雪の朝(前)
二人は二刻ほどして、戻ってきた。
購った馬は、見るからに毛並みのいい鹿毛の大きな馬で、何のことはない、裸馬は乗りこなせなくて、曳きながら帰ってきた。時間がかかったのはそのためらしい。
「宝の持ち腐れだね」
厩に馬を繋ぐ入鹿に、山背は皮肉を言うと、片岡の方が、ぷうとむくれた。
「兄上はいつも、入鹿には意地悪ばかりおっしゃる。大人げないわ」
山背が入鹿のぞんざいな口調に慣れているように、入鹿は山背の、年下の自分を軽く見る物言いに慣れている。顔色も変えずに、言ってのけた。
「今はね。でも、俺だってこのままじゃないし」
「私も欲しいなあ」
こわごわと、けれど好奇心たっぷりにたてがみに手を伸ばしながら、片岡が言った台詞に、山背はぎょっとなった。いくらじゃじゃ馬だからって、乗馬などは父も祖父も認めまい。
「片岡。お前は女だろう?」
「承知してます。いいもの、入鹿に乗せてもらうから、ね?」
とても素敵な考えを思いついた、とでも言いたげに、片岡の瞳は輝いた。
「え…」
「危ないから、ダメだ、片岡」
ためらっている入鹿に、山背が横槍を入れる。
「兄上には聞いてない」
「そんなに馬に乗りたいなら、兄が乗せてやるよ」
「結構です」
他愛もないやりとりをしていた時だった。
「片岡様…?」
厩の入口で、遠慮がちに片岡を呼んだ女は、山背と片岡の母付きの侍女だ。
「あの…、様がお呼びです」
ここ嶋の屋形では、今は家の女主人は、兄妹の母である刀自古郎女である。
その母の部屋付きの侍女が、わざわざ庭の外れの厩まで、片岡を呼びに来るたのだ。
「母上が?」
先程までふざけていた片岡の表情が、きっと引き締まった。
「わかりました、すぐに参ります」
呼びに来た侍女と、片岡は厩を出て行った。
「叔母上、良くないの…?」
刀自古郎女は、秋口から体調を崩し、今は床が上がらない状態が続いている。事情を知ってる入鹿は、山背に尋ねる。
「良くはないな」
入鹿の問いに、山背は短く答えた。
気丈な性格に加えて、この家の女主人であるという自負心からか、侍女にさえ見苦しい姿を晒すのを嫌い、食事などの介助は、全て実子の片岡が手伝っていた。片岡の気の強さは、全く母ゆずりだと、山背は思う。
「不思議なものでさ、母上は病床には俺や財、男兄弟は近づけない。弱みを見せられるのは、血を分けた子どもでも、同性の片岡だけらしいぜ」
「……」
入鹿は先程の片岡の表情を思い出していた。
自分にしか出来ぬこと、と母を支えようとする責任感が、あんな風に凜とはりつめた顔を少女に作らせていたのだろう。
「お前は気にするな」
共に片岡の苦労を背負いこみそうな、暗い影を落とした入鹿の頭を、山背はぽんとはたいた。
「寧ろ、乗馬の練習でもして、片岡の気晴らしでもさせてやってくれ。但し、怪我なんかさせるなよ」
片岡の心を明るくさせることが出来るのは、お前だけなんだから。悔しいから、最後の一言は、山背の心に収めておくのだけれど。
年が明けると、刀自古郎女の容態は日に日に悪化して行った。
血を吐き、食事も喉を通らなくなり、ガリガリに痩せ、ひどく神経質になり、病床には片岡と、他には彼女が心を許す一人二人の侍女しか、入れなくなっていた。
痩せて醜くなった自分の姿を、夫にも息子にも見せたくない、そんな彼女の矜持に、付き合わされる片岡の方が、山背にも入鹿にも辛く見えた。
「誰か何か言えばいいのに」
入鹿は片岡に同情して憤る。
それは兄である山背にも向けられた怒りだったろう。何もしなかったのか。どうすることも出来なかったのか。
兄妹の母、刀自古郎女が息を引き取った夜は、飛鳥でも珍しく、雪の降った夜だった。
死に顔はまるで別人に思えて、すぐには涙も出なかったほど、死床の母は様変わりしていた。
母の骸を抱き締めたまま、片岡は動かなかった。母は片岡を道連れにしたのではないかと危ぶむほど、片岡は人らしい表情も動きも失っていた。
馬子と山背で、引き剥がすように、遺骸を片岡の体から離しても、やはり固まったままで、山背がおぶって、自室に連れて行ったが、一言も喋らない。
その夜は朝までまんじりともせずに、無言のまま、朝を迎えた。
「片岡」
呼び掛けると、僅かに動く黒目が、目も耳も正常なのだと判断出来る唯一の材料だった。
まだ13にしかならぬ妹を、まともに母の死に向き合わせたことを、山背は悔やんだ。
次第に朧気になっていく視線。か細くなっていく呼吸。
生が死に移ろっていく様を、腕の中で感じながら見届けた片岡は、どんなにか辛かっただろう。
「すまない」
山背が、そう詫びて抱き締めると、片岡の右の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
朝一番に、何も知らない入鹿が、雪遊びの誘いにやってきた。
母の死、片岡の様子を告げると、表情を無くして、「また来る」と、踵を返す。
振り返ったその襟を、山背はぐっと掴んだ。
「な、何すんだよっ」
「何もしなくていい。傍にいてやってくれないか?」
もしかして入鹿になら、心を開くのではないか…、祈る思いで山背は言った。