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「ねえ、君さ……」
彼が、そう言いかけた瞬間。
「晃っ! 美雪ちゃんはうちの大事なバイトなんだから、あんたなんかが話しかけないでよね!」
出て行ったとばかり思っていた恵梨は、まだドアの外にいたらしい。いきなり、ドアが開いて怒鳴り散らされた。
彼は焦って飛び上がり、手にしていたトングを床に落としてしまう。それは勢いよく転がって、派手な音を立てた。
「うるさいよ、五十嵐恵梨! 人を病原菌みたいに扱うな!」
恵梨に負けないくらいの大声で怒鳴り返して、彼は落としたトングを拾い上げる。
困ったようにため息をついて、美雪の方に向き直った。
「今の、なしね。別に、俺は悪い人じゃないから。誤解しないで欲しいな」
何も慌てて弁解しなくても、美雪の方は何とも思っていなかった。むしろ、珍しいくらいの恵梨の態度の方に驚いたくらいだ。
でも、面白い人だな、とは思った。
同じクラスの男の子たちとは、何かが違う。やっていることや言っていることは大差ない感じがするのに、どこか大人びた雰囲気が付き纏う。今まで、美雪が知らなかったタイプの人だ。
だけど、どこかで惹き付けられる感じがした。彼の何にそう感じたのかはわからないけど、確かにそう思った。
「君、美雪ちゃんって言うんだ。可愛い名前だね」
「……はあ?」
その話に、前後のつながりなどないに等しかった。
いきなり話しかけられた話題にしては、ひねりのなさすぎる台詞だ。
あんまりな内容に、美雪は答える声がひっくり返ってしまったくらいだった。
彼はそんな美雪を見て、くすくすと笑った。
「いいな、その反応。俺の周りにはいないタイプかも」
美雪は、その言葉に思わず真っ赤になる。
何か変なことを言われたわけでもないのに、何だかどきどきが増してしまったからだ。
意味がわからないし、何のつながりもないし、はっきり言って美雪に取っては唖然としてしまうような展開だ。
「俺ねぇ、杉浦晃ってゆーの。晃でいいから」
「……はあ」
やっぱり、この人は何かがずれているのかもしれない。
会話のテンポがよく掴めなくて、美雪は目を瞬かせる。困惑している、と言っても間違いではなかった。
けれど、不思議なことにちっとも嫌ではなかった。こっちの返答をまともに聞こうとしない強引な会話も、妙に気取った台詞も、普段だったら苦手だと思うような気がするのに、彼にはそれを感じない。感じさせないのかもしれない。
それがどういうことなのか、自分でもよくわからなかったけれど、そう思った。そして、ちらちらと彼のことを窺い見ながら、こっそり観察をしてみる。
さほど派手な顔立ちではないと、思う。
どちらかと言うと、近所の人のよさそうなお兄さん、と言う方が合っているかもしれない。けれど、いかにも目立ちそうな色合いで、それでいて仕立てのよさそうなその服装は、まるで彼のために誂えられたかのように似合ってしまっているから、不思議だった。
そして、やたらと細身だった。身長はそんなに高くないように見えるけれど、全体的なバランスが整っているせいか、それは欠点になってはいなかった。
正直なところ、美雪はメジャーな芸能人にはあまり詳しくない。ある程度は知っているけれど、詳しいことを聞かれたらお手上げなのだ。と言うよりも、水原慎以外のことはほとんど知らないと言っても間違いではない。
だから、もし、この人は芸能人なんだよと言われたら、きっと、納得してしまうだろう。そんなふうに思ってしまう。
「ねえねえ、君の名前も教えてよ!」
……でも、口は開かない方がいいかもしれない。
どこか子供っぽい喋り方は、彼のルックスにはあまり合っていない気もする。
そこまで考えて、彼の口調をどこかで聞いたことがあるような気がして首を傾げる。そして、すぐにその正体に思い当たって美雪はくすりと笑いを漏らしてしまった。
何のことはない。このパン屋に来るお母さんに連れられているような、子供の我儘だ。お菓子を買って欲しくて今みたいに喋っているのを、何度か見たことがある。
でも、それがおかしいという感じは、あまりしない。
美雪にとって、彼がとても気になる存在であることは、本当だった。
「私、久我美雪です。一応、ここでバイトしています。えーと、杉浦さんは、店長のお知り合いですか?」
「……お知り合いって言うか、何と言うのか。ま、そういうことになるのかな。それとね、俺、晃だから。よろしい? 杉浦さんなんて、堅苦しい呼び方は禁止」
「そうなんですか」
……て、ことは、と、美雪は考えを巡らせた。彼の言葉の後半は、はっきり言って聞いてやしない。
恵梨の正確な年齢を、実は知らないのだ。だが、二十代だと聞いたことがあるから、この人がそれよりも更に年下ってことはあまり考えられなかった。そうなると、彼は恵梨と同い年、もしくは似たような年齢、ってことだと推定する。
あんまりそぐわないなぁ、と美雪は思った。
「……あの、どうでもいいことを聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「今、おいくつですか?」
「年?」
「はい」
「……いくつに見える?」
急に意地悪そうな、にやにやとした笑いを浮かべて彼は聞いて来た。
こういう聞き方をするってことは、今、美雪がしたみたいな質問をよくされる、ってことなのだろう。そして、大体その推測は間違っていたりするのだ。
外見だけで考えるのなら、二十歳前後に見える。でも、制服を着てくれたら、高校生だって言われても信じてしまうかもしれない。
つまり、童顔であるということになるが、服装を変えればそうとは見えない。だから、考えられる年齢はどうしても幅広くなってしまって、美雪は黙り込んだ。
「……わかりません」
美雪が降参、の身振りをして見せると、彼は得意そうに鼻で笑った。
「ふふふ、俺は年齢不詳なのさ。強いて言うのならば、永遠の十八歳です。あ、嘘じゃないよ。そう思っているでしょ?」
彼の胡散臭い台詞を聞いて、確かに、美雪は素で「嘘だ」と思った。それを見破られたことが少し気恥ずかしくて、そして、何だか変な気分になる。
とは言え、この人がここで美雪に嘘をついても、何の意味もない。どちらかと言えば、からかって面白がっているといった程度だろう。
実際の年齢がどうであれ、彼はかなりの童顔であることは確かだった。
やっぱり、制服を着ていたら同類に見えるかもしれない。
そう、思ってしまう。
笑った感じが、すごく可愛く見えるし、そのおどけた口調も年齢を感じさせないのは事実で。
美雪は、この杉浦晃という人のことを、もっと知りたくなった。
年が離れているかもしれないなんてことは、あまり気にならなかった。
学校の友だちが聞いたら「怪しい」と言うのかもしれない。と言うか、美雪自身、何となく怪しいとは思う。けれど、そんなことは関係なかった。
彼は、美雪を変に子ども扱いせずに同じ視点で喋っていたからだ。
恵梨もそうだったが、そういうところが何故か嬉しい。
だから、彼のことを好きになれるかも、と思ったのだ。
恋愛をするなら、こういう人とがいいな、と。
もちろん、彼とは初対面だし、まさか、いきなりそういうことに発展するなんてことはあんまり考えられないことだった。けれど、それが現実になるのかどうかなんて、関係なかった。
ただ、この人と一緒にいられたら楽しいだろうな、とか、そんなふうに思っただけだった。だから、その後に続けられた彼の爆弾発言に、美雪は固まった。彼の言っていることの意味が、咄嗟には理解できなかったからだ。
あまりにも突然すぎて、何と答えたらいいのかわからなかった。
「ねえ、俺の恋人になってよ!」
にこにこしながら、彼は言った。それにどう答えたのか、うろたえた美雪は覚えていなかった。たぶん、思考回路が停止していたのではないかと、後から思った。
それでも、それが。
美雪と晃との出会い、だったのだ。