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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: 妙原奇天


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第7話 魔獣の夜と祈り

 魔獣の群れが現れたのは、エルドールが遠征に出てから二日目の夜だった。


 もちろん、最初にそれを知ったのは私ではない。


 耳に届いたのは、城のどこかで鳴り響いた鐘の音だ。


 低く、重く、繰り返し打ち鳴らされる警鐘。


 昼間とは違う、冷たい響きだった。


     ◇


 その夜、私は礼拝堂にいた。


 石造りの高い天井と、古い聖人の絵。


 ろうそくの火だけが、静かに揺れている。


 棺は、相変わらず祭壇の横に置かれていた。


 黒い木の表面に、古い文字のような装飾が刻まれている。


 私の「もうひとつの寝床」。


 でも今夜は、その蓋に手を触れているだけだ。


 中に入るのは、まだ少し怖かった。


「……どうか、皆さまが無事でありますように」


 私はひざまずき、両手を組んだ。


 祈りの言葉は、子どもの頃に教会で教わったものを、少し思い出しながら紡いだ。


 祈る相手が誰なのかは、実はよく分かっていない。


 それでも、「どこかの誰か」に向けて願わずにはいられない夜だった。


 エルドールは、黙って戦場へ向かった。


 エリオは、その背中を見送って、顔をくしゃくしゃにしていた。


 私は笑って手を振ってみせたけれど、胸の奥ではずっと重たい石のようなものが転がっている。


「約束を、守ってくださいますように」


 あの夜、エリオの手を握らせたとき、エルドールは言った。


 約束する、と。


 短い言葉だったけれど、それは確かに口にされた約束だ。


 守られる保証はない。


 それでも、信じたいと思ってしまった。


 そのこと自体が、もう怖い。


 期待すれば、その分だけ、失った時に痛むから。


 それでも、私は祈るしかなかった。


 ろうそくの炎が、ふ、と揺れる。


 窓から吹き込む夜風が、礼拝堂のひんやりした空気をさらに冷たくした。


 その時だった。


 遠くから、鐘の音が聞こえてきた。


 いつもの時刻の鐘ではない。


 数も、間隔も違う。


 胸の奥で、嫌な予感がはっきりと形を取った。


「……警鐘?」


 呟いた途端、礼拝堂の扉が勢いよく開いた。


 兵士がひとり、息を切らせて飛び込んでくる。


「奥様、ここにいらしたんですね!」


「何か、あったのですか」


「城の近くまで、魔獣が数体迫っています。城門は閉じましたが、念のため、奥様はお部屋にお戻りください」


 兵士の声には、緊張が滲んでいた。


 けれど、慌ててはいない。


 こういう事態に慣れているのだろう。


 私だけが、胸の鼓動を早めている。


「エリオは?」


「侍女たちと一緒に、寝室に避難させました。守りの厚い区画です。ご安心を」


「……そうですか」


 少しだけ、肩の力が抜けた。


 少なくともエリオは、安全な場所にいる。


「でしたら、私も――」


「奥様」


 兵士は、真剣な顔で首を振った。


「ここは、戦場になるかもしれません。どうか、お部屋に」


「分かりました」


 私は立ち上がり、祭壇に一礼してから、礼拝堂を出た。


 廊下に出ると、いつもより足音が多い。


 走る兵士。


 指示を飛ばす騎士。


 遠くからは、壁の上で武器を構える音が聞こえた。


 黒鷲辺境領の城は、戦うための城だ。


 そのことを、頭では知っていたけれど。


 こうして目の前で「戦う準備」を見ると、やはり恐ろしくなる。


(私は、足手まといになってはいけない)


 自分に言い聞かせる。


 礼拝堂から私の部屋までは、そこまで遠くない。


 廊下を曲がり、階段を上り、静かな区画へ戻れば、せめて誰かの手を煩わせずに済む。


 私は裾をつまんで、一歩を踏み出した。


 その瞬間だった。


 胸の奥で、何かが弾けるような痛みが走った。


「……っ」


 息が、喉で止まる。


 心臓が、急に大きく跳ねたかと思うと、次の鼓動までの間が、不自然に長く空いた。


 頭がくらりと揺れる。


 足元が、急に遠くなったように感じた。


 私は慌てて、近くの柱に手をつく。


 石の冷たさが、掌に伝わる。


 けれど、鼓動の乱れは、すぐには収まらなかった。


(だめ……)


 呼吸が浅くなる。


 少しでも速く歩こうとしたことで、負担をかけてしまったのかもしれない。


 ここで倒れたら。


 兵士たちの邪魔になる。


 何より、自分の体がどうなるのか、想像するのが怖かった。


 廊下の奥から、兵士の声が聞こえる。


「北の塔に魔獣が!」「弓隊、配置につけ!」


 城の外壁の方からは、獣の吠え声のような低い唸りも聞こえてきた。


 私は唇を噛む。


 ここでしゃがみ込んでしまえば、誰かがきっと助けに来てしまう。


 それは、申し訳ない。


 でも、動けない。


 選べるものが、急に少なくなってしまった。


(……棺)


 頭に浮かんだのは、それだった。


 あの中に入れば、鼓動が落ち着く。


 何度か繰り返してきたことだ。


 礼拝堂は、すぐ後ろ。


 私の部屋よりも、ずっと近い。


「奥様?」


 さきほどの兵士が、廊下の角から顔を出した。


 私が柱に寄りかかっているのを見て、慌てて駆け寄ってくる。


「ご気分が?」


「……少し、心臓が」


 私は息を整えながら答えた。


「礼拝堂に戻っても、いいでしょうか」


「しかし――」


「棺に入れば、落ち着くはずです」


 できるだけ冷静に言う。


「部屋まで歩くより、礼拝堂の方が近いですし」


 兵士は、迷うように眉をひそめた。


 でも、その判断が合理的だと分かっているのだろう。


 短くうなずく。


「分かりました。お送りいたします」


「大丈夫です。一人で」


「いえ、せめて戸口まで」


 そこだけは譲らなそうな顔だったので、私は観念して頷いた。


 兵士に支えられながら、もう一度礼拝堂へ向かう。


 自分の足がひどく重たく感じられた。


 心臓はまだ不安定だ。


 けれど、「ここで倒れたくない」という意地のようなものが、体を前に押し出してくれている。


 礼拝堂の扉が見えた時、胸の痛みは少しだけ和らいだ。


「ここまでで、結構です」


 私は兵士に礼を言い、ゆっくりと扉を押した。


 さっきと同じ、冷たい空気。


 ろうそくの炎が、まだ細く揺れている。


 兵士は、「何かあればすぐに呼んでください」と言って扉を閉めた。


 礼拝堂の中には、私一人だけ。


 外の喧噪が、石壁に遮られて少し遠くなった。


 それでも、低い唸り声と、どこかで響く叫びはかすかに届いてくる。


 私は棺に近づいた。


 黒い木の表面に、指先を滑らせる。


 冷たくて、なめらかな感触。


「……失礼します」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 けれど、棺の蓋を開く時は、どうしてもそう言いたくなる。


 重い蓋を少しずらし、隙間を作る。


 そこから、ひやりとした空気が漏れ出てきた。


 胸の奥の痛みが、少しだけ軽くなるような気がする。


 私はそっと中に身を滑り込ませた。


 冷たい木の内側。


 そこには、古い文字の刻まれた線が、蜘蛛の巣のように走っている。


 横たわると、すぐにそれが背中に触れた。


 蓋を自分の手で少し引き寄せる。


 完全には閉めず、わずかな隙間を残した。


 ろうそくの光が、その細い線からぼんやりと入り込む。


 息を吸う。


 冷たい。


 でも、その冷たさが、心臓の火照りを静めてくれる。


 胸に手を当てる。


 鼓動は、まだ乱れていた。


 けれど、乱れ具合はさっきよりも小さい。


 石の冷たさと違って、この冷たさには馴染みがある。


「……本当に、変な寝床ですね」


 自嘲気味に呟く。


 死んだはずの私が、あたたかいベッドよりも、棺の中の方で楽に息ができるなんて。


 普通なら、笑い話にもならない。


 でも、今は。


(ここに入っている方が、まだ生きていられる)


 それが、情けなくて。


 でも、ありがたかった。


 外からは、まだ騒ぎが聞こえる。


 鈍い衝撃の音。


 石壁に何かがぶつかる気配。


 兵の掛け声。


 魔獣の唸り声。


 すべてが遠くて近い。


 私は、蓋の隙間から見える天井をぼんやりと眺めた。


「エルドール様」


 名前を、そっと口にする。


「ちゃんと、帰ってきてくださいね」


 誰にも聞こえない祈り。


 棺の中で言うと、まるで自分で自分に約束させているような気分になる。


 私が生きている間に、きちんと帰ってきて、と。


 そのためには、私も生きていなくてはならない。


 そう思った瞬間、胸の奥の何かが、少し形を変えた。


 これまでは、「一年を静かに終えるために、生きている」つもりだった。


 エリオの世話をし、後妻としての役目を果たし、そのうち心臓が止まるだろう、と。


 でも今は、違う。


 エルドールが帰ってくるところを、ちゃんと見たい。


 エリオが走り寄っていくのを、ちゃんと見届けたい。


 そのために、生きていたいと思ってしまった。


 それは、とても小さな欲張りだ。


 でも、間違いなく「生きたい」という感情の一部だった。


 胸に当てた手の下で、鼓動がまたひとつ、強く打つ。


 さっきほどの痛みはない。


 代わりに、微かな熱が広がった。


 その熱が、棺の内側の古い文字に触れる。


 指先で、その刻み目をなぞってみた。


 すると、ほんの一瞬、微かな光が走った気がした。


「……?」


 見間違いかもしれない。


 けれど、たしかに、線の一部が淡く光ったように思えた。


 鼓動と一緒に、微かな波紋が広がるような感覚。


 それは、どこか遠くへ伸びていく。


 私の胸から、棺へ。


 棺から、礼拝堂の石床へ。


 さらにその先へ。


 まるで、目に見えない糸のように。


(――どこまで、つながっているのかしら)


 ぼんやりと考えたその時。


 ふと、胸の奥に、別の鼓動のようなものが重なった。


 自分のものではない。


 もっと強くて、もっと速い。


 荒野を駆ける馬の足音のようなリズム。


 刃と刃がぶつかり合う音。


 飛び散る火花。


 暗い夜の中で、灰色の瞳が鋭く光る光景が、頭の中に浮かぶ。


 それは、夢の断片にも似ていた。


 実際に見ているわけではない。


 でも、どこかで確かに起きていることのようにも感じられる。


 胸の奥の熱が、少しずつ形を変える。


 冷たい棺の中なのに、ほんの少しだけあたたかい。


「……エルドール様?」


 呼んでみても、返事はない。


 当たり前だ。


 彼は今、きっと城の外で剣を振るっている。


 魔獣の群れに立ち向かっている。


 それでも、どこかで彼の鼓動を感じているような、この不思議な感覚は何なのだろう。


 魔術に詳しくない私には、分からない。


 けれど、嫌な感じはしなかった。


 むしろ、少しだけ安心した。


(ちゃんと、生きている)


 荒く、確かな鼓動。


 それが、どこかで私とつながっているように感じられる。


 自惚れかもしれない。


 でも、今夜くらいは、自惚れてもいい気がした。


「勝手なことを言って、ごめんなさい」


 私は棺の壁に、そっと額を寄せた。


「私がここに隠れている間に、皆さんが戦っているのは分かっています」


 情けないと思う。


 戦えない自分が。


 足手まといになる自分が。


「それでも、今は」


 唇が震える。


 胸の奥に、答えのようなものが浮かぶ。


「……生きていたいです」


 初めて、はっきりと言葉にした。


 一年後にどうなるかは分からない。


 でも、今夜、ここで鼓動が止まってしまうのだけは嫌だと思った。


 エルドールが約束を果たしてくれるなら。


 その姿を、棺の外で待っていたい。


 エリオが「おかえり」と笑うところを、隣で見ていたい。


 そのために、私は棺に逃げ込んだ。


 廊下で倒れてしまうのではなく。


 この冷たい箱の中で、鼓動を守る方を選んだ。


 それは、きっと。


 生にしがみつく、ささやかな選択だった。


     ◇


 外の喧噪は、いつの間にか少しずつ遠のいていった。


 魔獣の唸り声も、兵士たちの叫びも、次第に数が減っていく。


 代わりに、短い号令の声と、整えられた足音が聞こえた。


 どうやら、戦いはひとつの区切りを迎えたらしい。


 それでも、私は棺から出なかった。


 胸の鼓動は、もう落ち着いている。


 でも、まだ少し、足が震えていた。


 蓋の隙間から見える天井は、真っ暗だ。


 ろうそくの火が消えたのかもしれない。


 暗闇の中で、私は自分の胸に手を当て続けた。


 とくん、とくん、と。


 少し遅い鼓動が、確かに続いている。


 そのリズムに合わせるように、遠くで聞こえる荒い鼓動の幻も、次第に静かになった。


 どちらも、今のところは、止まっていない。


「……よかった」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 神さまかもしれないし、棺かもしれない。


 エルドールかもしれないし、自分自身かもしれない。


 それでも、「よかった」と言いたかった。


 私は目を閉じた。


 暗闇の中で、手のひらに伝わる鼓動だけを頼りにする。


 これまで、死に近い場所ばかりを見てきた。


 今も、この棺は死と隣り合っている。


 でも今夜だけは、ここが少しだけ「生きるための場所」に思えた。


 私は初めて、明日の朝を楽しみにしながら、棺の中で静かに眠りについた。

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