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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: 妙原奇天


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第9話 十年前の棺

 棺の内側に刻まれた文字は、何度見ても不思議だった。


 礼拝堂の静かな空気の中で、私は黒い木の側面に指先を滑らせる。


 細く、うねるような線。


 ところどころで交差して、小さな紋のような形を作っている。


 見慣れてきたはずなのに、その意味はやはり分からない。


「……読めたら、少しは自分のことを知れるのかしら」


 誰にともなく呟いてから、私は自分の指を見下ろした。


 冷たくて、細い指。


 血の通い方が、きっと普通とは違う。


 それでも、この棺の中では、生きやすくなる。


 まるで棺の文字たちが、私の心臓の代わりに働いてくれているみたいだ。


「その文字が気になるのか」


 ふいにかけられた声に、私はびくりと肩を跳ねさせた。


 振り向くと、礼拝堂の入り口にエルドールが立っていた。


 いつもの黒い軍服ではなく、今日は領主としての簡素な服装だ。


 灰色の瞳が、棺と私を交互に見ている。


「エルドール様……」


「驚かせたなら、すまない」


 彼はそう言って、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


 石床に響く足音さえ、ここの空気を乱さないように抑えられている気がする。


「邪魔をするつもりはなかった。ただ、ギルベルトから、また礼拝堂にいると聞いたから」


「いえ。ここは、私の部屋より落ち着くので」


 自分で言っておきながら、少し変な言葉だと思った。


 普通の花嫁なら、そんなことを言わない。


 けれど、エルドールは眉ひとつ動かさない。


「そうか」


 短くそう返し、彼も棺のそばに立った。


 私がさきほど触れていた部分を、視線がなぞる。


「この文字は、何と書いてあるのか気になっていました」


 私は勇気を出して言ってみた。


「ただの模様ならいいのですが、呪いに関わるものなら……知っておきたいと思って」


「……知っておきたいのか」


 エルドールは静かに問い返す。


 私は頷いた。


「私がどういう術で動いているのか、まだよく分かっていません。怖くないと言えば嘘になります。でも、知らないままなのも、もっと怖いです」


 言葉にしてみて、改めて自分の気持ちがはっきりする。


 私の心臓は遅くて、不安定だ。


 棺に入れば楽になるけれど、その理由も分からない。


 知らないまま一年を過ごして、気づいたら止まっていました、では。


 本当に、ただの駒で終わってしまう。


「……そうだな」


 エルドールは、しばらく沈黙した。


 灰色の瞳が、刻まれた文字にじっと向けられている。


 その横顔には、いつものように感情があまり浮かばない。


 けれど、長い睫毛の影がわずかに震えたのを、私は見逃さなかった。


「実は俺も、この文字のすべてを読めるわけではない」


「そう、なのですか?」


「古い魔術体系だ。今の宮廷魔術とは系統が違う。だが――」


 そこで、エルドールは言葉を切った。


 ほんの一瞬だけ、視線が遠くを見るように揺れる。


 礼拝堂の石の壁よりももっと遠い、どこか別の場所を見ているように。


「昔、似たものを見たことがある」


「似たもの……?」


「ああ」


 短く返事をしてから、彼は棺から少し距離を取った。


 まるで、これから話すことと、この棺を切り離そうとしているみたいに。


「十年前だ。王都で大きな魔獣災害が起きた夜のことだ」


 十年前。


 エリオの年齢と重ねれば、その頃何があったのか、私にもだいたい想像がつく。


 彼の婚約者が命を落とした夜。


 エルドールは、遠い過去を見る目をしていた。


「王都の外れから現れた魔獣が、城下まで迫っていた。聖女の加護がなければ、王都ごと飲み込まれていたかもしれない」


「聖女……」


 エリオの本当のお母様。


 私の前にこの城の主婦だった人。


「彼女は、最後まで戦ってくれた。俺は騎士団と一緒に外で魔獣を押し返していたが、途中から、魔力の流れが変わったのが分かった」


 エルドールの声は淡々としている。


 でも、その淡々さがかえって、当時の光景の重さを感じさせる。


「聖堂の塔に張られた封印陣が、魔獣の核を引き受けていた。俺が到着した時には、塔の中はほとんど崩れかけていたが……中心の部屋だけは、奇妙なほど静かだった」


 私は彼の言葉を頭の中で追いかける。


 塔の中。


 崩れかけた階段。


 その先の、ひとつだけ無事な部屋。


「そこで見たもののひとつが、白い棺だった」


 エルドールの視線が、目の前の黒い棺へと戻る。


 黒と白。


 対になるような言葉が、胸の中で響いた。


「白い棺の周囲には、床一面に魔法陣が描かれていた。光はほとんど消えかけていたが……その線の形と、棺の側面に刻まれた紋だけは、まだ残っていた」


 彼は、指先で空中に小さな円を描く。


「こういう、うねる線と、円と、古い文字の組み合わせだ。細部は違うが、系統は同じに見える」


 十年前の棺。


 そこに横たわっていたのは、きっと――。


「……中には、どなたが」


 分かっていながら訊ねると、エルドールは短く目を閉じた。


「俺の婚約者だ」


 予想していた答え。


 それでも、胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 私の鼓動が、一瞬だけ遅くなる。


 白い棺。


 聖女。


 魔獣災害。


 その断片的な言葉だけで、十分だ。


 私は、その夜の情景を勝手に想像してしまう。


 崩れかけた塔の中。


 ひとつだけ残された静かな部屋。


 白い棺に横たわる女性。


 泣き叫ぶ声。


 ――泣き叫ぶのは、誰だったのだろう。


「エリオの……母上も、そこに」


 私が恐る恐る口にすると、エルドールは首を横に振った。


「エリオの母は、俺の婚約者だ」


「あ……」


 そうだ。


 今さらながら、当たり前の事実を突きつけられる。


 エリオは、聖女の息子。


 エルドールと、彼女の間に生まれた子ども。


「その夜、エリオは城の別棟に避難させていた。俺が塔の部屋に入った時、そこにいたのは、宮廷魔導師たちと、王と、そして――聖女の母君だった」


 エルドールの瞳の奥に、わずかな陰りが差す。


「彼女は、棺にすがりついて泣いていた。封印陣の光が消えれば、魔獣の脅威は去る。その代わりに、聖女としての娘も戻ってこないと分かっていたからだ」


「……」


 私は、自分の指をきゅっと握りしめた。


 棺にすがりついて泣く母親。


 それは、想像するだけで胸が痛くなる。


 きっとエルドールは、その光景を十年経った今でも忘れられないのだろう。


「床の魔法陣は、すでに役目を終えていた。そこに描かれていた古い文字は、今のお前の棺に刻まれているものとよく似ていた」


 彼は、再び目の前の棺を見た。


 黒い木の表面と、十年前の白い棺。


 重なるようで、重ならない。


「だから、初めてお前がこの棺で眠っているのを見た時、少しだけ戸惑った」


 少し。


 きっと、本当は「少し」どころではない。


 でも、エルドールは控えめな言葉を選ぶ。


「同じ術式が使われているのかもしれないと、そう思った」


「それは……封印のための、術式だったのですね」


「ああ。魔獣の核を、聖女の身体ごと封じるための」


 封じる。


 閉じ込める。


 そのために使われた古い文字。


 それと同じものが、今、私の棺にも刻まれている。


 胸の奥で、不安が膨らんだ。


「ということは、私も何かを封じ込められているのでしょうか」


「……その可能性は、高い」


 エルドールはあっさりと認めた。


「お前の体に魔獣の因子が混ざっていることは、王都からの報告でも示唆されている。おそらく、核ほどではないが、似た性質のものを抱えているのだろう」


 そう言われて、身震いをしたくなる。


 でも、それはたぶん今さらの話だ。


 私はもう、魔獣の因子を抱えた「半死体」としてここにいる。


 今さらそれを嫌だと言っても、戻る場所はどこにもない。


「ただ――」


 エルドールの声が、少しだけ強くなった。


「十年前、白い棺は『終わり』の場所だった」


 終わり。


 その言葉には、はっきりとした重さがあった。


「そこに横たわっていた彼女は、もう動かなかった。棺はただ、死と魔獣の核を閉じ込めておく箱でしかなかった」


 彼の視線が、今度は私に向けられる。


 冷たい灰色の中に、かすかな光が宿っている。


「だが、お前の棺は違う」


「違う……?」


「お前は、その中で呼吸を整え、鼓動を安定させる。棺から出てきた時、お前は『動ける』」


 当たり前のことを言われているのに、胸の奥がじんとした。


「つまり、この棺は『終わり』ではなく、『途上』を支えるためのものだ」


「途上……」


「お前が今、生きているための装置だと、俺は解釈している」


 彼なりの、少し不器用な励ましなのだと分かる。


 十年前の棺と、今の棺。


 同じ文字が刻まれているかもしれない。


 同じ術式が使われているかもしれない。


 それでも、そこで果たしている役割は、違うのだと。


 胸の奥の不安が、少しだけ軽くなる。


「それに」


 エルドールは、わずかに口元を引き結んだ。


「俺は、この棺を十年前の棺と同じものだと思っていない」


「……どうしてですか」


「そこに横たわる者が、違うからだ」


 あまりにも、まっすぐな答えだった。


 心臓が、どくんと鳴る。


「お前は、彼女ではない。俺も、十年前とは違う」


 彼の声は静かだ。


 でも、その静けさの奥に、確かな決意がある。


「過去の棺は、過去のものだ。今ここにあるのは、お前の棺だ」


 その言葉は、私の胸の奥にすとんと落ちた。


 十年前の棺。


 白い棺に横たわる聖女と、その母の涙。


 そこにいるはずだった小さなエリオ。


 そして、ただ立ち尽くすしかなかった若い辺境伯。


 私には、その夜の全てを理解することはできない。


 けれど、エルドールが「今」と「過去」を分けようとしていることだけは、分かった。


「……エルドール様」


 呼びかけると、彼はわずかに首を傾げる。


「十年前のことを、お話しするのは、お辛くありませんか」


 私はずっと気になっていた。


 彼にとって、婚約者の話をすることが、どれほどの痛みを伴うのか。


 それでも、こうして話してくれたのは、きっと私の棺と向き合うためだ。


「辛くないと言えば嘘になる」


 エルドールは正直に言った。


「だが、話した方がいい時もある」


「いい時……?」


「十年前の棺に、お前を閉じ込めるわけにはいかないからな」


 少しだけ、口元が巾広くなった気がした。


 それが微笑なのかどうか、私にはまだ判断がつかない。


 ただ、その言葉に、胸の奥が温かくなった。


「俺は、あの夜を忘れるつもりはない。だが、それだけを見て生きていくつもりもない」


 灰色の瞳が、まっすぐに私を見る。


「今ここにいるお前と、これからのことを考える」


 心臓の鼓動が、さっきまでとは違う意味で速くなる。


 棺の側面に触れていた指先が、ほんの少し震えた。


「……そのためにも、この文字の意味は調べておきたい」


 エルドールは視線を棺に戻す。


「宮廷魔導師の中に、この系統の術式に詳しい者がいるはずだ。近いうちに、こちらから資料を取り寄せる手配をする」


「そんなことまで……」


「お前の体のことだ」


 彼は、まるで当たり前のように言う。


「一年しかないと言われているなら、なおさら、知れることは知っておきたい」


 一年しかない。


 その言葉が、改めて胸の中に戻ってきた。


 でも今は、不思議とそれだけが全てだとは思えなかった。


 十年前の棺。


 白い棺。


 過去の「終わり」。


 黒い棺。


 今の棺。


 途上を支える「途中の箱」。


 同じようでいて、違う。


 過去の亡霊に押しつぶされるのではなく、その隣で自分の居場所を探すことだって、きっとできる。


「ありがとうございます」


 私は深く頭を下げた。


 感情がうまくまとまらなくて、言葉にするとそれしか出てこなかった。


「私も、逃げないようにします」


「逃げる?」


「自分が『代わり』だと決めつけて、何も知らないふりをするのは、少し逃げている気がして」


 言いながら、自分で苦笑してしまう。


「でも、今日のお話を聞いて……十年前の棺と、今の棺は違うのだと、ちゃんと分かりました」


 エルドールは、少しだけ目を細めた。


「そうか」


「はい。ですから、私も、私の棺の意味を知りたいです」


 そしていつか、この棺の外でも、安らかに息ができるようになりたい。


 それが、まだ口に出せない私の本音だった。


 礼拝堂の高い窓から、淡い光が差し込んでいる。


 その光が、黒い棺の表面と、刻まれた古い文字を静かに照らしていた。


 十年前の棺の色は、白だった。


 今ここにある棺は、黒い。


 どちらも、誰かの「終わり」と「始まり」を抱えた箱なのだろう。


 私はそっと棺に手を置いた。


 その隣には、十年前とは違う選択をしようとする男が立っている。


 その事実だけで、胸の奥の鼓動は、少しだけ頼もしくなった気がした。

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