約束の丘
推古天皇25年(617年)…頃
丘の前に立つと、少年は一度立ち止まって、なだらかな勾配を見上げた。瞳に力を込めて、頂きをしばらく見ていたが、何も得られないとわかり、少年は、丘を一気に駆け上がった。
余程、勢いよく走ったのか、荒々しい息を吐き出しながら、辺りを見回す。年の頃は十をふたつみっつ越えたくらい。まだ、髪をあげておらず、無造作に後ろで束ねている。白い肌に、怜俐そうな切れ長の瞳。
麓からずっと何かを探して、その瞳は絶えずきょろきょろ動いていたが、彼の目的のものは未だ視界には映り込まなかった。
丘の上は、古い社があるだけで、あとは何もない。これ以上はないくらい、見通しのいい場所なのに、彼の探している何かは見つけられない。
「絶対、ここだと思ったのに」
整ってきた呼吸で、ひとりごちながら、彼は、唯一の建造物、社の方に向かった。社といっても、神殿と祠があるだけ。縁起もあるのかないのか。けれど、そんなことは今はどうでも良かった。
社の反対側に、探し物を見つけ、少年は我知らずに、その端正な顔を綻ばせた。
黒目の大きな、勝ち気そうな少女。地べたに座り込んでいた彼女は、涙で腫れた顔を背ける。不貞腐れた態度の割には、少年と目が合った時の表情は、何処か嬉しげでもあった。
「片岡」
彼女の頑なな態度を解きほぐすように、彼は優しい声で名を呼ぶ。
「屋敷中、大騒ぎしてるよ。一緒に戻ろう」
そう言って、彼女に手を差し伸べる。華奢な腕の細さに反して、手指の長い大きな手。彼の手が伝えてくれる温もりを、十二分に知っていながら、彼女はそれを拒絶する。
「いや。だって、戻ったら、斑鳩に連れて行かれるもの」
予想通りの反応に、苦笑いしながら、彼は彼女の隣に座った。
同い年の二人は、従兄同士の幼馴染み。
春に母を亡くした少女は、今まで住んでいた祖父の家を離れ、父の元へ身を寄せることになった。当然、毎日のように遊んでいた二人は離ればなれになる。それを拒み、彼女はとんでもない暴挙に出た。夜が白み始めた頃、一人で屋形を飛び出し、この丘に身を隠した。
二人だけの遊び場だった、この場所を知っているのは、迎えに来た少年だけ。
(ここにいれば、もう一度彼に逢える)
そこまで計算しつくしての行動だった。
「入鹿は、私と離れても平気なの?」
責めるような口調で少女が言う。
(平気だったら、あんなに必死に探すものか)
少年は心の中で、異を唱えるが、離ればなれの運命を、彼にはどうすることも出来ない。
想いの強さは、大人と変わらない筈なのに、それを形にする力がない。
自分の幼さに歯噛みしながら、少年は彼女の右手を握ると、強引に立ち上がらせた。
「こっち来て」
有無を言わせない口調で言うと、彼は丘の中央の見晴らしのいい場所まで、彼女を引っ張った。
ここに登ると、飛鳥全体の景色が見渡せる。丘をめぐるように流れる飛鳥川、並び立つように聳える畝傍・耳成・香久の三つの山。
額田部の大王の坐す(います)小墾田宮、丘の上からでも、庭の青々とした池が眩しい祖父の屋形。
一つ一つの建物全て、誰の住居か答えられる程、この中のことなら何でもわかる。この眺望が、彼と彼女の世界の全てといっても、過言ではないのに。
彼女がこれから向かう斑鳩は、どんな場所なのか、少年にも少女にも、想像がつかない。
「斑鳩は何処?」
「あの山のずっとずっと先」
少女の問いに、少年は指をさして答える。
「遠すぎる」
絶望の呟きを少女は遠慮なく声に出した。
「会いに行くから」
「本当?」
潤んだ瞳を目一杯見開いて、少女は少年を見つめた。真っ直ぐに彼を射抜く曇りのない視線。いつもこの目で見られると、少年の方が照れ臭くて先に視線を外してしまっていた。
苦手なのだが、大好きな目。だって彼女が、こんな目で見るのは、自分だけだから。
だけど、暫くこの眸もお預けかと思うと、逸らすわけに行かず、じっと受け止めて、袖の中の彼女の手を取った。
「繋いだ手が離れても、気持ちまで離れるわけじゃないだろ?」
彼女に向けてるのか、自分に言い聞かせてるのかわからなかった。気持ちを伝える言葉を紡ぐのは苦手な彼だが、最後だという切羽詰まった思いからか、するすると台詞が出てきた。
「気障」
彼女は耳を紅くしながらも、そう彼の言葉を評するとクスリと笑った。その微笑に、勇気を得て、更に言葉を連ねた。
「だから――、他の奴のものにならないで」
少年の独占欲を剥き出にした台詞に、片岡は更に耳朶から項までもを紅く染めて、恥ずかしそうに俯く。けれど、次の瞬間顔を上げて、強い目で少年を睨めつけた。
「私が他の誰に…」
心外だ、と抗議をしようとする彼女が、愛しくて離れがたい。迫る別れに抗いたくて、思いを封印するように、彼女の唇にくちづけた。
驚いて何度も瞬きしてる彼女の手を取って、さっき自分が全力で駆け上がった坂道を、今度はふたりでゆっくり歩く。残り僅かな時間を噛み締めるように。
そして、祖父の屋敷の前で、どちらからともなく、手は離れた――。
蘇我入鹿…祖父は蘇我馬子、父は蘇我毛人。飛鳥を牛耳る蘇我大臣家の直系のぼんぼん
片岡女王…厩戸王子の娘。同母兄に山背王。母は刀自古郎女なので、入鹿と片岡は馬子を祖父に持つ従兄弟同士になります。