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「美雪ちゃん、もうお店閉めるから、店内清掃して上がっていいよ。締めは恵梨がやるから、今日はおしまいで」
そう言われて、美雪は驚いて時計を見た。一瞬ぼんやりとしていた隙に、気づけば閉店時間を過ぎている。
ついさっきまでは、かなり混雑していたのだ。レジに並んでいる人もたくさんいたし、何だかイッパイイッパイで息をつく暇もなかった。ようやく一段落がついたところで、ホッとして意識がお留守になってしまったらしい。
「はーいっ、今やりますっ」
店長からの声に勢いよく返事をして、美雪はロッカーの中から掃除用具を取り出す。
その間に、店長が入り口のドアに閉店の札を下げて戻って来た。そのまま、手早く棚を片付けているのを見ながら、美雪は掃除を始める。
さっさとやって、早く帰ってしまおうと思う。今日は、帰ったら見たいテレビがあったし、早く帰れる時は帰る方がいいに決まっている。
茶色の癖っ毛は肩先でくるくると跳ねているが、あどけない表情。瞳は大きくてくるくるとよく動き、どこか小動物を思わせる。標準よりもやや小柄なきらいはあるが、それも、彼女の魅力のひとつだ。高校一年生なのだし、まだ伸びる可能性はあると考えれば、それはマイナスの要因にはなりえなかった。
久我美雪、というのが、彼女の名前だ。
取り立てて自慢するような特技もなく、勉強がそれほど得意でもなく、かと言って、スポーツが得意かと言えばそうでもない。本当に、どこにでもいるような普通の女子高生。それが、久我美雪を一見した時の評価になる。だが、物怖じをしない明るく素直な性格は誰からも好かれたし、何事にも真剣に取り組む姿勢は好印象を与えた。
それは、学校でもバイト先でも同じことで、この店でも美雪はひどく可愛がられていた。
店長にはもちろんのこと、店長の一癖ある娘からも鬱陶しいほどに可愛がられている。彼女の美雪への愛情表現は微妙に暑苦しいものではあったが、美雪自身は、あまり気にしていない。そして、パートのオバちゃんたちだって、美雪のことを可愛がっているのだ。
それを当の本人はまるで自覚していないのが、更に可愛がられることになるのだった。
そんな美雪がバイトをしている理由は、結構切実だった。
それは、家庭環境に問題があるとか、そういうことではない。単に、美雪の欲しいだけの金額が自分の意のままにならない。それだけのことだ。
それならば、ということで、バイトをするという選択肢になったのだ。
それが間違っているとは、思っていない。確かに、そのせいで友だちと遊ぶ時間が減ったことはちょっとだけ残念だ。けれど、それ以上のものを得られていると思えることも、現実としてあるからだった。
クラスの友だちは学校のこととか、部活のこととか、それぞれにいろいろなことに熱中している。たまに遊ぶこともあるけど、放課後は結構ばらばらだったりすることも多いから、周りもあまり気にしてはいない。
美雪がバイトをしている理由は、お金がないから。その理由は、至って簡単だ。
美雪は人よりちょっとミーハーな性質で、出かけることが好きだった。それゆえに、変な罠にはまってしまったようなものなのである。
どこがどう好きだとか、めちゃめちゃはまっているとか、そういうわけでもない。と、自分では思っている。クラスメイトに言わせると、充分はまっているらしいけれど。
それは、一人のアーティストだ。きっかけは、中学の時になる。友だちに誘われて、付き合いで何となく行ってみたライブで、気に入った一人のミュージシャン、水原慎。
一応、今をときめくトップ・アーティスト、みたいな言われ方をされているのを見ることはある。とは言え、美雪が知った数年前にはたいした知名度もなくて、知る人ぞ知る、という感じだったはずだ。ドラマの主題歌を歌ったのがきっかけで一気に人気が上昇し、今や誰でも知っているほどの有名人だ。
確かに、ルックスだけを見れば、女性からはもてはやされるタイプなのだろう、とは思う。だけど、そういうことは、美雪にはぴんと来ない。美雪は、ただ、彼の歌声に惹かれた。彼は、抜群に歌はうまいと思うし、その歌詞のセンスもいいと思っている。
それに、プロフィールもほとんど公開せず、人気が出てもTVに出ることがほとんどない謎めいたシンガーという売りは、興味を引くことは引く。つまり、彼を知るには、ライブに行くしかない、という徹底ぶりなのだ。そんな彼に暇とお金をつぎ込んでいるのは、きっと美雪だけではないはずだ。
つまり、先立つものがなければCDも買えないし、ライブのチケットも買えない。彼の載っている雑誌も買えないし、ファンクラブの会費にしてもそれなりの金額になる。
それだからこそ。
貴重な放課後を犠牲にしてまでも、真面目にバイトに励んでいるわけなのだ。
他人から見たら、くだらない理由なのかもしれなかった。だが、美雪は一生懸命だったし、それが楽しかった。それは、美雪に限ったことではないのだろうけれど。
美雪がバイトをしているのは、自分の家の近くにある小さなパン屋だ。住宅街の真ん中にある、売れているのか売れていないのかよくわからない、その名も『可愛いパン屋さん』という名前の、これも、ふざけているのか本気なのか理解しにくい店だったりする。
でも、美雪はこの店のことが好きだった。
元々、美雪の家の近所だったこともあって、家族でここの常連だったというのはある。バイトを始めたのはタイミングと勢いの結果だったけれど、バイトをするようになって更に好きになったのも本当のことだ。
中心になっているのは店長の五十嵐純一と、その娘の五十嵐恵梨。それと、厨房には気難しそうなおじさんが一人。パートのおばさんたちが入れ替わりで店に立って、たまに本当に手が足りない時には店長の弟などが店番などをして切り盛りしている、本当にこぢんまりとした店だ。
だけど、近所の評判はとてもいいことを知っている。美雪のようなバイトがいないと、パートのおばさんだけでは手が回らない時もあるくらいに、だ。
店長は気のいいおじさんだが、娘の恵梨はどこかの雑誌でモデルをやっている、と言われたら信じてしまうくらいに、綺麗な女性だ。どうやら、店長は脱サラをしてこのパン屋を始めたらしいとは聞いているが、詳しいことはよく知らない。近所の噂好きのおばさんたちがあれこれと言っていることは、知らないわけではない。だが、そんなことはパンの味に関係なかったし、パンが美味しいから皆が買いに来る。それで、いいのだ。
店長は明るいし、恵梨は美人なことを鼻にかけないあけすけな性格だ。暑苦しくかまわれることもあるが、美雪は、彼女のことは結構好きだった。黙っていればモデルみたいな容貌なのに、床に落ちたパンでもよーくはたけば食べられる、なんてことを、平気で言っていたりする人だから、とっつきやすいのだ。
もちろん、落ちたパンを陳列したりはしないはずだ。……たぶん。美雪は見たことがないから、はっきりと断定はできないのが残念だけれど。
手早く掃除を済ませてしまおうとしていると、美雪の後ろでドアが開いた。
「あ、ごめんなさい、もう閉店なんです」
そう言って振り返った美雪の前に立っていたのは、とても綺麗な男の人だった。
パンを買いに来た客……では、なさそうな気がした。と言うか、こういうパン屋に来るようなタイプには、とても見えない。案の定、彼は口を開くと美雪が予想していたようなことを口にした。
「あ、ごめんね。俺、客じゃないんだよ。えーっと……五十嵐さん、いるかな?」
彼がにこっと笑って、美雪は何だか心臓がばくばくした。
この人、綺麗な目をしている。そう、思って。
相手は男の人なのに、綺麗という言い方はおかしいのかもしれない。だけど、美雪的にはあまり優秀と思えないボキャブラリーの中には、それしか思いつく言葉がなかった。
黒のスリムパンツに、対照色の深いワインレッドのジャケット。インに合わせたシャツの襟元は、だらしなくない程度に緩められたネクタイが揺れている。その取り合わせに栗色に染めた髪が映えて、どきどきするくらいにカッコよかった。
「五十嵐さんって……、えと、店長ですか?」
「そうそう、ふざけた店長の五十嵐純一は? 俺、あの人に多大なる文句があるんだけどさっ」
「あの、奥にいますけど」
な、何なんだろう、この人は。
美雪はその勢いに押されながら、その人を観察する。
最初のどきどきから落ち着いてよく見ていると、何となく近寄り難い感じがするような気がした。見るからに派手な格好をしているとか、そういうオーラが出ているとか、そういうわけではないのだけど。
何と言ったらいいのか、わからなかった。
着ている色のせいなのか、それとも彼の雰囲気がそう見せるのかはわからない。けれど、見ていて「どうしよう、怖いかも」と思うような感じだった。
「あっ、ようやく来たのね、晃。待ちくたびれた。……相変わらずそつなく嫌味な感じね、あんたは」
彼の声を聞きつけたのか、美雪が呼びに行く前に恵梨が奥から出て来て彼と話を始めた。いつもよりも更ににこにことしているのに、言っていることは何だか物騒だ。
一体、どういった関係の人なのだろう。
彼が誰であるのかはともかくとして、恵梨の知り合いだということは明らかだった。どう見ても、あんまり似合ってない組み合わせなのは、美雪の勘違いではないはずだ。
「そつなく嫌味な感じって……。あまりにもひどすぎやしませんか、それは」
「ひどいかしら。でも、別に、悪口じゃないわよ」
「俺には、しっかり悪口に聞こえますけどね。なあ、君も、そう思うだろう?」
突然、美雪の方に身を乗り出して来て、彼は真顔で質問して来た。その勢いに気圧されて、美雪は思わず、ハイ、と答えてしまった。
その瞬間、彼はにやりとする。
「ほ―ら、彼女だって俺の味方だ。どう、反省した?」
「自分で何を言ってるの。バカみたい」
「……人を簡単に馬鹿呼ばわりしないで欲しいね。ああ、そうだ。和んでいる場合じゃないんだよ。大体ね、あの留守電は何なのか、教えて欲しいね。強引なことこの上ないとは思いませんか、恵梨さん。俺の予定のことって、あなた、全く考えていないでしょ。それに、急用なら携帯にかけて欲しいって言ってあるはずですが。俺の携帯のナンバーはわかっているはずですよねぇ。用件なんてそれで済むのに、自宅の留守録なんて二度手間なの! ありえないよ! ってか、呼び出しの本人はどこよ?」
「私に都合を考えてもらえるとでも思っているの、あんたは。どうせ、あっちこっちにふらふらしているくせに」
「え、別にふらふらしているわけじゃないだろ。ちゃんと、仕事はしている」
「あんたの仕事なんて、安定のない収入でしかないじゃない。もちろん、それが間違っていると言いたいわけでもないけど、親御さんの気持ちを考えると、悲しくなるのよねぇ」
「……あなたに心配してもらわなくても、俺は大丈夫ですよ? 俺だって、それなりに真剣に生きているわけですよ。日々の生活のために、必死になってね」
「あんたのその台詞も、いい加減聞き飽きたわ。一見真摯な台詞も、繰り返せば薄っぺらなものになるわよ。まあ、いいけどね。別に、ここでパン屋を手伝えとも思わないし。手伝うとか言われても困るし。お断りだし! あ、そうそう。私と父さんは、ちょっと出かけて来るから、戻って来るまでここで待っててくれる? あんた、留守番。ああ、よかった。鍵掛ける必要なくて助かるわー」
「は? 呼びつけておいて、そりゃないって!」
口を尖らせて、子供みたいな抗議な抗議をする。だが、それはあんまり嫌味な感じはしなかった。どちらかと言うと、それがとても『彼らしい』感じがした。
この人、一体幾つなんだろう。美雪は、そんなことが気になってたまらなくなる。
ちょっと見た感じ、高校生に見えないこともなかった。
だが、恵梨の知り合いだということは、高校生ということはありえないはずだ。だから、きっと、もう少し年上なのだろうと思うけれど。
「留守電に入れたメッセージの指定時間は、6時。今が何時だと思ってるの? 時刻は8時を回ってるわよ。要するに、遅刻して来た奴に文句を言う権利はなし! ってこと」
「そっ、そんなの、俺の知らないうちにそっちが勝手に決めた時間じゃないか! だから、携帯の方に電話をくれっていっつも言ってるわけでしょう。俺はね、今日は仕事で名古屋にいたわけ。わかる? 名古屋よ、名古屋。渋谷じゃないんだよ。それをとんぼ返りだよ。どうしてくれるんだよ、俺の予定!」
今日の夕飯は向こう持ちで美味しいステーキだったのにさ、と彼は口先だけでぶつくさと続けた。
「問答無用! おとなしく待ってなさい! ついでに、あんたが店の掃除をしておいてね。あ、美雪ちゃんはそういうわけで帰っていいから」
恵梨は強引に話を進めて、美雪を振り返る。その成り行きをぽかんとしてみていた美雪は、はっとして我に返る。
掃除をせずに帰ってもいいと言われても、この状況では何となく帰りづらい。美雪は楽なのかもしれないが、体よく掃除を押し付けられた彼は、とても迷惑そうだった。
「……つかぬことを伺いますけど、俺の夕飯の面倒は見てくれるんですかね」
「さっき、父さんが片付けていた残ったパンなら、食べてもいいわよ」
そう言い捨てて、恵梨はお店から出て行った。今日は、確か町内会の会合だとか言っていたから、たぶん、店長と一緒にそれに行ったのだろう。
美雪はそれを知らされていたけれど、彼は、訪ねて来るなりいきなり置いて行かれたのだから、釈然としない表情なのは当然だ。しかも、彼の言い分からすれば、名古屋から突然呼び戻されたということだし、ムッとしているのもわからなくはない。
だが、そんな人と二人きりで店に残されても、困るのは美雪の方だ。彼と美雪の二人で、何をどうしろと言うのか。
(か、帰っていいって言っていたけど、ホントに掃除の途中で帰っていいのかな。しかも、戸締りとかそのまんまでいいってこと?)
美雪はぐるぐると考え始めてしまい、掃除道具を持ったままそこで固まっていた。掃除は途中だったから、これを放り出すというのも何だかおかしな感じがする。
それに、根が生真面目な美雪としては、この人に任せるのも何となく気が咎めるのだ。
(ど、どうしよう)
美雪がうろうろと迷っていると、売れ残りのパンを物色していた(何だかんだ言って、この人は恵梨の言うことを素直に聞いているらしい)彼が、ふっと顔を上げて美雪を見た。そして、目が合った。
その途端、ドキッとした。
すごく、印象的な瞳だと、思った。きらきらとしているような、吸い込まれてしまいそうな。そんな感じで。
どきどきした。
とても、どきどきしてしまったのだ。
またしても芸能人ネタで……。
シンガーが好きなんです。基本的に声フェチなので。