蘇我の若君②
永刀から取り返した笛は、またも無造作に懐に突っ込んで、入鹿はそのまま厩舎に繋ぎ止めてた愛馬に跨ると、馬の背に鞭を当て駈け出した。
飛鳥川の川辺を行くと、道沿いに幾つか煙が立ち上り、薄く青い空にたなびいていた。何処に行く、という当てもなかった入鹿は、手綱を引き締め、煙がのぼる建物のひとつに馬首を向けた。
仏教が取り入れられてから、寺院や仏像を作るため、瓦を作ったり、鉄や銅を溶かしまた固める技術が、急速に発達し、またそれらを作り出すための工房が飛鳥の都の外れにも立ち並び始めた。
官営の工場と言いつつ、仏教の布教に熱心なのは蘇我氏で、渡来系の技集団をまとめるのは、入鹿の養い親でもある司馬氏だ。こういった技術も工人たちも、蘇我の手の中にあると言っていい。
母を亡くした自分を、祖父が何故父のもとでなく、母の実家でなく、司馬という渡来系の技術集団に預けたのか、馬子の意図は謎だが、幼い頃より、入鹿はこの工房に出入りするのが好きだった。
ぱちぱちと音を立てて火の粉が爆ぜ、瓦窯の火は燃え盛る。春の始めの陽射しは弱々しいが、炎の間近となれば話は別だ。忙しなく窯の炎に木をくべる浅黒い肌の男の額に汗が滲んでいた。
ぼんやりと、けれど飽くことなく、入鹿は窯の中の炎を見つめていた。優雅な佇まいと上質な絹の着物は職人たちの集うこの工房には相応しくない。
ちらちらと入鹿の存在を気に留めてた男は、ついに意を決したように、彼に近づいた。
「恐れ入りますが、ここは貴方のような身分の高い方の出入りするような場所じゃ…」
「は? 何で俺が…」
早口の訛りの強い口調で言われ、入鹿は傲然と言い返そうとしたその時だった。
「若」
壮年の男がひとり、対峙したふたりに向かってくる。小柄で細身で、顔の作りも全体に小ぶりだが、目だけがぎょろりと大きく鋭い。ある種異彩を放つ風体の男を見て、浅黒い肌の彼は、咄嗟にひざまずいた。
「止利様」
「止利」
と男を敬服させ、入鹿が気色ばんだ表情を一気に和らげ、名を呼んだ男こそ、飛鳥の物作り集団のボス的存在で、永刀や嘉陽の伯父で、入鹿の養い親である鞍作首止利である。
「俺のことくらい、教えといてよ」
追い出されそうになったことを根に持って、入鹿は口を尖らせて、止利に文句を言う。その我儘な物言いも、養い親の自分への甘えの表れだと知って、止利は大きな眼がなくなるほど、目を細めつつも、入鹿を諌めた。
「無茶を仰せになりますな」
それからきょとんとなって、入鹿と止利を交互に見やる男に優しく言った。
「――このお方のことは気にせずともよい。ここのことなら何でもご存知だし、来るなと止めても出入りなさるし」
「は、はい…」
ぺこぺこと頭を下げて、男は場を後にした。
「何処の者?」
「屋久の出で、薙と言います。共に帰化した家族はみな死んでしまったので、私がこちらに手が欲しいと大臣様に願い出ました」
「屋久…」
遠い遠い南の国だということくらいしか、入鹿にはわからない。帰る場所もなく、共に暮らす家族もなく、ここで瓦を焼き続けるのか。それでも、路頭に迷うよりはマシなのか? 止利の工房には薙みたいな男は少なくない。地方と中央の格差に、入鹿は暗い気持ちになった。
「なにか御座いましたか?」
止利が入鹿の表情を覗き込む。
「なにか、とは?」
「若はむしゃくしゃされると、女のところか、ここに逃げ込む癖がおありだから…」
遠慮の無い物言いは、図星なだけに余計に入鹿の気持ちを刺激する。入鹿はちっと舌打ちした。だが、他に弱音の吐き場所もない。ぽつりとこぼす。
「…いい加減、妻でも貰え、と父に言われた」
今度は何処に作る寺の瓦なのか。焼きあがった花の模様の瓦を見つけ、入鹿はひとつ取り上げる。仏の教えなんてありがたいことは、実は入鹿にはよくわからない。寧ろ、これを作り出す技術の方に魅せられる。蘇我の跡取りなんかでなく。純粋に止利の息子か甥なら良かった、と思ったことは一度や二度じゃない。
「若も十八におなりでしたっけ。おお、これはめでたい」
めでたくなんかないだろ。わかってるよ、逃げてるだけだって言うのは。でも、だけど。俺の味方って、この世にひとりくらいいないわけ?
止利の言葉に苛ついて、入鹿は作り笑いを彼に向けた。
「止利。これ、地面に叩きつけられたくなかったら、口を慎めよ」
出来たばかりの瓦は水分が多く、脆い。いちばん手間暇かかる文様瓦を質に取られて、止利はあわあわと焦る。
「若は年々お人が悪くなる。この年寄りを苛めて楽しゅう御座いますか?」
割と楽しいかも。って、彼相手に嗜虐趣味を見出しても仕方ない。軽く持ってた瓦を止利に投げると、止利は両手で真剣に丁重に受け止めて、大きく息を吐き出した。
「このままじゃ駄目だってのは、わかってるんだけどさ」
幼すぎた恋を――忘れるなら忘れる。思い切るなら思い切る。あの約束を果たすなら果たす。どれも決めかねて、ふらふらと代償を求めては、求めたものと違う事実に落ち込んで。
『どうせ大して愉しくもないくせに』
堅物で色恋なんてまるで疎そうな、永刀にまで指摘されて、腹を立ててるようじゃ。
「俺ってホント、身分と顔だけのボンボンだよなあ」
慰めを期待して言ったのではなく、本心だったのだが、止利は破顔して、まるで入鹿が子どもの頃みたいに、ぽんと背中を叩いた。
「ご自分をよくわかってらっしゃる」
「お前ら、いっぺん主に対する口の聞き方、どっかで習ってこい」
「英邁で繊細な若が、我らは好きですけどね」
「今頃追従しても遅いよ」
「止利の売りは口ではなく、この手なので、追従もゴマすりもしないことはよくご存知と思いますが?」
「ばか」
飽きたのか喉でも渇いたか、工房の門前の木に繋いだ入鹿の愛馬が嘶いた。その声を合図に「帰るよ」と止利に手を振り掛けた瞬間だった。
「た、大郎君っ」
工人や床に散らかる道具などを巧みにかき分けながら、全力で駆けてきたのは永刀だった。わざわざ追っかけて来たのかと思ったが、「大変です」と言いながら、近づいてくる彼を見ると、どうやら奔放な主君を連れ戻しに来たわけではないらしい。
「どうした」
肩で息をしながら、喘ぎながら、永刀はすぐには受け入れがたいことを奏上した。
「斑鳩の――厩戸王子がお隠れになったとのことです」