世界が終わる日
僕はその日、朝早くに目が覚めた。
胸がざわめく。
朝日が昇ったばかりの空を見て、思う。
……今日が、世界最後の日か。
とてもじゃないけど二度寝する気になんてなれず、僕は起き出して着替えた。さすがに平日でもこんなに早く起きないという時間だからか、両親とも起きていない。
僕はフリースを羽織って一階に降りた。しんとした家はどこか世界の終わりを超然と受け入れるかのように、落ち着いているように見える。綺麗にした床が壁紙の白を反射して、部屋が明るく見えた。なんだか神妙な気持ちになって、僕は菓子パンを取ろうとした足を変える。
米びつを見て、釜を持ってきた。米を入れるザララという音が響き、シンクに持っていって磨ぎ始める。自発的に料理に取り組むのは初めてだが、調理実習くらいならやった。できないことはないだろう。ざっ、ざっ、という音がキッチンに響く。母さんがいつもこうしてご飯を用意していたことを思い出して、不意に目頭が熱くなってきた。二の腕に目をこすりつけるようにしてこぼれる前に拭う。
炊飯器にセットし、スイッチを入れた。そうして冷蔵庫から具材を取り出し、まな板を出す。ジャガイモとにんじんとねぎと豆腐。ごぼうなどの灰汁が出る具材はあまり使わないほうがいいだろう。水に浸す、とか細かいことは全く分からない。
蛇口から水を流し、具材を水洗いする。ピーラーは見つからなかったので皮むきも手作業だ。我ながらつたないと痛感する手つきで、ざく、ざく、とゆっくりと切り分けていく。
時間を掛けて全て切り終わる頃には、すっかり日が出ていた。普段なら母さんが起きてくる頃だが、休日にまで早起きする必要もないので、きっとまだ寝ているだろう。火の通りにくいと思われるにんじんやジャガイモから水をたっぷり入れた手鍋に落とし、コンロに掛けた。はじめは元栓のことを忘れて火をつけようとしていて、慌ててガスの元栓を捻る。しばらく経ってからだしのことを思い出し、急いで冷蔵庫に入っていただしの素を放り込む。
煮立ってからしばらくして菜ばしをにんじんに刺すと、まだ少し芯が固かった。もう少し待つ。
そして豆腐を入れ、ひと煮立ちさせた頃に細かく切ったネギを投入する。そして味噌をお玉に入れて溶き入れる。たぶんあってるはずだ。味見してみると少し味が薄かったので、もう少し増やす。
そんなことをしていると、階段から足音がした。
「あら、珍しい。なにやってるの? 料理?」
「うん、まあね」
母さんだった。僕は恥ずかしくなってなんでもない風を装いながら鍋をかき回す。母さんも、同じようになんでもない風を装いながらも素直に感嘆して、へぇ、と声を上げた。
「すごいじゃない、頑張ったわね……っ」
その声に不意に嗚咽が混じった。驚いて振り返ると、母さんは顔をくしゃくしゃにして涙をこぼしている。
そうか、と僕は思った。
……世界の終わりを意識しているのは、僕だけじゃない。
母さんは僕を抱きしめながら、嗚咽をこぼす。しゃくりあげながら、言葉を重ねた。
「ありがとうね。ありがとう……」
「……うん」
いい年して恥ずかしい、と思ったが、僕は何も言わなかった。なにも親孝行してこなかった僕の、せめてもの恩返しになるだろう。
もちろん、世界の終わりなんていうことはただのいたずらで、何もなければ、それでいいのだけれど……。
ピー、と音を立てて、炊飯器が炊けたことを報せた。母さんは僕を離し、涙でぐしゃぐしゃになった顔でも何もなかったように笑い、ご飯をよそいに行った。僕もお椀を取って味噌汁を注ぐ。
炊き立てのご飯と味噌汁の匂いにつれられて、父さんも起きてきた。キッチンに立つ僕に驚いた顔をすると、母さんが朝食を僕が作ったのだと誇らしげに言い、さらに驚いた顔をする。恥ずかしかったが、たぶん、幸せというのはこんなものなのだろう、と思った。そう思うと何も言えなかった。
照れ隠しも自慢も、何も。
朝食はいつにもまして明るい母さんが主導になって会話が弾み、いつもの倍も時間が掛かってしまった。味噌汁の味は濃いし、にんじんもやっぱり固かった。逆にご飯は少し柔らかくなっていた。次回の課題だな、と父さんは笑う。
「出かけるの?」
朝食の後、僕が外出することを言うと、母さんは怒ったようにそう言った。その目は不安や恐怖、祈りさえあるように見えた。父さんは黙って僕を見ている。
僕は言い訳や説得を口にする気はなかった。
だから別のことを言葉にした。
「僕さ、……好きな人ができたんだ」
母さんは目を丸くして、口を閉ざす。反対に、父さんが口を開いた。
「その人のところに行くのか?」
「うん」
僕がうなずくと、父さんは相好を崩した。
「そうか」
目元は笑っているけれど、眉は複雑そうに皺が寄っているし、口元はまだ物足りなそうに動いている。色々なことを聞きたいのだろう。
それでも、口にしたのは一言だった。
「いってこい」
「お父さん。こんな日くらい……!」
父さんは、母さんの口を口付けで塞いだ。
母さんはもちろん、僕も驚いた。この両親が僕の目の前でこんな夫婦らしい、というより恋人らしいところを見せたのは初めてだ。父さんが離れると、母さんは顔が燃え上がったように真っ赤にする。これまた驚く。この期に及んで母さんの女性らしいところを目の当たりにするなんて思わなかった。
母さんが泣き崩れる。父さんに目で促されて、僕は慌ててリビングを飛び出した。どえらいものを見てしまった。
でも、と階段を駆け上がりながら、僕は頬をほころばせる。
家族っていいなあ。そう思った。
支度を終えて着替えてきた僕は、両親に玄関まで見送られた。振り返って、真っ赤になった目で微笑む母さんと、いまさら息子の前で思い切った行動を取ったことを思い出したのか、顔を赤くしている父さんを見る。
「それじゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
「うん。明日には、帰ってるから」
父さんも母さんも、笑ってうなずいた。
丁字路に来た。
もう枯葉も見当たらない。冬だった。師走の大晦日。真冬も真冬。真っ只中だ。あいにくの曇り空を見上げて、せめて雨は降らないでくれと願う。
駆け寄るような靴のこすれる音と、弾む息、そして聞きなれた声が聞こえた。
「お待たせ」
「芹沢さん……って、どうしたの!? その顔!」
振り返った僕は仰天した。芹沢さんの頬は真っ赤になって腫れていたのだ。芹沢さんは腫れた頬に手を当て、恥ずかしそうに笑った。
「ちょっと、お父さんに引っ叩かれちゃって」
「ええっ!? ちょっと、大丈夫なのそれ!?」
「平気へいき」
「いや、そうじゃなくて、ケンカしたまま来たんじゃないよね!?」
僕の真剣な詰問に、笑っていた芹沢さんは少し驚いたように笑みを抑えて僕を見た。そして、不意に穏やかな微笑みを浮かべる。僕のほうがたじろいだ。なんで急にそんな聖母のような慈愛に満ちたような笑みを浮かべるのか。心臓に悪い。
「大丈夫。ちゃんと納得させて出てきたよ」
「そ、そう。なら、いいんだけど……」
一挙に挙動不審になりながらも答える。そんな僕に芹沢さんは笑いかけて、手を取った。
「行こっ!」
「う、うん」
弾むように歩き出す芹沢さんに引っ張られるようにして僕も続く。つながれた手を見て、顔が赤くなる。されるがままになりながらも、駅への道を歩いていく。しかし、ふと僕は冷静になった。通りに臨時休業になっている店がずいぶんと多い。
「たぶん、こんな日だからだろうね」
声に振り返る。芹沢さんも、僕を同じところを見ていた。つとその視線が上がって僕を見る。
「いつもの大晦日なら、きっと営業してたよ、あそこも。私たちがこうしていられるのも、休日にこそ働いている人たちがいるからなんだよね」
「そうだね。でも、それはきっと普段だってそうだ。昨日も一昨日も」
僕も微笑んで、また振り返った。店のガラスに張られている臨時休業の張り紙が、風でかすかに揺れる。
「あのボウリング場だって、働いている人がいるから利用できるんだ。もちろん、利用する人がいるから働くんだろうけど、さ」
そうやって世界は回っているのだ。
多くの人が休む今日、世界は初めてその営みを休める。
「きっと今日は、特別だ。真実はどうであろうと」
「……そうだね。うん、私もそう思う」
言葉に振り向く。芹沢さんは、僕を見上げて微笑んでいた。
「今日は、特別な日になるよ」
「うぇ、あ、うん。そ、そうだね」
僕は急に恥ずかしくなってきた。ずいぶんと詩的なことを口走っていたような気がする。うわ恥ずかしい。芹沢さんはからからと笑って僕の腕を揺らした。
「もう、何? 変な声出しちゃって。せっかくいいこと言ってたのに台無しだよ」
「は、ははは」
穴があったら入りたい。
なんだかんだで駅までたどり着いたが、電光掲示板を見上げて僕たちは沈黙した。それはそうだ。店が休業しているように、電車だって人が運転しているのだ。当たり前かもしれない。
ダイヤが大幅に乱れている。二時間に一本くらいのペースだろうか。
きっとほとんど誰も運転手がいないに違いない。
「それでも電車、動いてるんだね」
芹沢さんがつぶやいた。そう、たとえ遅れているといっても、電車を動かして乗客を運んでいる人がいるのだ。そもそも発電所で働いている人もいるのだろう。大切な人がいるかもしれないのに。あるいはいないかもしれないが、それでも、大切な自分の最後の時間なのに。
働いてくれている人がいるのだ。
「こういう仕事で、人を幸せにしてるんだね」
僕が言う。芹沢さんがうなずいている気配があった。僕たちは連れ立って、駅前を後にする。きっと、もっと乗りたい人がいるに違いない。僕たちはきっと、生家のあるここで、最後を過ごすべきなのだ。
結局戻ってきて、学校に程近い公園にやってきた。ベンチに腰を下ろし、寒い冬の風に身を震わせる。
「このほうが暖かいでしょ」
ふわり、とやわらかい匂いがして、右半身が温かくなった。芹沢さんが僕の隣に体を密着させて腰掛けたのだ。動揺する僕を見て、「嫌?」と小首をかしげる。とんでもない、嫌なわけがないです、とろれつの回らない口で言うと、芹沢さんはおかしそうに笑った。僕はその笑顔に胸が一杯になるのを感じて、やっぱり芹沢さんが好きなんだと感じた。
とりあえず、これは役得だと思おう。
「ね、覚えてる? 初めて話したときのこと」
「え?」
芹沢さんが穏やかに口を開いた。
僕はその急な質問に驚き、また内容について思いをめぐらせた。初めて話したとき、なにかあっただろうか。芹沢さんと交流する機会があったのは今年になってからで、その前はクラスも違ったし、他所のクラスの可愛い子くらいの認識だったと思う。
芹沢さんは一目惚れしたのではなく、ある日気づいたらいつの間にか猛烈に好きになっていたというよく分からない恋だったので、最初のころは別段意識もしてなかったはずだ。考えをめぐらせても、さっぱり記憶にひっかかるものがない。
「……いや、ごめん。思い出せないや」
「そっか。実は私もさっきまではあんまり。でも、急に思い出しちゃった」
芹沢さんは小さく笑って、言った。
「たぶん、最初に話したときって、『このプリント芹沢さんのじゃない?』だったんだよね」
「……ええっ? なにそれ、微妙すぎる」
「ふふ。そのあとは『やっぱりそうだと思ったんだ』で、それで会話は終了」
「終わり、って。最悪じゃないか!」
「あははっ。でも、結構そんなもんだと思うよ。最初なんて」
明るく笑う芹沢さんはそう結び、懐かしそうに目を細める。僕はつくづく自分が情けなくなっているが、芹沢さんが楽しそうなのがせめてもの救いだ。でも、僕も思い出した。
「そういえばさ、体育の時間に芹沢さんにボールぶつけられたことがあるんだよね」
「えー? そんなことあったっけ?」
「うん。ほら、ソフトボールやってたときにさ、打った弾が肩に。青あざになったよアレ」
「あーあーあー、思い出した。あったねぇ。アレあざになってたんだ。ごめんねー」
「うん。ま、大丈夫だったしね」
「そっか、ありがと。そういえばさ、体育といえば――」
そんなくだらない会話が、えんえんと続いた。時には会話が切れたりしたけど、僕が静かなのも落ち着くといったら芹沢さんは笑って、なるほど、そうかも、と答えた。時間の流れは驚くほど速かったり、もどかしいほど遅かったり、さまざまだったけれど、気がついたら日がとっぷりと暮れていた。
「お昼も忘れて話し込んじゃったね。なにか食べ物探してこよう」
震える体をゆすって、並んで歩き出す。多くのお店が臨時休業だったが、駅前から外れたところに個人経営の料理店を見つけて、入ってみた。
お昼の分まで取り返す勢いで食べる。店主夫婦はまだ若くて、板前をやっていたというご主人は自分の店を構えるのが夢だったと語ってくれた。お客も少ないから切り盛りも大変だったのだろうけど、オマケまでしてくれたような気のいい人達で、思わず話が盛り上がってしまった。四人であれこれと話しているうちに夜の帳が落ちて、半ば追い出されるようにして店から送り出される。
暖かい店内から外に出ると、一段と寒さが肌に刺さる。真っ暗な道を歩きながら、芹沢さんがつぶやいた。
「すぐ近くにこんなお店もあったんだね。ぜんぜん知らなかったなぁ」
「そうだね。こんな目立たないところにあるからかな」
しばらく言葉が途切れて、黙って道を歩く。駅から歩いてきて、この道はもう何度もふたりで歩いてきているのだと、はたと気がついた。
やがて芹沢さんが静かに言った。
「……また行きたいね」
「うん」
うなずいて答える。
やがて、分かれ道の丁字路に戻ってきた。ふたりでコンクリの壁に背を預ける。僕たちの場所はここだ。僕はそう思った。芹沢さんもそう思ってくれていることを願った。
出会って、分かれて、また出会う。
そのたびに、嬉しくなって好きになって、寂しくなって好きになる。
そんな、魔法の場所。
ぽつり、ぽつりと会話が交わされた。
これからしていきたいこと、この先のこと。未来のこと。明日のこと、明後日のこと。来月のこと。半年後のこと。来年のこと。二年後、三年後のこと。何十年と先のことを。
熱っぽく、ふたりで熱心に話しあった。
別に、結婚とかそういう子供っぽいけど夢のあることでも、どころか色気のある話でもなかった。
就職の不安とか願望とか。
結婚適齢期とか。
子供のこととか。
おばさんやおじさんと呼ばれる日のこととか。
いつかマイホームを建てることとか。
初孫が出来たときの気持ちとか。
老後の想像とか。
そういう、とても些細なこと。
この先の未来があれば必ず来るけれど、この先がなければ絶対に体験できない、いろんなことを。
夜風が寒い。
その寒さが、熱を冷ました。
――今、何時だろう。
芹沢さんと会ってから無意識に時計を見ることを拒んでいた僕の手が、自然に携帯に伸びていた。開き、時計の表示を見る。
「十一時、五十六分?」
口に出して、硬直した。
もう、終わる。
二度と来ない、この特別な今日が。
終わってしまう。
かぁっと体が熱くなった。今日一日芹沢さんとふたりきりで過ごせて幸せだった。でも、それだけじゃダメなんだと思った。やり残したことがあるような気がしてならなかった。なんだろう、何が足りないんだ。分からない。考えても思考は白熱して空転するだけだった。なんでだ。なにかがしたいんだ。なんでこんなに何かがしたいんだ。なんで自分のやりたいことも分からないんだ。今日のうちにやらないといけないのに。もうないのに。
最後なのに。
鼻の奥がツンと痛んで、視界がにじんだ。涙が溢れそうになって慌てて深呼吸をする。
芹沢さんに対して何かしたい、という気持ちではなかった。僕はもう告白も済ませている。今、改めて言うことは、むしろ未練臭くて跡を濁す行為であるような気持ちさえあった。
「橋本くん」
はっ、と我に帰った。口から吸い込む空気が冷たいことに気がついた。今、寒いんだっけ。
芹沢さんはコンクリート壁から背を離した。落ち着いた表情で、僕を向く。僕も彼女を見ながら背を離して、正面に立った。潤んだ瞳に街灯の光を取り込んで、僕を見上げる。
その瞳に、呑み込まれたような気がした。
「私さ、最初から分かってたんだ。橋本くんに、告白されたときから、ずっと」
でも、誤魔化してた。怖くて、認めたくなくて。それがきっと幸せなことだと分かってたから、怖くなった。
芹沢さんは自嘲するように言って、顔をうつむけて肩を震わせた。
「だけど、昨日里佳に怒られたの。橋本くんに甘えるのもいい加減にしろ、って。それで後悔していい気になるつもりか、って」
いつも被害者面してた。たぶん、それでいい気になってた。だから私は、橋本くんと一緒にいられた。
「でないと、傍になんて居られないよ。誰かを想えるような強い人の隣になんて」
でも、
「私は、」
もう逃げるのは嫌。
「こんな特別な日を、」
逃げて終わるのなんて絶対に嫌。
「だから言うね」
遅れてごめん。
「本当は」
私は、
「橋本くんのこと、」
ずっと、
「心から」
心の底から、
「――大好きです」
ああ。
これは魔法のようだった。今、世界が爆発しても、僕らだけは平気でいられるような気がした。
震えるほどの喜びが胸を満たして、寒さも夜も街灯の明かりも、全て置き去りにして世界が回ってるような気がした。
そして同時に、僕は理解した。
やり残していたこと。
それは僕から芹沢さんにしたかったことじゃなかったのだ。
僕が、芹沢さんに望んだこと。最初から最後まで変わらず望んでいた、絶対変わることのない願い。それが今、叶えられたのだと理解した。
芹沢さんは顔を真っ赤にしてうつむいた。上目遣いに僕をうかがう、その殺人的に愛らしい瞳に僕は胸が爆発するかと思う。胸が痛い、痛いくらいに高鳴っている。この恋は、果たして行き過ぎじゃないかと不安になるくらい、僕の大好きな女の子が、愛おしい。
ああ、でも、時間よもう少し待ってくれ。
僕は願う。願いながら、口を開く。
もう願うだけで止まったりしない。
「芹沢さん」
「な、なに?」
芹沢さんは、少し怯えたように答えた。ひょっとして、僕が断ると思っているのだろうか。思わず笑みが浮かぶ。ありえない。地球が逆回転してもありえない、そのまま世界が終わってもありえない。
僕は、すこし恥ずかしくなった。
でも、言おう。
願うだけでやめはしない。時間は無情なことに、いくら祈っていても流れるのだ。
「……キスしよう」
「ぅえっ!?」
素っ頓狂な声を上げて芹沢さんの顔が真っ赤になった。でも僕の顔も真っ赤なはずだ。
思い出す。父さんが母さんに口付けをしていた姿。
とんでもなく恥ずかしい。
でも。
「ぅ、あ、その……うん」
答えて、芹沢さんは一歩、恐る恐る僕に近付いた。
それだけでもう十分だと思えるくらい、僕は嬉しいと思っている。
でも、
もう時計を確認する時間さえ惜しい。
この、二度と来ない特別な今日。
僕も一歩近付いて、芹沢さんとコートが触れ合った。信じられないくらい顔が近くに来て、自分の心臓の音がうるさくなる。芹沢さんの大きい瞳が、僕の目を覗き込んでいる。
大好きな人と、誰よりも近くに。
その望みの着地点がキスというのは、なんとも子供っぽいかもしれないけれど。
きっと、僕たちにはこれくらいが合っていると思う。
手をつなぐだけで恥ずかしくて、
そばに居るだけで嬉しくなって、
告白するだけで真っ赤になって、
キスするだけで幸せになれる。
たぶん、これが、この日の僕たちなのだ。
芹沢さんが目を伏せた。僕も、顔をゆっくりと近付けながら目を伏せる。
もしも、
もし僕たちにこの先があるとしたら、きっと、
そのときの僕たちに似合ったあり方で、特別な今日を過ごすのだ。
息遣いを肌で感じられて、熱を帯びているのが分かるくらい近くになって、
そして、僕たちは――、




