第6話 義理の息子と手をつなぐ日
義理の息子、という言葉は、どうしてあんなに他人行儀なのだろう。
私にとってエリオは、「誰かの子ども」ではなく、「ここで一緒に暮らしている五歳の男の子」だ。
そう言い換えた方が、少しだけ距離が近くなる気がしていた。
◇
「これ、読んであげますね」
午後の中庭は、風がやわらかかった。
黒鷲の旗がはためく音を聞きながら、私はベンチに腰を下ろしている。
隣には、木陰の下で膝を抱えるエリオ。
視線は私ではなく、手元の絵本に向いている。
「……前にも、読んだ」
「そうね。昨日も一昨日も読みました」
私はくすりと笑って、表紙をめくる。
騎士と仔竜の友だちの物語。
文字は少ないけれど、挿絵が多くて、細かいところまで見ていると飽きない。
「でも、同じ絵本でも、その日の気分で少し違って聞こえたりしますよ」
「違わない」
「そうかしら」
私はページをめくりながら、声の調子を少し変えた。
勇ましい騎士の台詞は、少しだけ大きく。
怖がりな仔竜の台詞は、わざと小さく震えさせて。
エリオの肩が、かすかに揺れる。
笑うのを我慢している時の仕草だと、やっと分かってきた。
「……そんな声じゃなかった」
「じゃあ、エリオはどう思う?」
「もっと、強くて、でも優しい声」
「ふふ。難しい注文ね」
けれど、言われた通りにやってみる。
強いけれど、優しく。
エリオが父親に抱いているイメージを、少しだけ真似するような声。
ページを読み進めるたびに、彼の身体がベンチの背から離れて、少しずつこちら側に寄ってきた。
最後のページを閉じる頃には、私の肘のすぐ近くに、彼の肩があった。
「ここ、やっぱり好き」
エリオが、本の中の一枚の絵を指さす。
雨に濡れた森の中で、騎士が仔竜に自分のマントをかけてやる場面だ。
「どうして?」
「仔竜が、泣きそうな顔だから」
子どもらしい理由のようでいて、その実、とても鋭い。
「泣いてないけど、泣きそうな顔。なのに、騎士は何も言わないで、マントをかけるだけだから」
エリオは、絵の中の仔竜の目をじっと見つめている。
「そういう時、何も言わないのって、ずるいと思う」
「ずるい?」
「……こっちが、勝手にいろいろ考えちゃうから」
私は返す言葉に迷い、しばらく黙った。
そういうところは、やっぱり父親に似ていると思う。
エルドールも、何も言わないで、必要なことだけをする人だ。
何も言わないまま、助けてくれる。
それなのに、助けられた側だけが、胸の中にたくさんの言葉を抱えてしまう。
ずるい、と言いたくなる気持ちは、私にも分かる。
「だから、ラウラが読むと、ちょっと違う」
「私?」
「うん。さっき、仔竜の声、ちゃんと怖がってた」
エリオは、少しだけ照れたように笑った。
「怖い、って言ってるのに、頑張ろうとしてるみたいで。……ちょっと、ラウラに似てる」
「私に?」
「怖いって顔、よくしてるから」
そんな顔を、しているのだろうか。
気づかれないように、うまく隠しているつもりだったのに。
「でも、逃げないところも、似てる」
エリオの言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
逃げていないかどうかは分からない。
ただ、逃げる場所も知らなかっただけだ。
「だったら、いいですね」
私は笑って、本を閉じた。
「仔竜も、最後には空を飛べるようになりますし」
「ラウラも?」
「さあ。私は飛べませんから」
「じゃあ、代わりに、馬に乗ればいい」
エリオは真面目な顔で言う。
「父上みたいに、馬に乗って、強い鎧を着て」
「それは……想像するだけで、心臓が止まりそうです」
冗談めかして言うと、彼は少しだけ眉をひそめた。
「心臓、やっぱり弱い?」
「少しだけ」
私は胸に手を当てた。
今日の鼓動は、今のところは穏やかだ。
けれど、この子の言葉ひとつで、すぐに乱れてしまう自信がある。
「だから、エリオと一緒に走り回るのは難しいけれど。絵本を読むくらいなら、たぶん大丈夫です」
「じゃあ、また読んで」
エリオが、すっと本を差し出す。
「明日も」
「ええ。明日も、あさっても」
その約束を口にした時、胸の奥が少しだけ温かくなった。
一年だけの明日たち。
そのうちの一日一日が、絵本のページみたいに積み重なっていけばいいと思った。
◇
エリオと過ごす時間は、思っていたよりもずっと早く過ぎていった。
夜、廊下で転んで膝をすりむいた時には、私が薬を塗った。
「しみる?」
「ちょっと」
「我慢強いのね」
「兵隊になるから」
唇をかみしめている顔が、少しだけ誇らしげで。
包帯を巻き終えたあと、「ありがとう」と小さく言ってくれた。
その一言が、痛み止めよりもよく効いた。
そうして、ほんの少しずつ。
彼の中で、「棺から出てきた死体みたいな人」から、「怪我をした時に手当てをしてくれる人」に、私の立ち位置が変わっていく。
その変化が嬉しくて、怖い。
嬉しさが強くなるたびに、心臓がきゅっと縮むからだ。
◇
「明日、遠征に出る」
その知らせを聞いたのは、そんな日々が続いていたある晩だった。
夕食が終わり、エリオが侍女に連れられて寝室へ行ったあと。
食堂に残っていたのは、エルドールと私だけ。
彼はワインの杯を一度机に置き、短く告げた。
「魔獣の群れが南の森に集まっているという報告があった。放置すれば、村に被害が出る」
「……そうですか」
この領では、そういうことが珍しくないのだと、頭では分かっている。
黒鷲辺境伯は、戦場の人だ。
それでも、胸の奥が冷たくなるのを止められなかった。
「期間はどれくらいに」
「長くて十日」
彼は淡々と続ける。
「早ければ、五日で戻る」
「それは、かなり大きな群れなのですね」
「そうだな」
短い返事。
その様子がいつもと変わらないほど、余計に不安になってしまうのは、わがままだろうか。
「エリオには、もう」
「昼間に伝えた」
エルドールは、少しだけ目を伏せた。
「あの子は、泣かなかった」
「……そうでしたか」
「代わりに、妙に静かになったが」
それは、私にも想像がつく。
エリオは、泣き顔を見せることを覚えていない。
きっと、十年前から。
「今、様子を見に行きますか」
「いや」
考える間もなく、彼は短く首を振った。
「寝入ったところだろう」
「たぶん、まだ起きています」
私は思わず口を挟んでいた。
エルドールが、わずかに眉を上げる。
「根拠は」
「こういう時、子どもはなかなか眠れないものです」
私自身の、小さかった頃の記憶がそう告げている。
父が冷たい顔で出かけていく夜。
私は眠くならないまま、すすり泣く侍女の背中を見ていた。
あのとき、誰かが部屋を覗いてくれたら。
そんなことを考えるのは、意味のない後悔だと分かっていても。
「……様子だけ見てきます」
私は椅子を立ち上がった。
エルドールも、少し遅れて立つ。
「俺も行く」
「はい」
食堂を出て、静かな廊下を歩く。
夜番の兵が、敬礼をして通り過ぎる。
エリオの部屋の前まで来ると、扉の前にいた侍女が慌てて頭を下げた。
「閣下、奥様。エリオ様は、まだ少し」
「入っていいか」
「もちろんです」
扉をノックしてから、エルドールが先に入る。
私も後に続いた。
ベッドの上で、エリオが座っていた。
膝を抱え、窓の外の夜空をじっと見ている。
星はまだ少なかった。
「エリオ」
エルドールが声をかけると、エリオははっとして振り向いた。
「父上」
その声には、強がりが混じっている。
「もう寝る時間だ」
「分かってる」
返事は素直だが、体は動かない。
エルドールはベッドのそばまで歩み寄り、少しだけ腰をかがめた。
「昼間言った通りだ。明日の朝には発つ。留守のあいだ、ラウラの言うことを聞け」
「うん」
「勝手に城の外へ出ないこと。廊下を走り回りすぎないこと。無茶はするな」
「分かってる」
淡々としたやりとり。
そのまま終わってしまいそうな空気だった。
けれど、エリオの指先は、シーツをぎゅっとつかんでいた。
喉の奥で、何かを飲み込もうとしている顔。
きっと、言いたいことがある。
でも、言っていいのか分からない。
その迷い方が、あまりにも私に似ていて。
「エリオ」
私はそっと、彼の横に腰を下ろした。
「何か、父上に言いたいこと、ありますか」
「……ない」
即答。
けれど、その目は父親の方を見ていた。
言葉と視線が、正反対の方向を向いている。
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、私に教えてくれますか」
彼は少しだけ考え、それから、小さな声で言った。
「死なないで、って言いたい」
部屋の空気が、静まり返った。
エリオは、顔を上げない。
代わりに、シーツをつかむ手に力がこもる。
「でも、そんなの、言ってもしょうがないから」
「しょうがなくなんて、ありません」
私は、気づけば口を開いていた。
あまり強い声にならないように、でも、はっきりと。
「言いたいことは、言っていいんです」
エリオの肩が、わずかに震えた。
「だって、言わなかったら、父上には伝わりませんから」
「……父上は、分かってる」
「半分だけ、かもしれません」
私はちらりとエルドールを見上げる。
彼は難しい顔をしていた。
それでも、否定はしない。
「エリオ」
私は、そっと彼の手に触れた。
小さな手。
熱を持った皮膚。
その瞬間、胸の奥で何かがきゅっと縮む。
心臓が、一拍、飛んだ。
視界が少しだけ揺れる。
息を吸い込むのに、ほんのわずかな抵抗があった。
でも、離したくはなかった。
この子の手が、いま頼れる場所を探しているのが分かったから。
「大丈夫です」
自分に言い聞かせるように、私は微笑む。
「私も、一緒にお願いしてあげます」
エリオは、戸惑ったように瞬きをした。
「お願い」
「ええ。二人で『死なないで』って」
その言葉に、彼は父親の方を見た。
エルドールは、黙ったまま、じっと息子の目を見つめ返している。
私はエリオの手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
「エリオ」
「……なに」
「手、離してもいいですか」
「だめ」
即座に、握る力が増した。
心臓が、さらに強くきゅうっと痛む。
胸の奥で、どくんと大きな音がした。
鼓動がひとつ、間を空ける。
そのまま止まってしまうのではないかという恐怖が、脳裏をかすめる。
けれど、彼の手のあたたかさが、その恐怖をなんとか現実につなぎとめてくれた。
私は深く息を吸い込み、エルドールの前に立つ。
そして、空いている方の手を、彼の前に差し出した。
「閣下」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「あの子の手を、きちんと握ってあげてください」
エルドールの眉が、わずかに動く。
私の手と、ベッドに座るエリオの手と。
二つの手を、順番に見比べて。
「……俺が握らなくても」
「それは、ずるいです」
さっきエリオが言っていた言葉が、そのまま口からこぼれた。
「何も言わないで、何もしないで。それでいて、『分かっているはずだ』と期待するのは」
少しだけ胸が痛んだ。
これは、あのとき誰にも言えなかった気持ちを、ようやく口にする行為でもあった。
「エリオは、父上の手を握りたいと思っています」
「……そうなのか」
エルドールが息子を見やる。
エリオは、うつむいたまま、かすかに頷いた。
「昔、ママが、こうしてくれたから」
彼は、空いた方の手をぎゅっと握りしめた。
「怖い時、手を握ってくれた。だから……」
だから、本当は今もそうしてほしい。
その先の言葉を、エリオは飲み込む。
代わりに、私が一歩踏み出した。
「閣下」
あくまで丁寧に。
でも、退かない。
「どうか、お願いです」
長い沈黙があった。
執務室で契約の話をしたときよりも、ずっと長く感じられた。
やがて、エルドールは静かに息を吐く。
「……分かった」
彼は手袋を外し、自分の手を差し出した。
大きくて、傷だらけの手。
私は、エリオの手をそっと持ち上げ、その手に重ねる。
熱と熱が触れ合う。
エリオの肩が、びくりと震えた。
「父上の手……あったかい」
「お前が冷たいだけだ」
エルドールは、照れ隠しのように言う。
けれど、その手のひらには、しっかりと力がこもっていた。
エリオの小さな指を包み込むように。
「死なないで」
エリオが、やっと声に出した。
「今度も、ちゃんと帰ってきて」
「ああ」
短い返事。
今度は、何も言わないわけではなかった。
「約束する」
約束、という言葉が、夜の空気に沈んでいく。
それを聞いた瞬間、私の胸の奥でまた鼓動が乱れた。
痛みと一緒に、何かがこみ上げてくる。
「……ラウラ」
エルドールが、ふと私の方を見た。
「顔色が悪い」
「大丈夫、です」
本当は、あまり大丈夫ではなかった。
けれど、ここで手を離したくはない。
エリオの手は、まだ震えている。
「少し、息が……」
言いかけたところで、エルドールの手が動いた。
彼は、握っていたエリオの手を片方だけにし、空いた手を私の肩に添える。
「座れ」
「でも」
「いいから」
強い口調に押されて、私はベッドの端に腰を下ろした。
エリオの手を、そのまま握ったままで。
心臓はまだ不規則だった。
でも、ゆっくりとした呼吸を続けているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
エルドールは短く言う。
「そうやって、誰かの手を握ることを覚えたなら、それで十分だ」
「閣下の方こそ」
私は、小さく笑った。
「手を握るの、きっと久しぶりなんじゃないですか」
その問いに、彼は答えなかった。
代わりに、エリオの頭を、ぎこちなく撫でる。
「もう寝ろ」
「うん」
「明日の朝、出る前に、もう一度来る」
「起きてる」
「起きていなくていい」
「起きてる」
やりとりが可笑しくて、少しだけ笑いがこみ上げた。
この家族は、やっぱり不器用だ。
でも、不器用なりに、少しずつ前に進んでいる。
「ラウラ」
部屋を出る前に、エルドールがふと振り返った。
「さっきは、助かった」
「いいえ」
私は首を振る。
「私が勝手に口を出しただけです」
「そういうのを、助けたと言う」
短くそう告げて、彼は部屋を後にした。
扉が閉まる音がしても、胸の奥の温かさは消えない。
私は自分の手を見る。
さっきまで、エリオの手と、エルドールの手をつないでいた手。
小さな手と、大きな手。
その間に、私の冷たい手が挟まっていた。
それでも、ほんの少しだけ、温度を分け合えた気がした。
手をつなぐ。
それだけの行為が、こんなにも大切なものだとは知らなかった。
たぶん、私はこれからも何度も、誰かの手を握りたいと思うのだろう。
心臓がきゅっと痛んでも。
その痛みごと、守りたいと思ってしまったから。




