Ⅰ 蘇我の若君①
推古天皇三十年(622年)春2月
右手に感じてた手の温もりが、急に離れて、彼はその寂しさにハッと目を覚ました。
「…夢か」
視界に開けた世界の違和感に、彼はその事実に気づく。同じ夢を何度も繰り返してるのに、その度味わうこの空虚さには、いつまでも慣れない。
「…入鹿さま? お起こししてしまいましたか?」
ふと隣の女が、心配そうに入鹿の顔を覗き込む。消え入りそうなか細い声で、自分の居場所を思い出した。行きずりの女との情事の後だっけ。
入鹿…と呼ばれた男を、簡単に紹介させて頂くならば、彼は蘇我大郎鞍作入鹿。飛鳥に権力を振るう蘇我大臣家に生まれる。父は毛人、母は蘇我の傍系林氏の娘であったが、彼を生んで後に亡くなった。彼は顔も覚えていないが、麗人の呼び声高かった母に、彼の容貌は瓜ふたつであるという。
齢十八。少年と青年の狭間で、あどけなさを輪郭に残しつつ、涼やかな眼差しや、普段は引き結ばれたことの多い口元からふっと溢れる笑みには、色気も漂う。
名家の出の美貌の若君、とくれば、女が放っておく筈もない。更に加えるなら、亡き母の叔父に仕込んで貰った笛が得意で、長い指が奏でる妙なる調べ、その優雅な姿が焼き付いてしまい、恋に落ちてしまう女も少なくない。
まさに絵に描いたような…である。
この女とも、宴の席で出会った。
先日、大伴氏の屋形で行われた月見の宴。
笛を披露して、退席しようとした入鹿を、袖をひいて止める者がいる。それが、隣にいるこの女だった。
「改めて、私の為に吹いて頂けないでしょうか?」
女はわかりやすい言葉と態度で誘う。入鹿は快諾する。
何度となく繰り返された、こんなやりとり。相手が変わったとしても、彼の気持ちにも行動にも、大きな変化はないのだ。
月が中天に昇る頃、一旦辞した女の屋形に忍び込む。
貪るように口を吸い、身体中に紅い跡を散らし、最後女の中に自分自身をぶちまけて、そのまま眠ってしまったのだが、それからまだ一刻と経っていないようだ。壁の板目の隙間から差し込む仄暗い月明かりが、夜明けがまだだと告げている。
(半端な時間に起きてしまったな)
と言って寝直す気にもなれず、ぼんやりしている入鹿の肩に、女はしなだれかかってきた。
煩わしく思ったが、振りほどくのも面倒で、そのままにする。気持ちが冷めてしまうのは、女と肌を重ねた後は必ず見る、あの夢のせいだろうか。入鹿はじっと、自分の右手を見た。
五年も前の出来事なのに、夢の中では、片岡の手の温もりはいやに鮮明だ。自分の罪悪感が見せているのか。片岡が、彼の不実を詰る為に見せているのか。
「どっちでも同じか…」
自嘲と共に、入鹿は呟く。
女は入鹿を見たが、問いかけるような彼女の視線を振り払うように彼は立ち上がった。彼の背中に体重をかけていた女は均衡を崩して、前のめりに倒れそうになり、慌てて寝具の上に手をついた。
「お帰りになるんですか?」
「ああ」
媚びた声に、入鹿は冷たく言い放つと、長居は無用とばかりに、身支度を始めた。
「…また、笛をお聞かせくださいね」
去り際に女は言って、意味深に笑った。曖昧に笑って、入鹿は胸の内に毒づいた。
(名前も聞かなかった女に、二度目はねーよ)
畝傍の山の麓の自分の屋形へ戻った時には、既に空が白み始めていた。
母屋がぐるりと庭を囲んだだけの館は、元々は母が居住していたものを、彼が乳母の一族の養育の手を離れた際に、譲り受けた。誰にも気付かれぬように、寝所に潜り込む。こんな行為も慣れている。
次に入鹿が目を覚ました時には、既に日が高くなっていた。春の訪れを告げる暖かな日差しと、埃をはらんだ風に身を包まれて覚醒した。
大きく伸びをして、上体を起こすと、側に控えていた女と目が合う。
「お早うございます…という時間じゃないですね。随分お早いお帰りだったみたいですが、お目覚めは如何ですか?」
起き抜けの入鹿に辛辣な言葉をかけて微笑んだのは、嘉陽。他の侍女なら屋形から追い出してる所だが、嘉陽は入鹿の乳兄弟。この皮肉でぞんざいな物言いも昔からで、敢えて放置してる。
「別にどうということはないが」
「では、兄を呼んで来てもいいですか?」
「げっ、それはちょっと待て、まずは水でも持ってきてくれ」
この上、輪をかけて堅物で口うるさい兄なんか呼ばれてたまるか。
命じると、嘉陽はすぐに、水だけを持ってきた。仕事は素早いが、気を回して、着替えや朝餉を持って来たりはしない。言われた以外の事はしないのが、何とも彼女らしい。
「兄の用事が何か知っているか?」
喉を潤してから、入鹿は嘉陽に訊ねた。
「いいえ」
「急ぎではなさそうだな。なら、後回しで…」
「良くありません」
怒鳴り声と共に部屋に入り込んで来たのは、当の永刀だった。入鹿よりふたつ年上。小うるさい性格を入鹿の父の毛人に買われて、彼の目付け役になっている。
「嘉陽、お前、待てって言っただろう?」
「お水を召し上がられたら宜しいかと思いまして」
嘉陽は、悪びれもせず、しれっと答える。だから、嫌なんだ、この兄弟…。
「お前ら、主人の言を何だと思ってる」
「大郎君の言葉をいちいち真に受けていたら、何も出来ません」
大郎と、この司馬氏の乳兄弟は彼のことを、忌み名ではなく字で呼ぶ。彼をそう呼ぶのは、祖父と父と彼だけで、つまり子ども扱いされてるみたいで、気に入らない。入らないが、幾度とした抗議も馬耳東風に流されている。
「それで話は何だ」
入鹿は諦めて、永刀に向き合った。
「大伴様の屋形から使いが参りました。我が君の忘れ物だそうです」
そう言うと、永刀は勿体つけて、袖の袂から布に包まれた何かを出した。
細長い形状は、布にくるまれていても、中味はすぐに察しがついた。
(俺の…笛…? 昨夜の女の所に置いて行ったのか…?)
半信半疑で胸元を探ってみると、確かにない。
「返せ」
と、笛に手を伸ばした所を、永刀にかわされた。
「その前に」
永刀は勝ち誇った顔で、包みを掴んで言う。
「何故、これを大伴の姫がお持ちなのか伺いましょうか」
とっくに察しなどついてるだろうに。ちっと、舌打ちしても、巧い言い訳が出てくる訳じゃない。もともと弁が立つとは言えない彼だ。
「ああ、もううるさいな、そうだよ、昨夜は大伴の一の姫の元にいたよ。それが何」
入鹿は自棄になって、あるがままを暴露した。
「先月は阿部様の二の姫、そのまた前は、紀様、その前は…。
夜歩きするなとは、申しませんが、もう少しお控え頂けませんか?」
「つったって、誘ってくるのは向こうだし」
永刀は脱力感に襲われて肩を落とした。
(何を言っても無駄なのか…?)
「どうせ大して愉しくもないくせに」
永刀が洩らした言葉に、入鹿は眉を上げた。
「どういう意味だ」
「どうって…そのまんまの意味です。いつも、女の元から帰られた後、虚しそうにしてらっしゃるじゃないですかっ。現に今だって」
突っ込まれると思っていなかった永刀は、自分の感じていたことを、率直に伝えると、入鹿の形相はますます不快げなものになる。
「相変わらず僭越な奴だな。楽しかろうが虚しかろうが、いいんだよ。好きでやってることだ」
憮然とした表情で入鹿は言い放ち、永刀の手にあった笛を強引に奪い取ると、乱暴な裾さばきで部屋を出て行った。
「失言、でしたね」
嘉陽が、抑揚のない声で呟く。
いつもなら、大抵の永刀の差し出口は笑って流す入鹿なのに、永刀の言葉は触れて欲しくない所を、まともに抉ったようだ。
「我が一族の欠点だな」
永刀は深く溜め息をついた。
「若はどうなさるお積りなんでしょう」
「どうとは…?」
「斑鳩の姫を忘れたくて、他の方と遊んでらっしゃるんじゃないのかしら」
「…違う気がする…」
温もりが欲しくて必死に伸ばす手。けれど、差しのべられたその手は、求めている人のものではない。それでも縋らずにはいられない、といったところか。
手にいれられない姫を想いながら、他の女を抱くのだから、入鹿の欲望は歪んでる。しかし、永刀には、それを正すことも、やめさせることも出来ない。
いや、永刀だけでなく、入鹿が望む、彼の人以外には、誰も――。
永刀・嘉陽…共にオリキャラ。有名な止利仏師の甥と姪に当たります。