表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/21

第4話 ぎこちない食卓

 翌朝、私は、自分の心臓がちゃんと動いているか確かめてからベッドを降りた。


 手のひらを胸に当てると、遅いながらも規則正しい鼓動が返ってくる。


 昨夜、棺の中で整えられたリズムは、まだ少しだけ残っているようだった。


 侍女に起こされ、髪を整えられ、薄い色のドレスに着替える。


 鏡の中の私は、やはりどこか死人めいていた。


 血の気の薄い頬、うっすらと青い唇。目の下の影は、そう簡単には消えない。


「お加減はいかがですか、奥様」


 背後から、侍女のミーナがそっと声をかけてきた。


 この城に来てから世話をしてくれている、年の近い娘だ。


「大丈夫よ。昨日よりは、ずっと楽」


「よかった。朝食の席には、閣下とエリオ様もいらっしゃいます。少し緊張なさるかもしれませんが……」


 ミーナは言いよどみ、それから勇気を振り絞ったように続けた。


「皆さま、奥様をお迎えする準備をして、お待ちしていました」


「準備、ですか」


「ええ。食堂の席も、新しく整えましたし。……閣下も、昨夜、とても気にしておられましたから」


 礼拝堂での出来事が頭に浮かぶ。


 棺の蓋越しに聞いた声。二度目の死を恐れるような、低い告白。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


「……頑張って、食べられるだけ食べてきます」


 私はそう答え、ミーナと一緒に食堂へ向かった。


      ◇


 食堂は、城の中でいちばん明るい場所だった。


 大きな窓から朝の光が差し込み、白いテーブルクロスを柔らかく照らしている。壁には、黒鷲の紋章が刺繍されたタペストリーが掛けられていた。


 大きな長テーブルの中央に、席が三つだけ用意されている。


 奥の席に、エルドール。


 その右隣に、エリオ。


 左側の席が、たぶん私の席なのだろう。


 エルドールは、いつも通りの黒い軍服姿だった。


 朝から鎧を着ているわけではないが、それでも、戦場に出てもおかしくないほどきちんとしている。


 エリオは、背筋をぴんと伸ばして座っていた。


 けれど、私が入ってきたのを見ると、椅子の上で小さく体をこわばらせる。


「おはようございます」


 私はドレスの裾をつまみ、軽く会釈した。


 エルドールがうなずく。


「おはよう、ラウラ。具合は」


「昨日より、ずっといいです。……お世話になりました」


 礼拝堂でのことを、どこまで言っていいのか迷いながらも、感謝だけは伝えておきたかった。


「ならいい」


 彼はそれ以上は何も言わず、手で座るよう促してくれた。


 私は用意された席に腰を下ろす。


 テーブルの上には、温かいスープと、薄く切られたパン、野菜のソテー、それから少しだけ肉料理が並んでいた。


 思ったよりも質素だ。


 でも、この方が私にはありがたかった。


 たくさん出されても、食べきれないから。


「お召し上がりください」


 執事の声とともに、銀の蓋が外される。


 湯気がふわりと立ちのぼる匂いに、少しだけ胃が反応した。


 空腹感というより、義務感に近い。


 食べなければ、体は動かない。


 一年を持たせるためにも、できるだけ栄養を取らなければ。


 私はスープ用のスプーンを取った。


 エルドールは、静かに食べ始めている。


 エリオは、ちらちらとこちらをうかがいながら、パンをちぎって口に運んでいた。


 ぎこちない沈黙が、テーブルを包む。


 家族と呼ぶには遠すぎる三人。


 誰も、最初の言葉を探し出せずにいる。


「……いただきます」


 小さく声に出してから、私はスープを口に運んだ。


 温かさが喉を通り、胃へ落ちていく。


 味は、薄い。


 けれど、嫌いな味ではなかった。


 三口、四口。


 飲み進めていると、向かい側から、じっとした視線を感じた。


 顔を上げると、エリオがスプーンを止めたまま、こちらを見つめていた。


「どうかした?」


 できるだけ柔らかく問いかけると、彼は少しだけ首をかしげた。


「……お腹、空いてないの?」


「え」


「だって、全然食べてない」


 そんなことはない。


 私にしては、むしろよく食べている方だ。


 けれど、彼の目には、あまり口を動かしていないように見えるのだろう。


「あまりたくさん食べられない体でして」


 私は笑ってごまかした。


「少しずつなら、大丈夫よ」


「ふうん」


 エリオはまだ納得がいかない様子で私を見ていた。


 そして、思いついたままをそのまま口にする。


「やっぱり、死体なの?」


 テーブルの上の音が、ぴたりと止まった。


 スープの表面に、私の顔が歪んで映る。


 死体。


 正確には、半分死んでいる。


 彼の言葉は、事実を知らない子どもの純粋な疑問で。


 だからこそ、胸に刺さる。


「エリオ」


 低い声で名前を呼んだのは、エルドールだった。


 さっきまで穏やかだった声が、わずかに硬くなる。


「その言い方は失礼だ」


「でも、棺から出てきたし。冷たそうだし」


「だからといって、口にしていいことと悪いことがある」


 エルドールの灰色の瞳が、エリオをまっすぐにとらえた。


 叱る時の目だ。


 少年の肩が、びくりと震える。


「ラウラは死体ではない」


 静かな声だった。


 けれど、その一言には、はっきりとした意志がこもっている。


「ラウラは生きている。少し弱いだけだ」


 心臓が、強く一度打った。


 熱いものが喉の奥までこみ上げる。


 生きている。


 少し弱いだけ。


 その言葉を、自分に向けてくれる人が、この世にいるとは思っていなかった。


 実家では、私はずっと「役に立たない庶子」で。


 死にかけてからは「借金のカタにちょうどいい死体」として扱われてきた。


 なのに。


「……本当に?」


 エリオが、おずおずと尋ねる。


 視線は父から私へ、行ったり来たりしていた。


 エルドールは頷く。


「本当だ。彼女の心臓は遅いが、ちゃんと動いている。寒がりで、よく疲れる。それだけだ」


 それだけ、ではない。


 一年で止まるし、強い感情を抱けば命が削れる。


 でも、彼はそこまで言わなかった。


 エリオの前で、余計な恐怖を増やしたくなかったのかもしれない。


 あるいは、私にとっても、今はその言葉だけで十分だと、分かっていたのかもしれない。


「ラウラ」


 名前を呼ばれて、私は反射的に顔を上げた。


「……はい」


「食べられる分だけ食べろ。無理に勧めはしないが、全く口をつけないのもよくない」


「……分かりました」


 声が少し震えてしまう。


 けれど、食欲は、さっきよりも戻っていた。


 スープをもう一口。


 パンをちぎって、スープに浸してから口に入れる。


 味は、やはり薄い。


 それなのに、涙の味が混ざっているように感じた。


「ねえ」


 向かいから、エリオが身を乗り出してきた。


「そんなに弱いのに、どうしてここに来たの?」


「エリオ」


 エルドールが再び制止しようとする。


 私は、それを手で制した。


「大丈夫です。少しくらいなら」


 嘘をつくつもりはなかった。


 でも真実をそのまま話すには、彼はまだ幼すぎる。


 私は少し考えてから、言葉を選んだ。


「……うちの家が、少し困っていたの」


「困ってた?」


「そう。お金のこととか、人のこととか。いろいろ」


 借金という単語を、小さな子どもの前で使うのは躊躇された。


「だから、私がここに来れば、家の人たちが少し楽になるかなって」


「それで、来たの?」


「ええ。それに、辺境伯様のところも、後妻が必要だったみたいだから」


 私は、エルドールの方をちらりとうかがう。


 彼は何も言わず、黙って食事を続けていた。


 否定はしないのだと分かり、胸の奥が少しだけ軽くなる。


「……ふうん」


 エリオは納得しきれない顔をしながらも、それ以上は突っ込んでこなかった。


 代わりに、スープを飲みながらぽつりとつぶやく。


「ママは、いきなりいなくなっちゃった」


 ママ。


 その言葉に、食堂の空気が少し張りつめる。


 エルドールも、手を止めた。


「王都の、あの大きな塔のそばでね。怖いモンスターがいっぱい出てきて」


 エリオは、スープの表面を見つめたまま続ける。


「ママを守ってた兵隊さんたち、みんな光みたいになって消えちゃって。それで、ママも」


 彼の声は、できるだけ平坦にしようとしているように聞こえた。


 けれど、その指先はスプーンを握りしめて、白くなっている。


「ママのお墓は、王都にあるんだって。みんながそう言ってた」


 王都。


 魔獣災害。


 かすかに聞いたことのある話が、頭の中でつながる。


 十年前の大規模な魔獣発生。


 聖女と呼ばれた女性が命を落とし、多くの兵が犠牲になった事件。


 その「聖女」が、たぶん。


「エリオ」


 エルドールの声が、低く響いた。


 それ以上は、今は話したくないのだろう。


 エリオははっとして、父親の方を見た。


「……ごめんなさい」


「謝るな。事実だ」


 エルドールはそう言いながら、視線だけを私に向ける。


 そこには、「無理に聞く必要はない」という静かな忠告があった。


 私は、胸の中でそっと息をつく。


 前妻は、聖女だった。


 国にとって、領地にとって、彼にとって。


 誰もが敬い、惜しんだ人。


 その人の墓が王都にある。


 私は、棺から出てきた死に損ないで。


 借金のカタで。


 その子どもの前で、「新しいお母さん」みたいな顔をして座っている。


 比べられないはずがない。


 比べてほしくないと思う自分が、いちばん卑怯だ。


 スプーンを持つ手が、少し震えた。


「ラウラ」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


「……はい」


「食事のあと、城の中を案内しよう」


 不意の申し出に、瞬きが増える。


「わ、私もですか」


「君の部屋と礼拝堂以外にも、知っておくべき場所がある。中庭、図書室、医務室。……それから、馬小屋も」


「馬小屋まで?」


「エリオが馬が好きでな。どうせなら、三人で行った方がいい」


 エリオが、はっとしたように顔を上げた。


「いいの、父上? 馬小屋、行っても」


「条件付きだ」


 エルドールはわずかに口元を緩めた。


「朝食をきちんと食べること。ラウラに失礼なことを言わないこと」


「……分かった」


 エリオは少し考え、それから、決意したようにパンを頬張り始める。


 さっきまで止まっていたスプーンも、せわしなく動き出した。


 私は、不意に、笑いそうになった。


 この家族は、きっと不器用で、傷だらけで。


 それでも、どこか可笑しくて、愛おしい。


 私がその中に入っていいのかは分からないけれど。


 少なくとも今、ここで「いなくなった人」と「これから一年だけいる人」を、無理やり比べる必要はないのだと、少しだけ思えた。


「私も、頑張って食べます」


 そう言って、スープをもう一口。


 パンをもう一かけら。


 胸の奥の鼓動は、まだ遅い。


 でも、さっきよりも、確かに力強くなっていた。


 ラウラは生きている。


 少し弱いだけだ。


 エルドールの言葉が、何度も頭の中で反復される。


 そのたびに、ひどく場違いな気がして、くすぐったくて、どうしようもなく嬉しい。


 一年だけの後妻であることに、変わりはない。


 それでも。


 この食卓で交わされた言葉だけは、私の中に、長く残っていく気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ