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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: 妙原奇天


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第3話 棺で眠る花嫁

 案内された寝室は、驚くほど静かだった。


 高い天蓋付きのベッドと、小さな暖炉。壁には黒鷲領の地図と、簡素な聖人画。贅沢ではないけれど、必要なものはきちんと揃っている。


 私は部屋の真ん中で立ち尽くしたまま、指先をぎゅっと握りしめた。


「何か足りないものがあれば、執事か侍女に言え」


 背後から落ち着いた声がする。


 振り向くと、エルドールが扉のそばに立っていた。さっき礼拝堂で見た時よりも、少しだけ距離が近い。


 軍服の上着は脱いでいる。それでも肩の線は硬くて、油断というものがどこにも見当たらない。


「ここが、あなたの部屋だ」


「こんな立派な部屋、私にはもったいないくらいです」


 思わず本音がこぼれて、しまったと口元を押さえる。


 けれど彼は表情を変えなかった。


「もったいないかどうかは、俺が決める」


 短くそう言ってから、少しだけ視線を落とす。


「体調は。……さっきから顔色が、あまりよくない」


「生まれつき、こういう色なのだと思ってください」


 冗談めかして返すと、彼はわずかに眉を寄せた。


「父上様が説明されたと思いますが」


 私は胸に手を当てた。


「鼓動が遅くて、時々、強く打ちすぎると止まりかけてしまいます。今日も、長旅で少し疲れているだけですから」


「そうか」


 彼は短くうなずき、部屋の中を見渡した。


「まず、生活の決まりごとをいくつか話しておく」


「決まりごと、ですか」


「日中は侍女か護衛が必ず側にいるようにする。廊下を歩く時も、極力一人にはしない」


 領主と後妻というより、危険物の扱い説明をされているような気がして、少しだけ苦笑する。


 けれど、それは間違ってはいないのだろう。


 私は危うい術で繋ぎとめられた、半分だけの命なのだから。


「眠る場所は、このベッドでかまわないか?」


「はい。十分すぎるくらいです」


「……ただ」


 エルドールは言葉を区切って、礼拝堂の方向を指さした。


「あの棺のことは、覚えているか」


「もちろんです」


 棺から出てきたばかりなのだから、忘れようもない。


 黒い木、銀の装飾、ひんやりとした内側。


 あの中で、私は少しだけ呼吸のしやすさを感じていた。


「具合が悪くなった時は、あそこを使え」


 彼は淡々と告げる。


「礼拝堂は静かだ。魔術師に聞いた限りでは、棺の中に入ると、君の負担が幾分か軽くなるらしい」


「魔術師の方が……」


「術式の監査は済んでいる。完全な安全は保証できないが、少なくとも、ここで野ざらしにしておくよりはましだ」


 野ざらし、という言葉に、少し笑ってしまいそうになる。


 自分の命の扱いが、どんどん現実的になっていく。


「ただし」


 エルドールの灰色の瞳が、私を正面からとらえた。


「礼拝堂に一人で籠もるのは禁止だ」


「……禁止」


「夜中でも、誰かに声をかけてから行け。棺の中に入る時は、必ず誰かが出入口まで付き添うこと。万が一、何かあった時に気づけない」


 理屈は分かる。


 ひとりで倒れてしまえば、誰も気づかないまま、二度目の死が訪れるかもしれない。そんな終わり方は、さすがに誰にとっても後味が悪いだろう。


「分かりました」


 私は素直にうなずいた。


「礼拝堂にひとりで籠もらないこと。必ず誰かに声をかけること」


「そうだ」


 彼は満足そうでも不満そうでもない、いつもの無表情で頷く。


「今日はもう休め。食事は軽いものを持ってこさせる。夜中に苦しくなったら、遠慮なく呼べ」


「……呼んでも、よろしいのですか」


 思わず問い返していた。


 後妻とはいえ、私は一年だけの借り物だ。夜中に呼び出すなど、迷惑ではないだろうか。


 エルドールは、少しだけ目を細めた。


「君の体が止まれば、俺は借金のカタも失う。損な取引は好まない」


「現実的ですね」


「領主だからな」


 軽い返事。


 それなのに、胸の中にほんの少しだけ安心が広がる。


 彼は義務であっても、私を生かそうとしているのだ。


 それは、自分一人で命を消費していくよりも、ずっとましな感覚だった。


「失礼する」


 短い挨拶とともに、エルドールは部屋を出ていった。扉が閉まる音がして、静けさが戻る。


 私はベッドの端に腰を下ろした。


 マットレスが柔らかく沈む。


 故郷の硬い寝台とは比べものにならない。


 けれど、横たわるのが、少し怖かった。


 一度目の死も、ベッドの上だったからだ。


        ◇


 その夜、私は何度も目を覚ました。


 眠ろうとして目を閉じるたび、喉の奥に「最後に吸い込んだ息」の記憶が蘇る。


 肺が焼けるように痛くなり、視界がかすんでいって、遠くで誰かが泣いている声。


 あの時よりは、まだ楽だ。


 それでも、胸に手を当てると、鼓動がうまくつかめない。


 どくん、と一度打ったあと、次が来るまでの間が長すぎる。待ちきれなくて、体が勝手に力んでしまう。


「……苦しい」


 ぽつりとつぶやいて、天蓋の布を見上げた。


 暗闇に目が慣れてきて、部屋の輪郭がかろうじて分かる。


 窓の外では、風が石壁にぶつかる音がしていた。


 ここは辺境だ。夜になれば魔獣が森から出てくると聞いた。


 外は危険で、ここは安全。


 そう分かっていても、胸の奥のざわめきは収まらない。


 私はゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に座った。


 息を整えようとしても、喉の奥が空回りするだけだ。


 心臓がちゃんと働いていない感覚に、体中が不安を訴えている。


「……棺」


 思わず、その言葉が口をついた。


 礼拝堂の真ん中に置かれた、黒い棺。


 あの中に横たわっていた時だけ、少しだけ楽だった。


 体の重さが薄れて、胸の痛みが遠ざかっていくような、不思議な感覚。


 魔術師の術式とやらの効果なのだろう。


「試してみても、いいでしょうか」


 誰に許可を求めているのか、自分でも分からない。


 エルドールは「一人で礼拝堂に行くな」と言った。


 でも今、侍女を呼べば、心配させることになる。領主を起こすのは、それこそ迷惑だ。


 一年だけの命なのに、その一年の最初の夜から人を振り回すのは、気が引けた。


 だったら、こっそり行って、すぐ戻ればいい。


 何かあれば、すぐに声を上げればいいのだから。


 私は自分に言い訳をしながら、ベッドから立ち上がった。


 足元は少しふらついたが、歩けないほどではない。


 上掛けを肩にかけ、静かに扉を開ける。


 廊下には、壁にかけられたランプが一定の間隔で灯されていた。


 夜番の兵士の足音が遠くに聞こえるが、幸いこの階には誰もいないようだ。


 私は足音を殺すようにして、礼拝堂の方へ向かった。


 黒鷲領の城は、思ったよりも複雑ではない。


 階段を一つ降りて、長い廊下を曲がっていくと、昼間見た重い扉が現れた。


 礼拝堂の扉だ。


 そっと押すと、予想よりも軽く動いた。油がきちんと差してあるのだろう。


 中の空気は、ひやりとしていて、どこか懐かしい匂いがした。


 古い木と、ろうそくの蝋。それから、誰かの祈りが染み込んだ石の匂い。


 静かだが、寂しくはない。


 私は扉を閉め、ゆっくりと祭壇の方へ進んだ。


 中央に、黒い棺が置かれている。


 昼間と同じ場所。けれど今は誰も見ていない。


 棺の表面に、ろうそくの明かりが柔らかく反射していた。


「失礼します」


 誰もいないのに、つい小さく頭を下げる。


 棺の蓋に手をかけると、冷たい感触が指先を伝った。


 深呼吸をひとつしてから、そっと持ち上げる。


 中は、昼間と変わらない。薄い布が敷かれているだけだ。


 私は裾を整え、ためらいながら足を入れた。


 冷たさが、肌をなぞる。


 ベッドの柔らかい温かさとは正反対。


 それなのに、嫌な冷たさではなかった。


 ゆっくりと横たわると、全身が冷水に浸されたような感覚に包まれた。


 苦しさではない。


 むしろ、焼けつくようだった胸の奥の熱が、すっと引いていく。


 心臓に手を当てる。


 どくん、どくん、と、さっきよりも整ったリズムで音がしていた。


 遅いけれど、規則正しい。


 やっと自分の鼓動と呼吸が、かみ合ったような感覚になる。


「……楽」


 思わず、声に出していた。


 棺の内側の壁は、外側よりも滑らかだ。指先でなぞると、微かな凹凸がある。


 目を凝らすと、小さな文字のようなものが刻まれていた。


 見たことのない古い文字。線と線が複雑に絡み合って、渦のような模様を作っている。


 私は好奇心に負けて、その一つを指でなぞった。


 その瞬間。


 指先から、細い光が走った気がした。


「え」


 思わず手を離す。


 見間違いだろうか。もう一度そっと触れると、今度は何も起こらない。


 灯りの加減で、そう見えただけかもしれない。


 それでも、胸の奥にひっかかりが残った。


 この棺は、単なる箱ではない。


 魂のどこかを、確かに掴んでいる。


「一年だけ、お願いします」


 誰に向かって言っているのか分からない呟きだった。


 棺か、神か、術式を組んだ魔術師か。


 そうでなければ、私をここに送り込んだ父か。


「一年だけでいいので、穏やかに過ごさせてください」


 静かな息が、棺の中に溶けていく。


 冷たい空気が肺に入っていくのに、さっきのような恐怖はなかった。


 目を閉じると、胸の痛みがさらに遠ざかる。


 ここだけが、死に近くて、でも生きやすい場所だ。


 そんな逆説が、なぜかしっくりと胸に落ちた。


        ◇


 どれくらい眠っていたのか分からない。


 夢も見なかった。


 ただ、遠くで誰かが私の名を呼ぶ声がして、意識がゆっくりと浮かび上がってきた。


「ラウラ」


 低い声。


 聞き覚えのある音の高さ。


 私は重たい瞼を少しだけ開けた。


 棺の蓋は閉じているはずなのに、不思議と、外の気配がすぐ近くに感じられる。


「勝手にここまで来るなと言ったはずだが」


 呆れとも怒りともつかない声。


 けれど、その底には、はっきりとした安堵が混じっていた。


 エルドールだ、とすぐに分かった。


 私は、まだ完全には動かない舌を何とか持ち上げる。


「……すみません。少し、息が、苦しくて」


「侍女を呼ぶ前に、礼拝堂まで歩いてきたのか」


 ため息が落ちてきた。


「順番がおかしいな」


「棺の方が、楽だと思ったので」


「結果としては、そうかもしれんが」


 小さく何かを噛み殺すような気配がする。


 蓋の上に置かれた手の影が、うっすらと透けて見えた。


 彼はしばらく黙ったまま、そこから動かなかった。


 やがて、抑えた声でぽつりとこぼす。


「十年前を、思い出した」


 十年前。


 その言葉の意味は、すぐには飲み込めなかった。


 私は目を細めて、棺の木目を見つめる。


「……誰か、ここに」


「昔、同じように棺に横たわっていた人がいる」


 淡々とした声なのに、ところどころで途切れそうになっている。


「彼女も、もう目を覚まさなかった」


 彼女。


 それが、噂に聞いた婚約者なのだろうと気づいたのは、少しあとだった。


 今はただ、その声の奥に沈んでいるものの重さに、息を飲む。


「だから、君も二度と起きないかと思った」


 とても静かな告白だった。


 胸の中で、何かがきゅっと縮む。


 棺の中は冷たいのに、その言葉は不思議と熱を帯びていた。


「起きて、すみません」


 自分でもおかしな返事だと思った。


 謝るところではないのに、他に何と言えばいいか分からなかった。


 蓋の向こうで、彼が一瞬だけ息を呑む気配がする。


「……そういう時に謝るな」


「習慣で」


「習慣を変えろ」


 短くそう言ったあと、彼は棺の蓋に軽く手をたたいた。


「今はもう苦しくないか」


「はい。だいぶ、楽になりました」


「そうか」


 ほっとしたような、けれどまだ完全には緊張を解いていない声音。


「本当は、ここで眠る時は誰かを呼べと言ったはずだ」


「怒っていますか」


「怒っている」


 間を置かない答えに、思わず身をすくめる。


 けれど次の言葉は、少しだけ柔らかかった。


「二度と同じことはするな。俺に心臓に悪い」


「それは……私の方が心臓は悪いので」


「それも早くどうにかしたいところだ」


 少しだけ、会話の調子が戻ってくる。


 棺の中と外で話しているのに、なぜか距離が近いと感じた。


「今夜は、このままここで眠るか」


「構いませんか」


「棺は、そのために置いてある」


 即答だった。


「ただし。明日からは必ず誰かを連れてこい」


「……はい」


 素直に従うしかない。


 私は目を閉じた。


 蓋の向こうで、彼がしばらくじっと立ち尽くしている気配がする。


 きっと、何かを思い出しながら、今と十年前を重ねているのだろう。


 それが、誰かを失った痛みであることくらい、私にも分かった。


「おやすみ、ラウラ」


 ふいに落ちてきたその言葉に、胸の奥があたたかくなる。


「おやすみなさい、エルドール様」


 棺の内側に刻まれた古い文字が、ほんの一瞬だけ、また淡く光った気がした。


 それが私の錯覚でなければいいと、なぜかそんなことを思いながら、私は静かな眠りに沈んでいった。

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