第5話 一年の契約
その話をしなければならないことは、分かっていた。
けれど、いつ切り出せばいいのか分からないまま、数日が過ぎた。
棺と寝室を行き来しながら、私は少しずつこの城の空気に慣れていった。
中庭でエリオと歩き、礼拝堂で祈り、図書室で本の背表紙を眺める。
穏やかな日々だと思う。
でも、その穏やかさの底には、はっきりとした期限が横たわっている。
一年。
私の鼓動が止まるまでの時間。
そのことだけは、誰かがきちんと口にしなければならない。
◇
「ラウラ。少し、時間は取れるか」
夕方、廊下を歩いていると、背後から名前を呼ばれた。
振り向けば、エルドールが立っていた。
軍務から戻ったばかりなのか、肩にはまだ外気の冷たさがまとわりついている。
「はい。何か、用件が」
「執務室まで来てくれ」
それだけ言って、彼は歩き出した。
私も慌てて後を追う。
執務室は、城の南側の一角にあった。
重い扉の向こうは、紙とインクの匂いがする部屋だ。
本棚には書類がきちんと並べられ、大きな机には地図と報告書が広げられている。
領地を預かる人の仕事場らしく、余計な飾りは少ない。
代わりに、窓から入る夕陽が、部屋全体を金色に染めていた。
「座れ」
エルドールは、机の向かい側の椅子を示した。
私は裾を整え、言われた通りに腰掛ける。
背筋が自然と伸びた。
机の上には、見慣れない紙束が置かれている。
「これは?」
「君を迎えるにあたって交わした書面の写しだ」
彼はそれを手に取り、一枚だけ抜き出した。
「王都の役人との取り決め、君の父親が署名した契約、その内容」
淡々とした声。
その紙の中に、私の一年が書き込まれているのだと思うと、少しだけ胸が冷えた。
「……見ても?」
「もちろんだ」
彼は紙を差し出してくる。
私は両手でそれを受け取り、目を通した。
難しい言葉が並んでいるが、要点はすぐに分かった。
伯爵家の負債の額。
その返済に代わる「対価」としての、私の一年。
一年の間、黒鷲辺境領において後妻としての役割を果たすこと。
一年後には「契約満了」とみなし、その後の処遇は受け入れ先に一任すること。
その一文に、視線が吸い寄せられた。
「処遇、ね」
口の中で、そっと繰り返す。
役所の文書にしては、ずいぶん曖昧な言葉だと思う。
でも、書面を作った人間にしてみれば、それで十分だったのだろう。
一年後には心臓が止まる。
止まってしまったものをどうするかなど、紙の上で議論する必要もない。
「内容は、父が聞かせてくれていました」
私は紙を机の上に戻した。
「一年だけ動いて、そのあと止まる体。その一年を、閣下に差し出すこと」
「父親はそう言ったのか」
「はい。……『せいぜい役に立ってこい』とも」
言ってから、少しだけ自嘲の笑いが漏れる。
エルドールは眉をひそめたが、何も言わなかった。
沈黙が一瞬、部屋を満たす。
窓の外では、風が城壁をなでている。
どこか遠くで、兵士たちの掛け声が聞こえた。
「だから、その……」
私は指先を組み、視線を落とした。
今こそ、言わなければならない。
「一年後のことを、きちんと決めておきたいのです」
「一年後」
「はい」
喉が、ひどく乾いていた。
「一年が終わる頃には、私はもう、棺から出てこられなくなるはずです」
自分で口にすると、胸の奥がじくりと痛んだ。
でも、それはもう何度も考えてきたことだ。
一度目の死から目を覚ました時から、ずっと抱え続けてきた結末。
「その時は、礼拝堂に私を戻して、棺に納めてください」
言葉を選びながら、淡々と続ける。
「心臓が完全に止まったあと、何日かは様子を見ていただいて。二度と動かないと確かめたら……」
そこで、ほんの少しだけ笑ってみせた。
「適当に、処分してください」
その瞬間、空気が固くなった。
笑いながら言うべきではなかったと、すぐに後悔した。
でも、もう遅い。
エルドールは、じっとこちらを見ていた。
灰色の瞳の奥に、小さな波紋のようなものが広がる。
声は、すぐには返ってこなかった。
「処分、とは何だ」
やっと落ちてきた言葉は、とても低かった。
静かなのに、刃物のような冷たさを含んでいる。
「火葬でも、土葬でも。方式にはこだわりません」
私は目を伏せたまま答える。
「伯爵家の墓に戻していただく必要もありません。家のために売られた命ですから、ここで終わるのが筋だと思います」
「筋」
「はい。ここで一年間、後妻としての役目を果たして。そのあと、役目を終えた器として、処理されるのが、いちばん迷惑が少ない形だと」
そこまで言ったところで、机の上で音がした。
エルドールの手が、書類の上を強く押さえつけた音だ。
紙が少しよれた。
滅多に感情を表に出さない彼が、はっきりと苛立ちを示したのを見たのは初めてだった。
「処理、だの、処分、だの」
彼はゆっくりと息を吐いた。
その音には、怒りよりも、深い不快が混ざっている。
「二度と自分の命に、その言葉を使うな」
「……でも」
「でもではない」
きっぱりと言い切られる。
真っ直ぐな声が、胸にぶつかった。
「契約期間が一年であることは理解している。君の体が一年で限界を迎えることも、書面にはそう書いてある」
「でしたら」
「だからといって、その後を『処分』と呼ぶ必要はない」
彼はゆっくりと言葉を重ねていく。
まるで、言い聞かせるように。
「生きている間は、生きている者として扱う。止まった時は、死んだ者として敬意を払う。それだけだ」
「敬意なんて、払うほどの価値は」
「ある」
食い気味に遮られた。
私は思わず顔を上げる。
エルドールの灰色の瞳が、真っすぐに私を捉えていた。
怒りを湛えた瞳だ。
けれど、その怒りは私に向けられているというよりも、私をそう扱ってきた何かに向いているように見えた。
「君がどう思っていようと、ここではそうする。少なくともこの領では、誰の命も『処分』などという言葉では呼ばない」
胸の奥で、何かがきしんだ。
使い慣れていた言葉が、急に、ひどく汚いものに思えてくる。
伯爵家で育つ間、私は何度もそう呼ばれてきた。
いらないもの。
役に立たなければ処分されるもの。
だから、自分でもそう言うことに慣れてしまっていたのだ。
それは、傷つかないための手段でもあった。
先に自分を粗末に扱っておけば、他人にそうされても驚かずに済むから。
けれど、今は。
「……すみません」
ようやく絞り出した言葉が、それだった。
謝るべきなのかどうかも分からないのに、他に何と言えばいいのか分からなかった。
エルドールは、肩の力を少しだけ抜いた。
「謝るなと言っても無理だろうな」
「習慣なので」
「その習慣も、少しずつ変えていけ」
苦笑ともため息ともつかない息が漏れる。
「一年あれば、できるだろう」
「一年で……変えられるでしょうか」
「やってみる価値はある」
さりげなく言ったその一言に、私は小さく目を見開いた。
「一年あれば、お前の体の仕組みも調べられる」
彼は視線を地図に落としながら続ける。
「魔術師に相談し、過去の資料を洗い、できる限りの対策を講じる時間はあるはずだ」
「体の……仕組み」
「この領には、古い文献も残っている。王都ほどではないが、魔術師もいる。父親がどんな術式を使ったのかも、吐かせればいい」
淡々と言う口調なのに、内容は物騒だった。
私は思わず苦笑する。
「……閣下は、面倒ごとがお好きなんですね」
「好きではない」
即座に否定された。
「ただ、合理的ではないことが嫌いなだけだ」
「合理的では、ない」
「そうだ」
彼は指先で机を軽く叩く。
その音が、言葉を整理するように響いた。
「一年で確実に止まるものに、ただ黙って頷くのは簡単だ。契約にもそう書いてある。誰もが納得する終わりだろう」
「……はい」
「だが、もし仕組みを変えられる可能性があるのなら。それを最初から放棄するのは、俺の性に合わない」
彼はそこで初めて、少しだけ視線を上げた。
「お前の体は、普通ではない。危ういが、興味深い」
興味深い、という言葉に、少しだけ身がこわばる。
兵器としての価値を口にする人たちと、同じ響きに聞こえたのだ。
それを感じ取ったのか、エルドールは言葉を継いだ。
「……言い方が悪かった。興味本位で弄ぶつもりはない」
「分かっています」
本当に分かっているのか、自分でも自信はなかった。
それでも、彼の声の重さは、軽い好奇心だけで動いている人間のそれではない。
「一年あれば、できることは多い」
彼は書類を指で弾いた。
「体を楽にする薬の調合。棺の術式の解析。心臓の負担を減らす生活の工夫」
ひとつひとつ、淡々と挙げていく。
「何もせずに一年を待つか、もがきながら一年を積み重ねるか。どちらがいい」
問いかけられているのは分かるのに、すぐには答えが出てこなかった。
私は目を閉じる。
もがけば、希望が生まれる。
希望が生まれれば、失う怖さも大きくなる。
それが怖いのだ。
「……正直に言ってもいいですか」
「ああ」
「怖いです」
自分の声が、わずかに震えていた。
「何もしないまま一年を終えるのは、たぶん、もう覚悟ができています。でも、もし、変えられるかもしれないと言われて、それを信じてしまったら」
胸に手を当てる。
遅い鼓動が、今だけ少し早くなった。
「うまくいかなかった時に、また絶望するのが怖いんです」
だから、最初から諦めていた方が楽だと思っていた。
救われない物語なら、最初から救いを望まなければいい。
それが、私なりの自己防衛だった。
エルドールは、しばらく黙っていた。
机の上に置かれた彼の手を、私はぼんやりと見つめる。
節の太い指。いくつもの傷跡。
たぶん、何度も剣を握り、何度も血に触れてきた手だ。
「怖いのは、当然だ」
やがて落ちてきた声は、驚くほど穏やかだった。
「俺だって、十年前に一度失っている」
十年前。
聖女のことだろう。
その話題に、自分から触れるのは珍しいと思う。
「二度と同じ絶望を味わいたくはない。それでも、あの時もがいたからこそ、今、ここに領地が残っている」
彼は、窓の外をちらりと見やった。
夕陽に染まる黒鷲領。
乾いた風に揺れる草原と、遠くに見える森の影。
「結果がどうであれ、何もしなかったことだけは、きっと後悔する」
ゆっくりとした言い方だった。
自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「君がどうしたいかは、君が決めろ」
彼は、再び私を見る。
「ただ、一つだけ。最初から自分を『処分される側』に置いたまま、一年を過ごすことだけは、やめてほしい」
胸の奥に、また何かが落ちてきた。
重くて、あたたかいもの。
それをどう扱っていいのか分からなくて、私は思わず視線をそらす。
「……そんなに簡単に、考え方を変えられる人間なら」
小さな声でつぶやく。
「そもそも死ぬ前に、家を出ていました」
言ってから、自分でも驚いた。
家を出る、という発想を、私は一度も真剣に考えたことがなかったからだ。
エルドールは、少しだけ目を見開いた。
それから、ふっと口元をゆるめる。
「そうかもしれんな」
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
夕陽が、彼の影を長く伸ばす。
「だから一年ある」
背中越しに、静かな声がした。
「君が君自身をどう扱うか、考え直すには、短くはない時間だ」
一年。
誰かにとってはきっと瞬きの間のような時間。
私にとっては、二度目の人生のすべて。
「……努力は、してみます」
それが精一杯だった。
「すぐに信じることはできません。でも、一年のあいだ、少しずつでも」
「それで十分だ」
エルドールは振り返り、軽くうなずいた。
「俺も、やれることはやる。魔術師に話を通すのは俺の役目だ」
「迷惑では、ないですか」
「合理的だと言っただろう」
彼はあくまで淡々としている。
「一年後に死なせるにしても、苦しみを減らしておいた方がいい。それだけの理由でも、十分動く価値はある」
それは、優しさを合理性で包んだ言い方だった。
直接「君を救いたい」とは言わない。
代わりに、「やるべき仕事」として扱ってくれる。
その距離感が、今の私にはちょうどよかった。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
一年後に何が待っているのかは、まだ分からない。
でも少なくとも、ただ棺に戻されて「処分」されるだけの一年ではないのだと、少しだけ思えるようになった。
それが怖くて。
でも同時に、ひどく嬉しかった。




