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つい先ほどまで混雑していた店内には、今はそれほど客はいない。店内にいるのは数人だけで、それでも、ざわめきは止められるようなものではなかった。
その場にいる人の全ての視線が、一瞬でそこに吸い寄せられた。
スターの持つ圧倒的な存在感とでも言うべきものが、そこにあったからだった。
「……ああ、すみません。ちょっといいですか?」
自分に見とれてその場に動けずにいる人を、その独特の甘い声と優しい物腰で、だけど有無を言わせない響きを含んだ言葉で押しのけて、彼は、まっすぐに美雪の所へ来た。
(ええっ、どっ、どうしよう)
うろたえている美雪を、学校帰りに寄ったらしい制服姿の女子高生が何か言いたげな瞳で睨みつける。
突き刺さって来る、視線。その意味することは、よくわかるような気がした。
そこにいるのは、普通だったらこんな所にいるはずのない、手の届かない世界にいるはずの芸能人なわけで。
そういう人が、自分とさして違わなそうな普通の高校生に関心を持っているように見えたとしたら、それは、嫌な気分にもなるだろう。
美雪だって、当事者でなかったら同じように思ったかもしれない。
どうしてあの子に? と、あまりいい印象は抱かないに違いない。
だから、その刺々しい視線の意味はよくわかる。
けれど。
そんな状況では、なかった。彼女たちが余計な心配をして想像しているような、そんな、お気楽で微笑ましい状況では、全然なかった。
どちらかと言うと、その逆だった。
冴えた瞳というのを、初めて見た気がした。
よく小説などで使われているけれど、今ひとつピンと来なかったその意味。きっと、こういう眼差しを言うのかもしれないと、そんなふうに思わされた。そして、そういう瞳をした男の人が纏う雰囲気が、鋭利なナイフみたいに思えるなんて、美雪は考えたこともなかった。
それに、今までに美雪が知っている水原慎は、もっと優しい瞳をした人だった。だから、その雰囲気の違いに戸惑っていた。そして、逆に、彼の見せる別の部分がわかったことに、ちょっとだけ嬉しくなったりもしていた。
だけど、その瞳は美雪のことなど見ていなかった。
きっと、正面から彼と向かい合っていた美雪にしかわからなかったのかもしれない。けれど、彼が見ていたのは美雪ではなかった。
思い当たるのは、杉浦だ。杉浦であるとしか、考えられなかった。
杉浦がここに来て、それを追いかけるようなタイミングで、慎は現れた。
杉浦が関わっているトラブルというのは、もしかすると、この前のライブ会場での言い争いとも、関係しているのかもしれない。そう、思って。
「杉浦は? どこにいるかわかる?」
慎がそう問いかけて来たことで、美雪は、自分の予想がそれほど間違っていないらしいことに気づく。
だが、どう答えたらいいかわからない。
答えに困ってもじもじしていると、慎は気がついたように額に手を当て、少し息をついた。
「……ごめん、突然。杉浦、ここに来たよね? スタジオから追いかけて来たんだけど、あいつはバイクで、俺は車だったから撒かれてさ。住所はうろ覚えだったけど、この店の名前は覚えていたからね、ナビが教えてくれた。で、いるんだよね? ここまで来て、あいつが行く所と言えばこの店しかないんだから」
「えーと、よくわからないんですけど……」
美雪には、そう答えるしかなかった。
たぶん、慎は確信を持ってここに来ている。杉浦がここに来ていることを、知っている。だが、強引に引きずり出したくないから、落ち着いて話をしたいから、こういう言い方をするのだということを、美雪は、何となく感じていた。
それでも、杉浦を庇いたいと思ったのだ。
「……どうして隠すのかまではわからないけど、俺、あいつに話があるだけなんだ。だから、教えてよ。あいつ、ここに来ているんだよね?」
いつも歌声で聞くような、甘くて優しい声。それとは正反対に、断定的な強い台詞。そして、彼の冴えた瞳が美雪を捕らえている。
彼は、美雪の憧れ。彼は男としての理想の人だって、思っていた。けれど、今は。
彼よりも、杉浦の言葉だけを守りたい。そう、思って。
ずっと、思っていたことがある。
単なるファンではなくて、間近で慎を見ることができたら、幸せだろうな、と。
だけど、その願いが叶って会うことができるのだったら、もっと気楽なシチュエーションで会いたかった、と、泣きたくなる。
どうしよう。
慎は、美雪が何を言ったとしても、納得して帰りはしないだろう。諦めないだろう。その程度なら、わざわざここまで来たりしないはずだから。
「ちょっと!」
そう言って、後ろから慎の肩を強く掴んだ人影は、何故か、杉浦と一緒に奥の部屋に入ったはずの恵梨だった。おそらく、あちらから裏口を回り、表から入って来たのだろう。
助っ人が来たことにほっとして、美雪は息をついた。
言ったら悪いのかもしれないけれど、怖かったのだ。
恵梨は慎の肩から手を離すと、妙に他人行儀な硬い声で言った。
「申し訳ありませんが、お引き取り願えますか。ここはお店ですし、他のお客さまの迷惑になりますから。それに、あなたがここに来る必要もないでしょう?」
「必要はなくても、理由はあるよ。俺は、杉浦に用事があるだけなんだ。それは、君にもわかっているはずだと思うけどね。あいつがここに来ていることは、わかっているんだ。他の人の迷惑になるって言うんだったら、さっさとあいつを出せば解決するんじゃないのか?」
「……お金に任せて、興信所まで雇って人の行動を調べているんですよね? ご苦労様です。でも、晃はあなたに会いたくはないと思いますよ」
恵梨の言い方にカチンときたのか、慎は尖った声で言い返した。
「それは君の言い分であって、杉浦がそう言っている証拠があるわけじゃないだろう? 第一、俺がその程度で諦めるとでも思ってる?」
「そんなこと、どうでもいいじゃないですか。ひとつだけ、教えてあげますよ。晃はね、もうあなたに関わりたくないんですよ。あれだけ彼の近くにいたのに、あなたにはまだわからないんですか? どんな気持ちであいつがあなたを見て来たか、それさえも理解できませんか?」
投げつけるような、そんな台詞。
杉浦と慎との間には、一体何があったのだろう。
その関係性さえわからない上に、そこにいきなり飛び入りして来た恵梨の言葉も、美雪には謎を深めるばかりだ。
「それは、俺が杉浦を裏切ったって言いたいのか? そして、あいつのことを忘れていたって?」
押し殺した声。恵梨の言葉を表面上は否定しながらも、それでも否定しきれないような、そんな問いかけだった。
恵梨は答えなかった。
答えない代わりに、出て行って欲しいと態度で示した。それを見て、慎は溜め息をつく。
「……あのことに関して、弁解をするつもりはないよ。事実だからね。でも、俺は後悔しているんだ。ずっとあいつの代わりを探していた。だけど、わかったのは杉浦じゃなけりゃ駄目だってことだけなんだよ」
最後の部分に力を込めて言って、慎はぷいっとお店から出て行った。
そんな険悪なムードの中で会計に来たお客さんは勇者だと、美雪は思わずにはいられない。そして、それをついつい受け取って普通に会計をしてしまった自分も、相当だ。いや、目の前で繰り広げられていることが、どこか別世界のもののように思えてしまったからに他ならなかった。
そうしてお客さんがいなくなったのを見計らって、美雪は恵梨の方に視線を向けた。ともかく、事の顛末を聞きたいと、そう思ったからだ。
「……あの、恵梨さん?」
「ちょっと、塩持って来て、塩!」
奥のドアを叩いて、恵梨はいきなりそう叫ぶ。
恵梨は、一体慎の何が気に入らなかったのか、美雪にはワケがわからない。確かに、ムードはあまりいいものではなかったけれど、人が帰った後に塩を撒こうとするというのは、ただごとではない。
奥から恐る恐るといった様子で杉浦が出てきて、恵梨が要求した塩の容器らしきものを差し出した。それを見て、恵梨は眦を吊り上げる。
「本当に持ってくるバカがどこにいるのよ!」
「うえっ!? 持って来いって言ったのは恵梨だろっ」
「全く、私の可愛い美雪ちゃんにこんな気の張ることをさせるなんて、どういうつもりなのよ! 大体、あの人は晃の管轄じゃないの? どうして、私がこうして面倒を見なければならないのかしらね? きっと、向こうもそう思っているんだろうけどね。正直、私はあんたのことなんかどうでもいいけど、美雪ちゃんが困るだろうから喧嘩を売るみたいになっちゃったじゃない。後は知らないわよ」
「っつーか、お前のその剣幕で客が減るかもしれないことの方が俺は心配だ」
「……何か言った?」
「いえ、何でもないです」
杉浦は肩をすくめ、おどけた様子で答える。この二人は仲がいいのか悪いのか、よくわからない。
「あの……恵梨さんって……、その、杉浦さんと付き合っているんですか?」
もしそうだったらどうしよう、などと考えながら美雪が聞くと、恵梨は目をまるくした。それから、大慌てで首を横に振ってそれを否定する。
何だか、心底嫌そうな態度だった。
そんな態度を喜んでいいのか悪いのか、何とも言えない美雪である。
「私が? 晃と? やぁだ、やめてよ。こんなの好みじゃないし。お金もらってもお断り。心配しなくても、私と晃は友だち以上の関係じゃないわよ。何て説明すればいいのかな。あのね、私が一番大切にしていた人の、大切な友だちだったの。だから、私にとっても大切な友だちに違いはないってこと。男女の恋愛感情は、一切抜きよ」
美雪があからさまにほっとしたのを見て、恵梨は悪戯が成功した子供みたいに笑った。
「安心した?」
こっそりと耳打ちされた言葉に、美雪は顔を真っ赤にする。
とは言え、自分が杉浦のことを気にしているのが、どうしてばれたのかは気になる。
後から恵梨に聞いたら、美雪はすぐに顔に出るからだと笑われてしまったのだけれど。