第21話 本当の告白
世界の外側へ、と願ったはずなのに。
意識がほどけていく途中で、私はふいに引き戻された。
重たい何かが、棺の蓋を叩いている。
石と金属がきしむ鈍い音。
そして、その隙間から、聞き慣れた気配が滲み込んできた。
「ラウラ!」
名前を呼ぶ声が、棺の壁を震わせる。
たくさんの音が混ざり合っていて。
剣が石を削るような鋭い響きと、誰かの叫び声と。
その全部を上書きするみたいに、低くてよく通る声が、私だけを呼んでいた。
世界の呪いよりも、羅針盤の光よりも。
エルドール様の声が、何より強く胸に刺さる。
「……どうして」
もう、間に合わない。
羅針盤の針は、世界の縁へ向けて固定されたはずだ。
あとは、私が砕けるのを待つだけ。
そう自分に言い聞かせようとしても。
棺の外側で、必死に蓋をこじ開けようとしている気配から、どうしても目が逸らせない。
ごう、と大気がうなる。
魔法陣の光が、棺の隙間から差し込んでくる。
その中で、金属と革の擦れる音がして。
彼が、棺にすがりついたのだと分かった。
「ラウラ、俺だ」
低く、掠れた声。
こんなふうに、名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。
いつもはもっと距離のある呼び方をされていた気がする。
「聞こえているなら、返事をしろ」
棺の蓋に、拳が打ち付けられる。
一度ではない。
二度、三度。
骨が軋む音が、石越しに伝わってくる。
やめてほしい。
そんなことをしても、封印は解けない。
ザイアルが言っていたように、これは王都の大陸規模の術式だ。
辺境伯一人の力で、どうこうできるものではない。
分かっているのに。
「……エルドール様」
喉の奥で名前を呼んだ瞬間、羅針盤の光がぴくりと揺れた。
胸の奥で流れ始めていた「世界の外」への線が、一瞬だけ細くなる。
それでも、まだ針は向こう側を指している。
私が望んだ方向へ。
誰もいない、静かな終わりへ。
「ラウラ」
もう一度、彼が名前を呼ぶ。
今度は、さっきよりも少し柔らかい声で。
「……すまない」
謝罪だと分かる響きだった。
「こんなものに、お前を閉じ込めてしまった」
こんなもの。
棺のことだろう。
それとも、世界の呪いのことだろうか。
どちらにせよ、エルドール様が謝る筋合いはない。
これは、父と王都が仕掛けた罠なのだから。
そう分かっていても、胸がじんと温かくなる。
私のために謝ってくれる人なんて、ほとんどいなかったからだ。
「違います……」
声に出したつもりが、かすれて空気に溶けた。
棺の内側でささやいても、彼には届かない。
代わりに、羅針盤の光が、また微かに震えた。
「ラウラ」
彼は、棺の蓋に額を押し当てたらしい。
振動の仕方で、なんとなく分かる。
「聞いてくれ」
短く息を整える気配がして。
それから、ゆっくりと言葉が落ちてきた。
「俺は、うまく話すのが苦手だ」
知っています、と心の中でうなずく。
最初に出会ったときからずっと、彼は不器用だった。
優しさも、怒りも、たいてい無表情に隠してしまう人だった。
「だから、ずっと黙っていた」
棺の外で、手袋の革がきしむ。
拳を握りしめる音だ。
「だが、黙ったまま、お前を失うのは……さすがに、許されない気がする」
かすかな自嘲が混じった声。
そんなふうに自分を責めないでほしい。
本当に責められるべき人は、別にいるのだから。
父とか。
王とか。
ザイアルとか。
でも、その言葉は喉で溶けたまま出てこない。
代わりに、彼の声だけが響き続ける。
「ラウラ」
何度目か分からない名前の呼び方で、今度は、少しだけ笑っている気配がした。
「お前がここに来てからだ」
ぐっと棺を押さえるような音がして。
そのまま、彼はゆっくりと続けた。
「俺は、息ができるようになった」
胸の奥が、きゅっと縮む。
さっきまで、世界の呪いが重しのように乗っていた場所とは別のところ。
もっと柔らかい場所が、突然掴まれたみたいに痛んだ。
「十年前から、ずっと窮屈だった」
彼の言葉は、とても静かだった。
「息を吸うたびに、胸の中が血でいっぱいになるような気がしていた」
十年前の棺。
亡くなった婚約者。
エリオの本当の母。
その影を思うと、胸がざわつく。
私は、その人の代わり。
政治の駒。
死に損ない。
そう言われても仕方がない立場だ。
「俺は、誰も責められなかった」
棺の向こうで、彼が苦く笑う。
「魔獣を責めたところで、あいつらに心はない。
王を責めれば、領地ごと潰される。
自分を責めれば、エリオに顔向けできなくなる」
一つひとつの言葉が、棺の内側の私の胸に刺さっていく。
彼もまた、誰にも行き場のない痛みを抱えていたのだと、今さら知る。
「だから、全部押し込めた」
十年前から続いていた、彼のやり方。
感情を斬り捨てて、領地を守り、息子を守り、それ以外は見ないようにしてきた男。
その目の前に、私が現れた。
「棺に入れられた花嫁、という冗談みたいな話を聞いたときは……正直、苛立った」
棺の外で、彼が小さく息を吐く。
「まただと思った。
また、棺が俺の前に置かれるのかと」
十年前と同じ光景。
白い棺。
血の匂い。
泣き叫ぶ声。
それらが重なるのを、彼は何より恐れていたのだろう。
「だが、蓋を開けたら」
拳の力が、少しだけ弱くなる。
「中にいたのは、死体じゃなかった」
息を呑む音がした。
彼自身が、あの日と今を比べているのだと分かる。
「冷たくて、壊れそうで。
それでも、確かに息をしている娘だった」
その「娘」という言い方が、少しだけくすぐったい。
でも、嫌ではなかった。
「お前は、棺から出ても、よく笑う子ではなかった」
そうですね、と心の中でうなずく。
笑い方を、忘れてしまっていたから。
「何をしても、『すみません』と『ありがとうございます』しか言わないから、俺はずっと腹を立てていた」
「……え」
思わず声が漏れた。
腹を立てていたのは、私のほうだと思っていた。
どうしてこの人は、こんなに感情を見せないのだろう。
どうして、何を言っても淡々としているのだろう。
何度もそう思っていたのに。
「腹を立てていたのは、俺のほうだ」
彼は、はっきりと言い直す。
「自分を何度も『いらないもの』みたいに扱うその口ぶりが、どうしようもなく腹立たしかった」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「お前は、生きている」
何度も聞いてきた言葉。
朝の食卓で。
病室で。
廊下で倒れた私を抱き起こしながら。
彼はそのたび、「ラウラは生きている」と言ってくれた。
「少し弱いだけだ」
それも、何度も繰り返してくれた。
「だから……」
棺の向こうで、彼が言葉を探しているのが分かる。
重たい静寂のあと。
ゆっくりと落ちてきた一文が、羅針盤の針を強く揺らした。
「俺は、お前と生きたい」
世界の外側ではなく。
この人と、生きる。
その選択肢が、胸に突きつけられる。
「過去を許せとは言わない」
彼の声は、低く静かだ。
「俺にも、許せないものはたくさんある。
王も。
魔獣も。
お前の父も」
最後の一つに、ほんの少し怒りが混じる。
それでもすぐに、その怒りを飲み込んで。
彼は続きを言う。
「だが、それでもいい」
拳が、もう一度棺を叩く。
今度は、さっきまでのような焦りではなく。
なにかを、ぐっと掴み取ろうとする力強さだ。
「許せないものを抱えたままでもいいから。
俺は、お前と一緒に、生きていきたい」
胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
私は、この一年。
ずっと「いなくなったほうが楽だろう」と思っていた。
彼にとっても。
エリオにとっても。
領地にとっても。
死に損ないで、いつ爆発するか分からない爆弾のような身体を抱えている私が。
消えたほうがいい、と。
「一年でも」
棺の向こうで、彼が続ける。
「一年でもいい。
十年でもいい。
たとえ明日死ぬことになっても構わない」
そこまで言って。
彼は、一度息を呑む。
決意を固めるように、言い切った。
「それでも俺は、お前と一緒にいたい」
羅針盤の光が、激しく脈打つ。
針が狂ったように回転し始めた。
世界の外側を指していた線が、いったんほどける。
代わりに、棺の外側――礼拝堂の床。
その先に立つ、彼の存在へと、細い糸が伸びていく。
「……どうして」
涙が、頬を伝う。
こんなときに。
こんな場所で。
どうして、そんなことを言ってくれるのだろう。
「お前が来てからだ」
彼は、静かに答える。
「エリオが、眠るようになった」
思いもよらない名前が出てきて、胸が跳ねる。
「夜中にうなされて、あの頃の光景を思い出すことが減った」
十年前の、魔獣の夜。
白い棺。
血の匂い。
エリオの小さな身体を抱きしめていた彼の姿が、以前聞いた断片と一緒に浮かぶ。
「お前が、絵本を読んでくれたからだ」
絵本。
あの拙い読み聞かせで。
震える声で必死に読み上げた、夜の物語で。
「お前が、エリオの手を握ってくれたからだ」
第六話の夜が、鮮やかによみがえる。
エリオが泣きながら「死なないで」と縋ったあの夜。
私は、エルドール様の代わりに、エリオの手を握った。
その瞬間、心臓がひどく痛んで。
命が削れていくのを、確かに感じたのに。
彼は、そのことを覚えていてくれた。
「お前が、俺の分まで、あいつの手を握ってくれた」
棺の蓋に、彼の手がゆっくりと滑る。
そこに、私の手を重ねたい。
そう思っても、封印が邪魔をする。
「だから、今度は俺の番だ」
彼の声が、少しだけ強くなる。
「お前の手を、俺が握る番だ」
羅針盤の針が、完全に方向を変えた。
世界の外側ではなく。
礼拝堂の、ほんの数歩先。
棺の蓋に額をつけている男の胸へと。
細い線がぴん、と張り詰める。
魂の行き先を決める羅針盤が、私の意志と、彼の言葉で、書き換えられていく。
「ラウラ」
今度の呼びかけは、震えていた。
「本当は、あの日」
丘の上の夜が、蘇る。
星空の下で、キス未遂に終わった夜。
「お前に触れたとき、俺は確信した」
彼の手の温度。
私の冷たい頬。
触れ合った場所だけが、やけに鮮明だった。
「これは、十年前の棺とは違う。
これは、俺の過去を埋める棺じゃない」
言葉の意味を、ゆっくりとかみしめる。
「お前は、俺のこれからだ」
胸が、悲鳴のように鳴る。
痛みと、喜びが、まったく同じ場所でぶつかっている。
「だから、勝手に終わらせるな」
棺の蓋が、ぎり、と軋む。
彼が、最後の一押しをするように、両手で押し付けている気配がした。
「一年で終わるはずだっただと?」
低く、怒りを含んだ声。
「そんな勝手な契約、俺は最初から受け入れていない」
それは、ずるい言い方だ。
でも、ずるいのに、嬉しくて泣きたくなる。
「エルドール様……」
気づけば、私は両手を伸ばしていた。
棺の内側に、必死に手を突き出す。
封印の光が、皮膚を焼くように弾いてくる。
それでも、伸ばさずにはいられない。
「私は」
喉が、熱くて苦しい。
「私は、あなたの邪魔になるだけです」
それが、ずっと信じてきた自分の役割だ。
「あなたの領地を脅かす爆弾で。
エリオの未来を奪う危険で。
世界に災厄を振りまく核で」
言葉を重ねるたびに、羅針盤の光がうねる。
世界の呪いと、私自身の自己否定が、互いに絡み合っている。
「それでもか」
短く、鋭い問い。
「それでも、俺はお前が必要だと言っている」
棺の向こう側で、彼がはっきりと言い切る。
「俺のために死ぬな、ラウラ」
その一言が、胸を貫いた。
「俺のために消えるな」
世界のためでもいい。
領地のためでもいい。
王国のためでもいい。
「お前が、自分のために、生きろ」
最後だけ、ほんの少し声が揺れた。
「俺のそばで」
羅針盤の針が、完全に反転する。
世界の縁から、彼の胸へ。
黒い泥のような呪いが、細い糸を伝って流れの向きを変え始める。
世界の外側へ押し出すはずだったそれらが。
今度は、彼のもとへ集まりかけている。
「だめ……」
思わず声が漏れた。
これでは、彼が呪いを被ってしまう。
エルドール様の胸が、黒い泥で満たされてしまう。
それだけは、嫌だ。
「エルドール様を、巻き込むわけには」
震える指先を、再び古代文字に触れさせる。
血はもうほとんど出てこない。
それでも、残ったわずかな熱を、文字に押し込むように。
「世界の外側じゃなくて、いい」
自分でも、何を言っているのか分からなくなる。
さっきまで、あれほど願っていた終わりなのに。
「私の魂の行き先は」
羅針盤の光が、問いかけるように揺れる。
世界の地図が、もう一度広がる。
王都。
隣国。
遠い大陸。
そして、ほんの数歩先。
棺の向こうにいる、一人の男。
その胸の奥で、かすかに光るものが見える。
十年前の傷だらけの心臓。
婚約者を失った夜から、ずっと止まりかけていた鼓動。
それでも、エリオを守るために、領地を守るために、無理やり動かし続けてきた心。
そこには、まだ空白がある。
失った誰かのために空けられた、穴のような空白。
私は、その空白を見つけてしまった。
「私の魂の行き先は」
棺の内側に、額を押し付ける。
外側で、同じように額をつけているであろう彼と、薄い石を挟んで向かい合う形になる。
「エルドール様のいる場所」
はっきりと、そう言った。
世界の外側ではなく。
この人の、胸の内側。
誰のものでもなかった空白の場所に、自分の居場所を指定する。
「そこにだけ、固定してください」
羅針盤の針が、ぐん、と彼の胸へ吸い寄せられる。
黒い泥が、一斉に流れの向きを変えた。
世界中の憎しみと呪いが、彼の胸へ殺到しようとしている。
でも、その前に。
彼の胸の中で光っていた、小さな火が、柔らかく揺れた。
それは、エリオの笑い声。
兵たちの忠誠。
黒鷲領の人々の生活。
そして、この一年で生まれた、私への感情。
愛、と呼ぶには、まだ拙いかもしれない。
それでも確かに、私に向けられた温度。
羅針盤は、それを感知する。
私の「強い魂」は、その火に引き寄せられる。
世界の呪いごと、そこへ流れ込むはずだった黒い泥は。
彼の胸の中の光に触れた瞬間、形を変え始めた。
完全に変わってしまう前の、そのほんの入り口。
私は、羅針盤の光の中で、自分の選択をかみしめていた。
「……ずるい人ですね、あなたは」
誰にも聞こえない声で、そっと笑う。
「私に、生きたいって思わせておいて」
ここで終わるほうが綺麗だと、さっきまで自分に言い聞かせていたのに。
今はもう、それが嘘だと分かってしまった。
私は、生きたい。
この人のそばで。
エリオの笑い声を、もう一度聞きたい。
朝の食卓で、またパンを分け合いたい。
礼拝堂を通り過ぎるたびに、「いってきます」と言ってみたい。
「エルドール様」
最後の力で、名前を呼ぶ。
「聞こえていますか」
棺の向こうで、気配が一瞬止まる。
彼もまた、何かを感じ取ったのだろう。
私の声ではなく。
羅針盤の針が、自分の胸へ向けて固定された瞬間の、妙な感覚を。
「私は、もう一度、わがままを言います」
世界の外側へ逃がそうとしていた呪いを。
この人の胸へ流し込みながら。
それでも、願わずにはいられない。
「どうか」
光が、視界を真っ白に染める。
意識がまた、遠くへ引き伸ばされていく。
「どうか、あなたのいる場所に、私を連れて行ってください」
それは、世界のどこよりも狭くて。
でも、伯爵家のどの部屋よりもあたたかい場所のはずだから。
その場所へ向けて、私は自分の魂と、世界の羅針盤を、全力でねじ曲げた。




