どどめ色
※ハーメルンにも掲載しています。
恐怖体験というものは、それが事故や事件以外の
類であるならば、往々にして不可思議な
体験を指すことが多い。世間一般的な常識の
範疇から逸脱したこの体験を、人々は
怪奇現象だの都市伝説だのと言って持て囃す。
気持ちはわかる。現代の人間は科学という一種の
宗教によって超自然的な現象をも科学を以って
解明できるという一種の盲信染みた現代では、
かつての人類たちが神秘の中に見出した畏れの心を
持ち得ず、恐怖というものを理解しきれない。
いや、死や人間関係などから生じる不安による
恐怖ならば経験するものは多いことだろうが。
それとは別に、人間の理解の外からやって来る
一種のドロドロとしたような恐怖を、全て科学という
万能にも見える不完全によって証明できる、そんな
全能感に浸る心が見え隠れする現代社会の人間では
感じることができない。
だからこそ、起伏の少ない人生に多少の彩りとして
未知なるものからくる恐怖を味わいたいと考える。
一種の娯楽と捉えることが一般的な考え方だ。
だが、それがまさしく神秘の果てからくる
未知なるものだとすれば、果たして正気を
保てるのだろうか? それは私にはわからない。
ただ経験者からすれば、それを保証することはまずできない。
人は、果てより来る神秘や未知には抗えず、
ただ原初の本能に根ざす畏れ、或いは恐れを
胸に掻き抱き、ただそれが過ぎ去るのを
じっと待つことしかできない。
私が経験した時もまさにそうだったから。
既に記憶の片隅に封じ込めていた、
私の人生で最も不思議にして最も恐ろしい
経験を、この場を借りて語らせて頂こう。
季節は夏。私は当時、丁度中学生二年生だった。
当時の私は、白黒がはっきりつかないような
ことや曲がったことが大嫌いだった。
それこそふとした言葉や単語にさえ嫌いという感情を抱く
潔癖にして少々異常な人間性だった。
クラスメイトからは"鉄の女"などと揶揄され、
親しい友人などは少ない、と思いきや意外にも
男女ともにそれなりには慕われていた。
さすがに、多少なりとも常識的な面はあったので
ひっきりなしに小さい悪事を糾弾するような
気が触れたような人間ではなかった。
もっとも、当時はチャラチャラとした不良とも
背伸びしたいだけの馬鹿ともつかない人種が
クラスには数人は存在しており、そういった輩とは
よく衝突を起こしていた。
「どうしてこう、奴らは不良としての美学がないのだ」
ある夏の日、私の記憶が正しければ初夏を過ぎてすぐの頃だ。
放課後に私は友人の一人と共に帰宅の途につき、そんな愚痴を
漏らしていた。
一見矛盾しているとも取れる私のこの一言は、
その実矛盾など孕んではいない。
私はあくまで曲がったことが嫌いな質であって、
正義感が強いだのといったような人間ではない。
一本筋を通す不良にはむしろ一目置いている。
しかし、不本意ながらクラスメイトである自称不良共は大嫌いだった。
なにせ、やっていることがあまりにもちまちまとしていて、
どう見ても情けない連中でしか無かった。
ちょっと周囲より悪く見えるように校舎の裏で煙草をこっそり
吹かしていたり、腰まで下げたズボンをさぞかっこいいように
平然とした顔で歩いていたり。
煙草を吸いたいなら教師の前でも堂々と吸えばいい。
そのほうが度胸があって、好ましく思える。
だが、奴らは隠れてコソコソやっており、ガムや口臭剤などで
誤魔化したりしている。それだけ準備よく出来る頭があるなら、
何故そんな阿呆なことをやっているのか・・・。大方、隠れて
吸っていることがバレないことを棚に上げて影で教師を馬鹿にしたり、
単純にスリルが楽しみたいなどといった理由だろう。
そんなにスリルが欲しければヤの付くお仕事でもすればいい。
学生という安全圏でローリスクで娯楽に興じたいなどという
発想は私には理解できない。理解したくもないが。
腰パンとてそうだ。何故下着を晒すのがかっこいいと思えるのか。
正直女子はそのセンスに引いてしまっているし、女子相手を
想定していないのだろうか。もしそうなら、相手は同性ということに・・・。
「・・・い・・・おーい、五月?」
「ん? ああすまん、どうも不良のことについて考えていてな。
意識が遥か彼方へ宇宙旅行していたようだ」
「火星には行けた?」
「いいや。だがあの軟派な連中が腰パンをする理由の仮説が出来た」
「どんな?」
「女子相手のものかと思っていたのだが、女子はアレをセンスがおかしいと
一蹴しているし、だとすると同性、つまり男相手にやっているのではと」
「は?」
「つまりだ、奴らは多分ゲイなのではないか?」
「・・・五月、私も長らくアンタの親友やってるけど、そこまでとは
思わなかったよ。やっぱあんたどっか螺子が飛んでるわ」
「失敬な。学校一の模範生徒とまで言われる私がおかしいなど、どんな冗談だ」
「・・・もういいや」
そういう親友の目は、どこか死んだ魚のようだった。
友人と別れた後、私は一路帰宅の途を辿っていた。
私の家までの道筋では、特にこれといった寄り道スポット
などはなく、普段なら家まで一直線に帰っていた。
そう、この日だけは違った。
偶々順路である道路が工事で封鎖されており、
やむなく別のルートを使って我が家へと向かうことにした。
私が滅多に使わない、我が家へのもう一つの道筋。
何故使わないかと言われれば、人気が少なく、
万が一不審者に襲われたりすればかなりまずいから。
そして途中にある林の近くを通りたくないから。
はっきりしないことが嫌いな私にしては随分と曖昧な
表現だが、私自身よく分からないから仕方がないのだ。
なんというのだろうか、とても嫌な感じがするのだ。
言葉に出来ない様な、抽象的ながらも己の本能に
警報を鳴らさせるような、そんな雰囲気がする。
だからこそ、私はここに近寄ることが滅多にない。
この日も、私はなるべく足早にここを通り過ぎるつもりだった。
だが。
「・・・ん?」
気づけば私は、通り過ぎたはずの林の前に立っていた。
相変わらず嫌な感じが犇々《ひしひし》と伝わってくる。
何故? きちんと林の前を通り過ぎたと思ったのに。
急ごうと心が急いた結果、幻覚でも見たのだと私は判断し、
足早に自宅へと向かう。だが。
「・・・どういうこと・・・」
またしても林の前。同じように何度も何度も走っては
林の前。まるで同じ場所をグルグルと回っているかのようだ。
「・・・どうして!?」
突然場面が変わったり、そういった違和感はない。
だというのに、私はいつの間にか同じ場所にいるのだ。
「いや・・・いやぁ・・・」
得体のしれない状況に恐怖する。だが、怖がったところで
誰かが助けてくれるわけでもない。
既に黄昏時。人の気配は全くといっていいほど無い。
途方に暮れていたその時。
ゾワリと、背筋を悪寒が走った。
思わず林の方をみる。風に靡いて木々が揺れ、
ザワザワと木の葉の擦れる音がする。
背筋を冷や汗が伝う。逃げ出したい。
そんな気持ちだったが、この状況では
どこに逃げようと同じだった。
林の奥をじっと見つめる。風はますます強くなり、
木の葉が舞い、木々が大きく揺れる。
その刹那、ほんの一瞬だけ。
わずかに残った夕日の残滓が林に差し込む。
「・・・え?」
林の奥に、かろうじてだが何かが見えた。
暗くてよくは見えないが、周りの木々よりも大きい。
大きな樹木かとも一瞬思ったが、樹木ではない。
あそこまで大きな木はこの辺一帯に生えていない。
岩か何かだと考えたかったが、私の本能がそれを否定する。
あれは危険だと。あれは関わっては駄目だと。
気づけば、あれほど吹き荒れていた風が、ピタリと
止んでいた。頬を撫でる程度の凪すら吹いていない。
辺りが静寂に包まれる。おかしい、この時期なら
蝉や蛙の泣き声がしてもいいはずだ。
そんなことに気を取られていると。
林の奥に見えていたナニカが、大きくなっていた。
否、大きくなっていたのではない。近づいていたのだ。
「っ!」
先程は林の奥深くだったので、かろうじて差し込んだ夕日で
ぼんやりと輪郭が見えた程度だったのだが。今は夕日がなくても
肉眼でしっかりと捉えられている。
思っていた以上に大きい。そして、先ほどと違って分かったことがある。
あいかわらず薄暗いせいでよくはわからないのだが、
まるで人のような輪郭をしているように見えたのだ。
「なに・・・あれ・・・」
私は言い知れぬ不安に襲われた。周囲は静寂に包まれ、
自分の呼吸音さえ林の奥へと伝わっているのが分かる。
だが、林の奥からは。人のような何かからはそういった
生命が起こす音が聞こえてこない。
代わりに聞こえるのは、ぴちゃぴちゃと水が滴るような音。
変だ。あそこは林の中。川なんて流れてないから川から上がった
なんてことはないはず。それにここ最近は快晴続きだったので
雨も降っていないからそれも違う。ならばなぜ。
そう考えてナニカの口元あたりをなんとなく見て。
すぐに疑問が解決した。口元がわずかに動いているのが
見えたのだ。あの水音は、ぴちゃぴちゃと唾液が口の中で
跳ねる音だったのだ。
理解してから数瞬後、私は更なる寒気を覚えた。
よくよく聞いてみると、水音に混じって何かが聞こえて
きたのだ。何かを喋っているようだ。
耳を凝らし、その音を拾おうとして、
『くい・・・くう・・・はら・・・』
背筋が凍る様な声だった。否、声ではない。あんなものが
声であってほしくない。ビュウビュウと、隙間風のような
掠れた声のような何か。それがかすかだが聞こえた。
「いや・・・いやぁ・・・!」
不安定だった心が不安を増していく。胃に石でも入っているのかと
思うほどに重さを感じる。
体中から嫌な汗が吹き出し、顔を伝って目に入ってしまう。
反射的に目を擦ってしまい、一瞬だが視界が途絶える。
そして、再び視界が開けた時。
「え・・・?」
ナニカが林の入口近くまで来ていた。草がボウボウと茂っている
にも関わらず、音一つ立てずに近づいたというのか。
近くにいるせいで、先程よりも更に鮮明にナニカが見える。
先程は人間のような輪郭のみが見えていたが、よく見れば
背中から腕のようなものが見えた。おかしい、人間なら
腕は三本もない。次に理解したのは、魚のような生臭さと、
微かに嗅ぎ取れる血のような鉄臭さ。
夕日はもう沈みきってしまい、相変わらずナニカがどんな姿を
しているのかは分からない。だが。
先ほどまで聞き取れなかった言葉のような何かを、
今度ははっきりと聞き取れた。
『くいたいくいたいくうふくくうふくはらへったはらへった』
「ひっ!?」
ビュウビュウと隙間風のような音で発せられる言葉のような、
それでいて言葉とは思えないような怖気を感じる音。
気づけば、私は百八十度反転して走り出していた。
「何なの・・・何なのあれは・・・!」
十と余年、色々な経験をしてきたがこんな気味の悪い体験は初めてだった。
走り続けてどれぐらい経っただろう。数分走っただけなのだろうが、
私には数時間にも思える時間だった。ゼイゼイと息を切らせ、
私は周囲を確認しつつ、安堵した。
どうやら、あのナニカは私を追っては来ていないようだ。
近くの街灯の明かりを頼りに、ここがどこなのか確認してみると、
どうやら我が家の近くにあるトンネルの入口付近のようだ。
あのループから抜け出せたらしい。私は先ほどの恐怖を
払拭できるほどの喜びに包まれた。家まで後少し。
それが満身創痍な私にとってどれだけ喜ばしい事実か。
故に、私はそのままトンネルの中へ進んでしまった。
トンネルの中は、いつものように明かりがついておらず、
不気味な黄色い蛍光灯の明かりがチラチラと見える程度。
私は、トンネルの整備か何かのせいだろうと楽観的に考え、
そのまま脇目もふらずにトンネルを走り続けた。
だが、走り始めて数分。私は再び違和感を感じた。
いくら走っても、トンネルの出口に辿りつけない。
「どうして・・・どうして出られないの!?」
まるでトンネルが私の走りに合わせて伸びているようだ。
その内、疲れで足を止めて一息つく。
トンネルの壁によりかかり、蹲ってしまう。
「どうして帰れないの・・・もういやぁ・・・」
不可解なことばかり起き、私はついに泣きだしてしまった。
ひとしきり泣いた後。
ぴちゃぴちゃ。
「!?」
先ほどの、怖気を感じたナニカが発していた、あの音。
恐る恐る、私は走ってきた方を見る。そこには。
『はらはらはらはらへりへりへりはらはらへりくうくうへり
へりはらはらへりくうへりはらはらへりへりくうへりへりへりへり
はらはらはらくうくうはらはらくうくうへりへりくうくうくうくう
はらはらくうくうへりへりくうくうくうくうへりはらはらへりへり
はらはらはらはらくうくうへりへりへりへりはらへりへりへりくう
はらはらくうくうはらはらくうくうはらはらはらくうくうへりはら』
「ひ・・・ぃ・・・ぁ・・・」
恐怖で涙が止まる。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
脇目もふらずに逃げ出す。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになり、
恐怖のせいで更に酷い状態になる。それでも気にせず、
我武者羅に走り続ける。
――――そして。ようやく私はトンネルから出られた。
「でぐ・・・ち・・・?」
一瞬出られたという事実に呆ける私。しかし、徐々に思考が
復活していくと。
「帰って・・・これたんだ・・・」
逃げ切れたという事実による安堵のためか、腰が抜けてしまう。
「うぇ・・・ひっ・・・ぐす・・・」
その時だけは、恥も外聞もなく泣いた。一生分泣いたのではないかというほど。
落ち着いた私は、一直線に自宅へと向かった。そして。
目の前には、ようやく自宅の姿があった。
灯りはついている。家に人はいるようだ。
私は汚くなっている顔を拭こうともせず、自宅の扉を開けようとし。
ぴちゃぴちゃ
「え?」
背後から、聞きたくなかった音。
『お・・・お・・・はら・・・へり・・・』
頬を汗が流れゆき、アスファルトの地面に滴り落ちる。
私は、絶望を顔に貼り付けて振り向き。
『はらへりへりくうはらはらくうくうへりへりくうくうくう
はらはらはらへりへりへりはらはらへりくうくうへりくう
はらくうくうはらはらくうくうへりへりくうくうくうくう
はらはらくうくうへりへりくうくうくうくうへりはらはら
へりくうはらはらくうくうへりはらへりへりくうくうはら
はらはらへりくうくうくうくうへりへりへりはらはらはら
くうはらはらへりへりへりはらはらへりくうくうへりくう
はらくうくうはらはらくうくうへりへりくうくうくうくう
はらはらくうくうへりへりくうくうくうくうへりはらはら
くうくうへりはらへりへりくうくうへりへりくうくうくう
へりへりくうくうくうくうへりはらはらへりへりくうへり
はらはらへりへりはらはらへりへりへりはらはらくうくう
へりくうくうくうくうへりへりへりくうくうはらはらくう
くうへりへりくうくうくうくうくうはらはらくうくうへり
へりはらくうくうへりへりくうくうくうくうはらはらはら
はらはらくうくうへりへりくうくうくうくうはらへりへり
はらはらくうくうへりへりくうくうくうくうへりはらはら
へりくうはらはらくうくうへりはらへりへりくうくうはら』
「は・・・はは・・・」
目の前には、赤黒い歯茎を覗かせ、くすんだ色をして鋭く
尖った歯が不揃いに並んだ、口元と。
ブヨブヨとした皮のようなものが垂れ下がった肌と。
言葉で言い表せられないような色。
そこで、私の意識は途切れた。
目が覚めると、私は病院の真っ白な病室の中にいた。
ゆっくりと体を起こし、寝ぼけた頭を叱咤して、
昨晩何があったのかを思い出そうとする。
そして、それを思い出し。私は恐怖と、
そして安心によって大声で泣いた。
声に驚き、医者や看護婦らしき人達が現れ、
その中に両親の姿が見えて更に泣いてしまって。
ようやく落ち着いた後、私は両親に抱きしめられたまま
話を聞いた。気絶した後、両親が家の前で私を発見し、
慌てて救急車で運んだらしい。
何があったのかと聞かれ、私は正直に話そうかどうか
迷い、それでも正直に話すことにした。
最初は、私が錯乱状態で幻覚でも見たのだといったが、
私の鬼気迫る言葉の数々に、さすがに何かあったのだと
理解はしてくれたようだ。そんな時、私が倒れたと聞いて
見舞いにやってきた祖母が現れた。
祖母にも同様のことを話すと、
「はぁ、そりゃあおめぇ・・・『どどめ様』に出会っちまったんだなぁ」
「『どどめ様』・・・?」
「んだぁ。『どどめ様』っちゅうんはのぉ、日本のあちこちで
悪ささ働くもんだぁ」
祖母が言うには、どどめ様は、昔から人づてに伝わっている
怪談のようなものらしい。伝承や文献にすら乗ってない、
でも何故か昔の人々が知っているという、奇妙な存在だ。
どどめ様は、常に口元からぴちゃぴちゃと水音を立て、
ぶよぶよとした皮が垂れ下がり、目を離した隙に
見つかった相手に音もなく近づく。
そして、人によって様々なことをされるらしい。
何もされなかったり、頭から丸かじりにされたり、
山へと拐われたり。とにかく人によってまちまちだ。
だが、一貫して共通しているのは肌の色は人間のそれではなく、
言葉にもできないような気味の悪い色だという所。
だから、様々な色を指し、あまり良い表現として使われない
どどめ色からとって、どどめ様。
私も、昨晩の記憶を掘り返して、その色を言葉で表現しようと
試みて、結局できずじまいだったが、どどめ色と表現すると、
何故かしっくりと来た。
その後、祖母の知恵を借りて、どどめ様に出会わないようにした。
どどめ様は、滅多に暗がりから出てこず、林のような場所を好むらしい。
だから、私は中学を卒業し、高校生になって東京に行くまで、
二度とあの林の前を通ることはなかった。
大学を卒業し、就職祝いのため実家に戻り、あの林のことを思い出して
両親に聞いてみると、開発が進んで更地になっているらしい。
それでも、私は二度とあそこには近づかないだろう。
二度と、あんな目には会いたくないから。