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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: 妙原奇天


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第8話 初めての微笑み

 次に目を覚ました時、視界には見慣れた木の模様があった。


 棺の内側。


 胸の上に置いていた手に、ゆっくりとした鼓動が伝わっている。


 ちゃんと、生きている。


 昨夜、ここに滑り込んだ時の乱れた心臓を思い出して、私はほっと息を吐いた。


 棺の蓋を押し上げると、ひんやりとした空気と、ろうそくの薄明かりが流れ込んでくる。


 礼拝堂の中は、もう静かだった。


 外の騒ぎも、ほとんど聞こえない。


 戦いは、どうなったのだろう。


 エルドールは、無事だろうか。


 胸の奥に浮かんだ不安を押さえ込みながら、私は棺からそっと抜け出した。


     ◇


「奥様、ご無事で何よりでございます」


 礼拝堂を出るとすぐ、執事のギルベルトが駆け寄ってきた。


 白髪まじりの髪を乱し、いつもより少し荒い息をしている。


「ギルベルト。外は」


「魔獣は撃退されました。城壁まで迫りましたが、被害は最小で済んでおります」


「そう……よかった」


 膝から力が抜けそうになるのを、ぎゅっと堪えた。


「エリオは?」


「エリオ様は、お部屋でお休みです。ずっと起きていらっしゃいましたが、先ほどようやく」


 きっと不安で眠れなかったのだろう。


 私も同じだ。


「エルドール様は」


 恐る恐る尋ねると、ギルベルトは少しだけ表情を緩めた。


「まだ城外の掃討に向かわれておりますが、ご無事との報せが届いております。怪我も軽いとのことです」


「……本当に?」


「はい。あのお方は、簡単には倒れませんよ」


 その言葉に、胸の奥の強張りがやっとほどけた。


 鼓動が、今度は別の意味で速くなる。


「城門にお戻りになるのは、昼前になるかと」


「……そうですか」


 それまでに、少しでも顔色を整えなければ。


 私は自分の頬に触れてみた。


 冷たい。


 いつもより、ほんの少しだけましな気もするけれど。


「ギルベルト。私、着替えてまいります」


「はい。侍女たちに支度をさせましょう」


 礼拝堂の扉が閉まる音を背中に聞きながら、私は廊下を歩き出した。


 石の冷たさ。


 壁に掛けられた黒鷲の紋章。


 すべてが、昨夜より少しだけ優しく見えた。


     ◇


 彼が戻る少し前から、城門前の広場は慌ただしくなった。


 怪我人を運ぶ準備。


 戻ってくる兵士たちを迎えるための列。


 私は邪魔にならないよう、少し離れた回廊からその様子を見ていた。


 エリオは、私の隣で欄干につかまっている。


 夜通し眠れなかったはずなのに、目はぱっちりと開いていた。


「父上、ほんとに帰ってくる?」


「帰ってきますよ」


 私は、できるだけ迷いのない声で答えた。


「約束しましたもの」


「約束……」


 エリオは、小さくその言葉を繰り返した。


 自分で「約束して」と言うことすら、今までできなかった子だ。


 それを昨夜、ちゃんと口にできた。


 それだけでも、この戦いの前と後で、少し世界が変わっている気がした。


 やがて、見張り台の兵士が声をあげる。


「閣下がお戻りです!」


 ざわめきが広がる。


 城門が開き、土埃をあげながら部隊が戻ってくる。


 黒い軍馬。


 槍の列。


 傷だらけの鎧。


 その先頭に、ひときわ目立つ黒い姿が見えた。


「あ……」


 エリオの声が震えた。


 私も、思わず手すりを握る。


 黒鷲の紋章を肩に刻んだ軍服。


 灰色の瞳。


 戦場から戻ったばかりのエルドールは、いつもより少し乱れた髪で、馬にまたがっていた。


 鎧には血の跡がついている。


 けれど、それは彼自身のものではないようだ。


 背筋はまっすぐで、馬上から周囲に指示を飛ばしている。


 その姿を見ただけで、膝から力が抜けそうになる。


(生きている)


 当たり前のことなのに、胸の奥で、その事実だけが何度も繰り返された。


 生きている。


 本当に、生きて帰ってきた。


「父上!」


 エリオが、我慢できないとばかりに飛び出した。


「待ってください、エリオ!」


 呼び止めたけれど、彼はもう耳に入っていなかった。


 階段を駆け下り、広場へと降りていく。


 私は裾を押さえながら、その後を追った。


 広場の真ん中で、馬から降りるエルドール。


 兵士たちが行き交う中を、エリオがすり抜ける。


「父上!」


 小さな身体が、勢いよく彼の胸に飛び込んだ。


 エルドールの体が、ほんのわずかに揺れる。


 周囲の空気が、一瞬だけ止まったように感じられた。


 私は少し離れたところで、その光景を見つめていた。


「おお……エリオ様が」


「自分から飛びつかれたのは、久しぶりですな」


 兵たちが、驚いたように囁き合う。


「父上、死ななかった!」


 エリオは、そう叫びながらエルドールの軍服をぎゅっと掴んでいた。


「ちゃんと、約束守った!」


「ああ」


 エルドールは低い声で答えた。


 そして、迷うような間を置いてから、片膝をついた。


 エリオと視線を合わせる高さまで身をかがめ、その小さな身体を、ぐっと抱きしめる。


 黒いマントに、エリオの姿が半分埋もれた。


 その腕は、いつもより強く、確かに子どもを包んでいる。


「約束だからな」


 短い言葉。


 でも、誰の耳にもはっきり届いた。


 兵士たちの中に、少しだけ緩んだ空気が生まれる。


 私は、その光景を見ていた。


 胸の奥が、じんと熱くなる。


 喉の奥がつまって、うまく息ができない。


(ああ)


 この人は、ちゃんと抱きしめることができるのだ。


 十年前、きっと抱きしめられなかった誰かを思い出してしまうのだとしても。


 今は、ちゃんとここで、エリオを抱きしめている。


 それが、どうしようもなく嬉しくて。


 ふと、頬の筋肉が動いた。


 自分でも驚くくらい、自然に。


 気づけば、私は笑っていた。


 自分の意思とは関係なく。


 目尻がゆるみ、唇が少しだけ上がる。


 笑い方なんて、ずっと忘れていたはずなのに。


「……ラウラ」


 ふいに名前を呼ばれて、はっとした。


 顔を向けると、エルドールがこちらを見ていた。


 エリオを抱きしめたまま、灰色の瞳だけがわずかにこちらへ向けられている。


 その目に、ほんの少しだけ驚きが浮かんでいた。


 まるで、「そんな顔をするのか」と問いかけているような。


 視線が合った瞬間、私は慌てて表情を引き締めようとした。


 けれど、うまくいかなかった。


 口元のゆるみが、そのまま残ってしまう。


 胸の奥の熱が、笑みを引き止めているみたいだった。


「おかえりなさいませ、閣下」


 私は、少しだけ声が震えるのを自覚しながら言った。


「ご無事で、本当によかったです」


「ああ」


 エルドールは短く頷く。


 その顔には、まだ戦場の緊張が残っている。


 けれど、その目はさっきよりも柔らかく見えた。


「城門のギルベルトから聞いた。ここで、祈っていたそうだな」


「……はい」


 正直に頷く。


「何の役にも立てませんでしたが」


「そんなことはない」


 エルドールの返事は早かった。


 少しのためらいもなく。


「ここを守る者がいるからこそ、安心して戦える」


 胸がどくんと鳴る。


 心臓が跳ねる音が、自分にだけ大きく聞こえた。


 そんな立派なものではないのに。


 私はただ、棺の中で震えていただけなのに。


 それでも「守る者」と呼ばれたことが、嬉しくて、こそばゆくて。


「……私は」


 うまく言葉が続かない。


 それでも、何か言わなくてはと思った。


「私は、私ができることをしていただけです」


「それでいい」


 エルドールは、当たり前のように言い切る。


「お前は、お前にしかできないことをしていればいい」


 その言葉に、笑みがまた少しだけ深くなった。


 自覚すると、余計に恥ずかしい。


 でも、今はもう、無理に消すことができなかった。


 私の顔を見ていた周囲の使用人たちが、ぱっと目を見開くのが分かったからだ。


     ◇


「見ましたか、今の」


「ええ……奥様、笑っておられましたわ」


「旦那様がお戻りになったときに、あんな顔をなさるなんて」


 広場から下がったあとの廊下で、メイドたちの小さな声が聞こえた。


 私は角を曲がるところで足を止めてしまう。


 聞くつもりはなかった。


 でも、耳は勝手にそちらへ向かってしまう。


「もともとお綺麗な方でしたけれど、笑うと、ずいぶん柔らかくなりますわね」


「旦那様も、驚いたようなお顔をしておられました」


「でしょう? エリオ様を抱きしめておられたときもそうでしたけれど、今日はなんだか、皆さまのお顔が違って見えました」


「きっと……少しずつ、変わっているんですわね」


「奥様と、エリオ様と、旦那様と。三人とも」


 くすくすと笑う声。


 それは意地悪なものではなく、どこか嬉しそうな響きだった。


 私はそっと、自分の頬に触れてみた。


 まだ、さっきの余韻が残っている気がする。


「……笑っていたのね、私」


 誰にも聞こえないように呟く。


 鏡を見て確かめたわけではない。


 でも、彼らがそう言うのなら、きっと本当に笑っていたのだろう。


 エルドールが戻ってきた時。


 エリオを抱きしめた時。


 私の心臓は、痛くなるほど強く打っていた。


 それが苦しくて。


 でも、嬉しかった。


 その嬉しさが、自然と表情に出てしまったのだ。


 私は廊下の窓から外を見やった。


 広場では、兵士たちがそれぞれ任務に戻っている。


 エリオは、ギルベルトに手を引かれて城内へ。


 エルドールは部下たちと短く言葉を交わしながら、こちらへ向かってくるところだった。


 灰色の瞳。


 乱れた髪。


 戦場の塵をまとったままの姿。


 それなのに、私にはその背中が、不思議と温かく見えた。


「……ただいま、と言ってくださるでしょうか」


 胸の奥で、ふとそんな期待がよぎる。


 それは少し贅沢すぎる願いかもしれない。


 でも、もしその言葉を聞けたなら。


 きっと私は、また笑ってしまうのだろう。


 自分でも気づかないうちに。


 それくらいにはもう、この城で過ごす日々が、私の中に根を張り始めている。


 冷たい心臓を抱えたままでも。


 棺を寝床にしている後妻でも。


 それでも、誰かの帰りを待って、笑ってしまえる自分がいる。


 そのことが、少しだけ誇らしかった。

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