入鹿の膝に尚もしがみついたまま、入鹿は彼女の背中に突っ伏すようにして、夜を明かしてしまったらしい。

「え?」

 状況を把握出来ないで、何度も目をこする。泣き腫らした瞳は、瞼を重くさせ、いつものようにすっきりとは、起きられないのか。

「え? 私…」

 漸く、自分がしがみついてるものに気づいて、羞恥と焦りで、真っ赤になってその場から離れようとした片岡に。

「ちょっと待って、片岡。急に動かないで」

 苦しそうに呻いたのは、入鹿だった。



「だから、言っただろ? 足と腰にくるって」

「朝まで寝るつもりは、無かったんだよっ」

 漸く片岡の上半身から解放されて、入鹿はゆっくり足を伸ばした。片岡を膝に抱いたまま、彼女の背中に覆い被さるように一夜過ごしてしまった彼の、足の痺れは半端ないだろう。

「入鹿、ごめんね」

「いや、大丈夫」

 無理むりの笑顔を見せる入鹿の、足の指の先を、山背は指でつついた。

「%*&§£」

 言葉にならない入鹿の叫び。

「山背~」

「大丈夫じゃないじゃん」

その二人のやりとりに。片岡の表情が、少しだけ和らいだ。



 刀自古郎女の亡骸を葬り、橘の花の香りが、嶋屋形の庭に満ち始めた頃、山背や片岡に意外な話が持ち上がる。

 居を、ここ嶋の屋形から、父の住む斑鳩宮に移してはどうか、と言うのだ。

 どうか、と問い掛ける形を取りながら、父も祖父も、既に二人で話し合い、とっくに決定事項になっている。何故なら、向こうへ移ったら、山背と菩岐美々郎女の娘の舂米王女を娶わせようと、斑鳩宮では、新婚の二人のための準備が着々と進んでいるのだ。

 乗り気はしないが、強いて反対する理由もない山背は、しぶしぶ承諾した。

 しかし、妹は敢然と反抗した。

「絶対嫌です」

 迷いも躊躇いもない、その我儘な宣言を

「漸く片岡らしくなってきて良かったじゃない」

と、飽くまで好ましく捉えて、入鹿は愉しげに笑う。

「他人事だと思いやがって」

 忌々しげに言い、山背はその怒りを行李に入れる着物を押し込める力に変えた。

「どうせ連れてっちゃうくせに」

ぽつりと入鹿は呟く。山背が荷物から目を離し、見上げた時にはもう、彼の姿はなかった。


 

持っていくものは、衣類と身の回りのこまごましたものだけなのだが、それでもまとめると結構な量になった。

いよいよ、飛鳥を離れ、斑鳩に行くことに決まった当日の朝、事件は起きた――。



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