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「美雪ってば、バイト始めてから付き合い悪くなったんじゃない?」

 自分の席でもないくせに涼しい顔で美雪の前の席に陣取って、美雪の顔を覗き込むようにして美雪の親友であるところの鈴子すずこが言った。

 もちろん、休み時間だ。

 クラスメイトの鈴子とは席が離れているが、休み時間になると必ず彼女はここに来て、次の授業の先生が来るまでここに居座っている。一体、何をしに来ているのだろう、と思う時もあったりする。さして重要な用事があるというわけでもないのに、ずっと喋り続けている彼女のパワーは圧倒的だ。

 たまに、ついていくのが精一杯、という時もあるのだけれど。

 このパワーはどこから来るのか、教えてもらいたい。彼女の話を聞いている美雪は、と言えば、今の前の時間の授業のせいで萎れている。何しろ、この世に存在すること自体が許せないと思っている数学だったのだ。そこで気力も体力も使い果たした後だ。自分の机に突っ伏してぐったりと寝ているような始末で、鈴子のテンションについて行けるような余裕はあまりない。

 そんな美雪を無理やり起こすようにして、言う台詞。

 全く、思いやりのない親友だ、と美雪は口を尖らせた。

 とは言え、本気でそう思っているわけではないのだけど。

「そう見える?」

「別に、どこがどうっていうことじゃないけど、ぼーっとしていること、多くない?」

「いや、それは元からだと思うけど……」

「……普通、自分からそう言わないって」

「言わないか」

 やっぱ変だよ、あんた。と、鈴子は微妙に冷たく付け足した。

「あ、そういう話をしている場合じゃなかった」

 鈴子は妙に慌てた様子で、ポケットの中から封筒を引っ張り出した。

「何?」

「何、じゃないでしょ! チケット。今回、私の名前で取った分。昨日届いたから、先に渡しておこうかと思って」

「あ、ありがとう! 愛してるよ、鈴!」

 それは、美雪の大好きなミュージシャン、水原慎のライブのチケットだ。

 渡された封筒には、彼のファンクラブのロゴが大きく印刷されている。その宛て名は、鈴子のものだった。

 それは、慎のライブを見るためのチケットだ。正直なところ、今、このチケットの入手はとても難しい。ファンクラブに入っていたとしても確実にチケットを入手できるわけではないから、ファンでいるのも楽なことではない。だから、ファン同士で協力し合って取っていたりするし、美雪もその一人だ。

 たまたま、この高校で知り合った鈴子が同じように慎のファンだったことは、美雪にとっての幸運だろう。しかも、美雪と同様、人気が出る前からのファンだ。今でこそ慎のファンは多いが、知名度が上がる前から知っているファンは少なくもないが多くもない。そして、ライブにまで行こうという気概のあるファンを周囲で見つけることは、結構難しい。

 そもそも、彼のライブはチケットが取りにくいのだ。あまり大きなホールでライブをしない、ということが一番の理由だ。そんな理由で取りにくい上に、美雪くらいの年齢だと、ファンクラブに入っていない人も多いために、簡単にはライブに行く機会に恵まれない。実際、ライブで知り合いになった人たちは、ほとんどが年上のお姉さんで、大学生かOLばかりだ。

 美雪が好きになった頃はそれほど人気も出ていなくて、簡単にチケットが取れた。その頃はまだバイトもしていなくて、親からもらったお小遣いを貯めていた貯金を少しずつ下ろしてチケットを買っていた。あの頃は、こんなにチケットで苦労する羽目になるとは思わなかった。

 なのに、いつの間にか、彼は世間で大人気だ。チケット争奪戦とでも言うべき状況は、ツアーを重ねるごとにひどくなる気がする。時々、嫌になるくらいに。

 誰も知らないのも寂しいけど、皆が知っているというのも何となく寂しい。彼が、本当に遠くの人であることを再確認させられる気がして。

「美雪、今日のライブは学校から直行する?」

「そのつもり。着替えも持って来たし」

 そう、なのだ。

 実を言うと、今日も彼のライブがある。

 持っているチケットの番号は、そんなにいい席ではない。だけど、会場の中に入れるだけラッキーなのかも、とは思う。あまりの人気ぶりでチケット争奪戦がひどいせいか、会場の外には、チケットがないのに諦めきれずに来てしまう人たちがいっぱいいる。そんな人たちからの羨望の視線を受けるのは、いいような悪いような微妙な気分になるのだ。

「今日、新曲歌ってくれるかな?」

 既に心は会場に飛んで行ってしまっているらしい鈴子に、思わず笑いそうになる。

 その気持ちは、美雪も似たようなものだ。彼のライブを生で見るのは、半年ぶりのことだからだ。

 最後に彼を見たのは、前回のツアーの最終日、武道館2DAYS。

 それほど間をおいてはいないツアーではあるけれど、ファンとしては長い待ち時間になる。だから、はしゃぎたくなる気持ちはとてもわかるのだ。

 それでも、学校ではもう少し控えめにした方がいいのではないかなーと思わなくもない。

 そんなことを言ったとしても鈴子には、通じないかな。と、美雪は苦笑した。鈴子のいいところは、こういうところだったりするのだから。

「どうしたの、美雪。やけにボーっとしてるじゃない。あ、さては、バイト先に素敵な人でもいるんでしょ!」

「ち、違うってば!」

 焦って否定しながら、頭の中には杉浦の顔をしっかりと思い浮かべてしまっていたりして、美雪は勝手に顔が熱くなるのを感じてしまった。

(な、何だって言うの!)

 あの人がどれほどカッコよくても、今は全然関係ないはずなのに。

 第一、あの人とは昨日会ったばかりだし、何よりも今日はこれからライブだ。ライブに行く前に慎以外のことを考えているなんて、今までだったらありえないことなのに。

 昨日のイメージのまま、やたらにこにこと笑っている杉浦晃を意識の外に追い出して、美雪は溜め息をついた。





 目くるめく光の渦。ステージの上に立つ彼は、美雪たちとは別の世界に生きている人のようだ。

 一曲目からダンス・ナンバーのメドレーという、やや派手な構成。演奏に煽られて総立ちになった観客は、隣の鈴子が話しかけてくる声も聞こえないくらいの歓声で、耳が痛い。

 きっと、この瞬間。

 彼しか見えない。

 彼の声しか聴こえない。

 誰もが、そう思っているのだろう。

 ライブに来るたびに、思うことがある。

 この人をずっと見ていたい。この声をずっと聞いていたい、と。

 ステージの上。

 この会場の全てのファンの夢と憧れを背負って、彼は全身で表現する。彼の歌を。

 そして、曲間のないダンス・リミックスで四曲。興奮状態の客席を宥めるように、彼がマイクを取った。

「皆さん、こんばんは! 東京でライブをやるのも久しぶりなんで、ちょっとだけ緊張している水原です。特に、このホールは今まで使ったことのない初めての場所だったんで、スタッフ共々頑張っちゃっているわけなんですが、今日は一日だけの特別を、今日来た人にしか見られないライブをお届けしますので、どうか最後まで楽しんでいって下さい!」

 相変わらずの決まり文句に、客席のあちこちから黄色い悲鳴が飛んでいる。

 彼はくすくすと笑って、その声を制するような仕草をして見せた。

「はいはい、わかっているから静かに俺の話を聞きましょう。えーと、知っているとは思いますが、来月に新しいシングルが出ます。前回のツアー中からあたためていた曲で、まあ、ツアーの中から生まれた曲みたいな感じです。バラードでシングル、っていう試みも久しぶりで、自分の中でも冒険みたいな部分もあるんですが、どんな曲でも俺にとっては同じくらいにいい子たちなんで、気に入っていただけると嬉しいです。では、聴いて下さい。タイトルは、『クリスタル・ラビリンス』」

 しっとりと流れ出すイントロ。絡みつくようなギターのメロディーが、とても切ない。

 この曲に込められた彼のメッセージは、一体どんなものなのだろう。

 そう、思いながら。

 そして、その時、確かに慎は誰かを探すように客席を見渡していた。

 誰を探しているのか、どうして探そうとしているのか、そんなことまでは、見ているだけの美雪にわかるはずもない。

 だけど、確かに感じていた。

 今日に限ったことではなくて、慎は、歌うことで誰かを探しているのかもしれない、と思ったことがある。

 情感たっぷりに歌い上げる、バラードの時。

 時折見せる、慎の眼差し。

 切ないような、悲しいような、複雑な想いを湛えたその眼差し。それは、彼を見つめるたくさんの瞳の中に、吸い込まれては消えて行く。

 そんなことを思い出した瞬間、そのイメージが昨日の杉浦と重なったような気がして、美雪は驚いて勢いよく頭を横に振ってしまった。

 どうしてここにあの人が出てくるのだろう?

 今はライブの真っ最中なのに、どうして別の人のことを考えてるいるのだろう?

 ほんのちょっと、会っただけ。ほんの少し、話しただけ。

 過ぎて行く美雪の日常の中の、一瞬にしか過ぎなかったはずなのに。

 それなのに、どうしてこんなにも気になるのだろう? その事実が、不思議でたまらなかった。

「それじゃ、後半戦行こうか! 飛ばすから、しっかりついて来いよ!」

 気づいた時には、中盤のアコースティック・コーナーが終わっていた。

 らしくない。他のことに気をとられて、慎の歌を聴き損ねるなんて。

 それでも、美雪は彼のことを完全に忘れることなんてできなかった。

 自分の中で、何かが変わって来ている。それを感じながらも、戸惑っている。受け入れられないでいる。

 そう思いながら、美雪はライブの方へと注意を戻した。

 光の洪水。

 その中から、慎は何かを伝えようとしている。

 一人で観客を総立ちにさせることのできる慎は、やっぱりすごいシンガーなのだ、といつも思う。

 もちろん、それにはバック・バンドのメンバーの力もあるわけだし、支える裏方の人たちだって頑張っている。ステージの全てが、彼一人の力でできているわけではない。けれど、それでも、この会場に集まった人のほとんどは、彼の歌が聞きたくてここに来ているのだから。

 ライブに行くたびに、彼の歌を生で聴くたびに、もっともっと彼のことを好きになって行く自分がいる。そうなることに、気づかされる。

 そして、どんどん贅沢な想いが出て来るのだ。こうして欲しい、とか、ああして欲しい、彼に対して叶うはずのない想いは増えて行く。

 それは、期待。

 いつだって最高のライブを見せて欲しい。いろんな想いは、そういう形で彼に向かっていく。そして、慎はそんな期待を決して裏切らない。

 彼は、そういうシンガーだった。

 今日のラストに歌ったのは、『さよならは言わない』というバラードだった。

 ここ最近はこの曲がラストに来るのが定番になっていて、この曲が終わらないとライブが終わった感じがしなくなっているくらいだ。

 すごく泣かせる歌だと、美雪は思う。初めて聴いた時には、本当に泣きたくなってしまったくらいだった。

 慎の魅力というのは、根本的にその声の甘い深みにあると美雪は思っている。その声の魅力を充分に活かした、甘く切ないラブ・ソング。透き通るようなメロディーの、バラード。

 それは、美雪の半端な国語能力では言い表せないくらい、素晴らしいものだと思えた。

「どうもありがとう! また会おうね!」

 二回のアンコールを終えてから、彼は大きく手を振って袖に消えた。

 客電がついて、明るくなったホールを人波に押されるようにして外に出た。

 駅に行こうとしてホールの裏に回って行くと、まだ興奮状態の女の子たちがたくさんいて、楽屋口で出待ちをしていた。

「ねえねえ、美雪。私たちもちょっと待ってみようか? ほんの少しくらいなら、見られるかもしれないし」

 その行列に少しばかりの興味がないこともなかったけど、美雪は鈴子のその提案に賛成する気にはなれなかった。

 何と言うか、そこにいる女の子たちの迫力が、普通じゃないほど怖かったのだ。

 とてもではないけど、美雪にはそこまでやるパワーは残ってない。大体、たくさんの女の子たちに混じってそんなことをやるなんて、恥ずかしくてできやしない。

 やんわりと断ると、少し不満げに鈴子は口を尖らせた。

 ……何でそんなに元気なんだろう、鈴子は。

 そこにいる女の子たちのパワーの強さに、ただ圧倒されるだけの美雪には、そこに混じろうなんて気はあまりなかった。

 確かに慎のことは大好きだったけれど、そういう対象として見ているわけではないのだ。純粋に彼の歌が好きで、声が好きで、ただそれだけだから、色めき立つ女の子たちの中に混じっていることに、耐えられるはずもない。

 そんなふうに考えながら、渋る鈴子を追い立てて駅へ急ごうとしていた、その時。

 楽屋口の扉が勢いよく開いて、そこから一人の人が飛び出して来た。

 一瞬、そこにいた誰もが目当ての慎が出て来たのかとざわめいていたけれど、そうではなかった。

 慎よりも、少し小柄な身体。栗色の髪と、不釣合いなほど濃いダーク系のスーツ。

 その場にいた、他のどの女の子もその人が誰なのかわからなかったけれど。

 美雪には、はっきりとわかってしまった。

 だって、その人は。

 昨日、バイト先で会ったばかりの、杉浦晃、その人だったからだ。

(なっ、何であの人がここにいるんだろう?)

 当然のことながら、美雪の頭に最初に浮かんだのは、その疑問だった。

 けれど、その答えなんてわかるはずもなかった。

「待てよ、杉浦!」

 そして、その杉浦を追いかけて楽屋口から飛び出して来た人影を見て、周囲の女の子たちは、更に大きなパニックを起こしてどよめいた。

 それも、当然だろうと思う。

 ついさっきまで、ライトを浴びてステージで歌っていた人が、見も知らぬ男を追いかけるように無防備に現れたら、ファンなら誰だって動揺するに決まっている。動揺しない方が、おかしいはずだ。 

 周囲のパニック(と言うか、悲鳴の大合唱だった)を見て怯んだのか、彼は、急いでそこに停まっていたタクシーに乗り込もうとした。その腕を咄嗟に掴んで引き止めて、慎はのめり込むように彼の瞳を見つめた。

「どうして逃げるんだよ……?」

 押し殺した低い声の問いかけに、杉浦は迷惑そうに眉をひそめた。次の瞬間、自分の腕を掴んで拘束していた慎の手を、乱暴に振り払う。

「……いい加減にしろよ。答えはNOだ。何度言ったら理解するんだよ?」

「何度言われても、理解できないね。その理由がどこにあるのか、俺が完全に納得できるまで説明してもらおうじゃないか。お前の上っ面な軽い台詞で納得して引き下がるほど、俺は人間ができてないからね」

「別に、今更、お前に理解してもらおうなんて思っちゃいない。俺が言いたいのは、余計なお世話だってことだけだよ。お前に言いたいことは、ひとつだけだ。俺のことは、ほっとけよ!」

 そう、怒鳴りつけてから。

 杉浦は、はっとした様子で周囲を見回した。

 その視線。

 美雪のそれと、杉浦の瞳。

 そのふたつが重なった時、杉浦が表情を変えた。

「美雪ちゃん……?」

 一瞬の呟きから伝わる、彼の動揺と、困惑。

 だが、それも一瞬のことだった。美雪が何のことやら理解できないでいるうちに、彼は尚も呼び止めようとする慎を無視して、タクシーに乗り込んだ。

 人ごみを縫うようにして通りに出て行くその車を、そこにいた誰もが無言のままで見送っていた。

 美雪はもちろんのこと、鈴子も、他の女の子たちも、今起きたことの意味は全然わからなかった。

 どうしてここにあの人がいて、どうして慎と言い争うようなことをするのか。

 そして、あの人は一体誰なのか。

 ひそひそと話し合う声が、周り中から聞こえていた。

 いつの間にか慎もそこから姿を消していて、誰もが帰るしかなくなってしまう。美雪たちは、首を傾げながらも駅へ向かう女の子たちに紛れた。

 彼は、誰なのだろう。

 あの人は、慎の知り合いなんだろうか。

 美雪の中で、いろいろな気持ちがぐるぐる回っていた。

 それでも。

 美雪は、自分が杉浦のことを大きく意識していることを、逆に知ってしまった。

 彼のことを、知りたい。

 そう、思っていた。

 そして、彼が美雪に電話をかけて来たのは、その日の深夜のことだった。

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