第4話 ぎこちない食卓
翌朝、私は、自分の心臓がちゃんと動いているか確かめてからベッドを降りた。
手のひらを胸に当てると、遅いながらも規則正しい鼓動が返ってくる。
昨夜、棺の中で整えられたリズムは、まだ少しだけ残っているようだった。
侍女に起こされ、髪を整えられ、薄い色のドレスに着替える。
鏡の中の私は、やはりどこか死人めいていた。
血の気の薄い頬、うっすらと青い唇。目の下の影は、そう簡単には消えない。
「お加減はいかがですか、奥様」
背後から、侍女のミーナがそっと声をかけてきた。
この城に来てから世話をしてくれている、年の近い娘だ。
「大丈夫よ。昨日よりは、ずっと楽」
「よかった。朝食の席には、閣下とエリオ様もいらっしゃいます。少し緊張なさるかもしれませんが……」
ミーナは言いよどみ、それから勇気を振り絞ったように続けた。
「皆さま、奥様をお迎えする準備をして、お待ちしていました」
「準備、ですか」
「ええ。食堂の席も、新しく整えましたし。……閣下も、昨夜、とても気にしておられましたから」
礼拝堂での出来事が頭に浮かぶ。
棺の蓋越しに聞いた声。二度目の死を恐れるような、低い告白。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……頑張って、食べられるだけ食べてきます」
私はそう答え、ミーナと一緒に食堂へ向かった。
◇
食堂は、城の中でいちばん明るい場所だった。
大きな窓から朝の光が差し込み、白いテーブルクロスを柔らかく照らしている。壁には、黒鷲の紋章が刺繍されたタペストリーが掛けられていた。
大きな長テーブルの中央に、席が三つだけ用意されている。
奥の席に、エルドール。
その右隣に、エリオ。
左側の席が、たぶん私の席なのだろう。
エルドールは、いつも通りの黒い軍服姿だった。
朝から鎧を着ているわけではないが、それでも、戦場に出てもおかしくないほどきちんとしている。
エリオは、背筋をぴんと伸ばして座っていた。
けれど、私が入ってきたのを見ると、椅子の上で小さく体をこわばらせる。
「おはようございます」
私はドレスの裾をつまみ、軽く会釈した。
エルドールがうなずく。
「おはよう、ラウラ。具合は」
「昨日より、ずっといいです。……お世話になりました」
礼拝堂でのことを、どこまで言っていいのか迷いながらも、感謝だけは伝えておきたかった。
「ならいい」
彼はそれ以上は何も言わず、手で座るよう促してくれた。
私は用意された席に腰を下ろす。
テーブルの上には、温かいスープと、薄く切られたパン、野菜のソテー、それから少しだけ肉料理が並んでいた。
思ったよりも質素だ。
でも、この方が私にはありがたかった。
たくさん出されても、食べきれないから。
「お召し上がりください」
執事の声とともに、銀の蓋が外される。
湯気がふわりと立ちのぼる匂いに、少しだけ胃が反応した。
空腹感というより、義務感に近い。
食べなければ、体は動かない。
一年を持たせるためにも、できるだけ栄養を取らなければ。
私はスープ用のスプーンを取った。
エルドールは、静かに食べ始めている。
エリオは、ちらちらとこちらをうかがいながら、パンをちぎって口に運んでいた。
ぎこちない沈黙が、テーブルを包む。
家族と呼ぶには遠すぎる三人。
誰も、最初の言葉を探し出せずにいる。
「……いただきます」
小さく声に出してから、私はスープを口に運んだ。
温かさが喉を通り、胃へ落ちていく。
味は、薄い。
けれど、嫌いな味ではなかった。
三口、四口。
飲み進めていると、向かい側から、じっとした視線を感じた。
顔を上げると、エリオがスプーンを止めたまま、こちらを見つめていた。
「どうかした?」
できるだけ柔らかく問いかけると、彼は少しだけ首をかしげた。
「……お腹、空いてないの?」
「え」
「だって、全然食べてない」
そんなことはない。
私にしては、むしろよく食べている方だ。
けれど、彼の目には、あまり口を動かしていないように見えるのだろう。
「あまりたくさん食べられない体でして」
私は笑ってごまかした。
「少しずつなら、大丈夫よ」
「ふうん」
エリオはまだ納得がいかない様子で私を見ていた。
そして、思いついたままをそのまま口にする。
「やっぱり、死体なの?」
テーブルの上の音が、ぴたりと止まった。
スープの表面に、私の顔が歪んで映る。
死体。
正確には、半分死んでいる。
彼の言葉は、事実を知らない子どもの純粋な疑問で。
だからこそ、胸に刺さる。
「エリオ」
低い声で名前を呼んだのは、エルドールだった。
さっきまで穏やかだった声が、わずかに硬くなる。
「その言い方は失礼だ」
「でも、棺から出てきたし。冷たそうだし」
「だからといって、口にしていいことと悪いことがある」
エルドールの灰色の瞳が、エリオをまっすぐにとらえた。
叱る時の目だ。
少年の肩が、びくりと震える。
「ラウラは死体ではない」
静かな声だった。
けれど、その一言には、はっきりとした意志がこもっている。
「ラウラは生きている。少し弱いだけだ」
心臓が、強く一度打った。
熱いものが喉の奥までこみ上げる。
生きている。
少し弱いだけ。
その言葉を、自分に向けてくれる人が、この世にいるとは思っていなかった。
実家では、私はずっと「役に立たない庶子」で。
死にかけてからは「借金のカタにちょうどいい死体」として扱われてきた。
なのに。
「……本当に?」
エリオが、おずおずと尋ねる。
視線は父から私へ、行ったり来たりしていた。
エルドールは頷く。
「本当だ。彼女の心臓は遅いが、ちゃんと動いている。寒がりで、よく疲れる。それだけだ」
それだけ、ではない。
一年で止まるし、強い感情を抱けば命が削れる。
でも、彼はそこまで言わなかった。
エリオの前で、余計な恐怖を増やしたくなかったのかもしれない。
あるいは、私にとっても、今はその言葉だけで十分だと、分かっていたのかもしれない。
「ラウラ」
名前を呼ばれて、私は反射的に顔を上げた。
「……はい」
「食べられる分だけ食べろ。無理に勧めはしないが、全く口をつけないのもよくない」
「……分かりました」
声が少し震えてしまう。
けれど、食欲は、さっきよりも戻っていた。
スープをもう一口。
パンをちぎって、スープに浸してから口に入れる。
味は、やはり薄い。
それなのに、涙の味が混ざっているように感じた。
「ねえ」
向かいから、エリオが身を乗り出してきた。
「そんなに弱いのに、どうしてここに来たの?」
「エリオ」
エルドールが再び制止しようとする。
私は、それを手で制した。
「大丈夫です。少しくらいなら」
嘘をつくつもりはなかった。
でも真実をそのまま話すには、彼はまだ幼すぎる。
私は少し考えてから、言葉を選んだ。
「……うちの家が、少し困っていたの」
「困ってた?」
「そう。お金のこととか、人のこととか。いろいろ」
借金という単語を、小さな子どもの前で使うのは躊躇された。
「だから、私がここに来れば、家の人たちが少し楽になるかなって」
「それで、来たの?」
「ええ。それに、辺境伯様のところも、後妻が必要だったみたいだから」
私は、エルドールの方をちらりとうかがう。
彼は何も言わず、黙って食事を続けていた。
否定はしないのだと分かり、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……ふうん」
エリオは納得しきれない顔をしながらも、それ以上は突っ込んでこなかった。
代わりに、スープを飲みながらぽつりとつぶやく。
「ママは、いきなりいなくなっちゃった」
ママ。
その言葉に、食堂の空気が少し張りつめる。
エルドールも、手を止めた。
「王都の、あの大きな塔のそばでね。怖いモンスターがいっぱい出てきて」
エリオは、スープの表面を見つめたまま続ける。
「ママを守ってた兵隊さんたち、みんな光みたいになって消えちゃって。それで、ママも」
彼の声は、できるだけ平坦にしようとしているように聞こえた。
けれど、その指先はスプーンを握りしめて、白くなっている。
「ママのお墓は、王都にあるんだって。みんながそう言ってた」
王都。
魔獣災害。
かすかに聞いたことのある話が、頭の中でつながる。
十年前の大規模な魔獣発生。
聖女と呼ばれた女性が命を落とし、多くの兵が犠牲になった事件。
その「聖女」が、たぶん。
「エリオ」
エルドールの声が、低く響いた。
それ以上は、今は話したくないのだろう。
エリオははっとして、父親の方を見た。
「……ごめんなさい」
「謝るな。事実だ」
エルドールはそう言いながら、視線だけを私に向ける。
そこには、「無理に聞く必要はない」という静かな忠告があった。
私は、胸の中でそっと息をつく。
前妻は、聖女だった。
国にとって、領地にとって、彼にとって。
誰もが敬い、惜しんだ人。
その人の墓が王都にある。
私は、棺から出てきた死に損ないで。
借金のカタで。
その子どもの前で、「新しいお母さん」みたいな顔をして座っている。
比べられないはずがない。
比べてほしくないと思う自分が、いちばん卑怯だ。
スプーンを持つ手が、少し震えた。
「ラウラ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「……はい」
「食事のあと、城の中を案内しよう」
不意の申し出に、瞬きが増える。
「わ、私もですか」
「君の部屋と礼拝堂以外にも、知っておくべき場所がある。中庭、図書室、医務室。……それから、馬小屋も」
「馬小屋まで?」
「エリオが馬が好きでな。どうせなら、三人で行った方がいい」
エリオが、はっとしたように顔を上げた。
「いいの、父上? 馬小屋、行っても」
「条件付きだ」
エルドールはわずかに口元を緩めた。
「朝食をきちんと食べること。ラウラに失礼なことを言わないこと」
「……分かった」
エリオは少し考え、それから、決意したようにパンを頬張り始める。
さっきまで止まっていたスプーンも、せわしなく動き出した。
私は、不意に、笑いそうになった。
この家族は、きっと不器用で、傷だらけで。
それでも、どこか可笑しくて、愛おしい。
私がその中に入っていいのかは分からないけれど。
少なくとも今、ここで「いなくなった人」と「これから一年だけいる人」を、無理やり比べる必要はないのだと、少しだけ思えた。
「私も、頑張って食べます」
そう言って、スープをもう一口。
パンをもう一かけら。
胸の奥の鼓動は、まだ遅い。
でも、さっきよりも、確かに力強くなっていた。
ラウラは生きている。
少し弱いだけだ。
エルドールの言葉が、何度も頭の中で反復される。
そのたびに、ひどく場違いな気がして、くすぐったくて、どうしようもなく嬉しい。
一年だけの後妻であることに、変わりはない。
それでも。
この食卓で交わされた言葉だけは、私の中に、長く残っていく気がした。




