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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: 林凍


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第20話 棺の中の決断

 闇は、もう怖くなかった。


 棺の中は、いつだって静かで、冷たくて、少しだけ安心できる場所だったからだ。


 けれど今夜だけは、その静けさの底に、別の気配が混じっている。


 世界のどこかで生まれたはずの憎しみや恐怖が、全部ここに流れ込んできている。


 胸の奥で、どろりとした何かが渦を巻いているのが分かった。


 心臓は、さっきから妙な打ち方を続けている。


 私のためというより、魔法陣のために動いているような、不自然な鼓動だ。


「……私が、核」


 唇だけが、かろうじて動いた。


 誰にも聞こえない独り言。


 黒鷲領を覆う巨大な魔法陣。


 森も、村も、城も飲み込んだ、その中心にある礼拝堂。


 礼拝堂の真ん中に置かれた棺。


 その中で、世界の憎悪を受け止める器になっているのが、私。


 さっきまでぼんやりとしか掴めなかった構図が、今ははっきりと見えてしまう。


 私が生きているかぎり、魔獣は何度でも呼び出せる。


 私が砕けるまで、世界の呪いはここに集まり続ける。


「……本当に、役に立つようになったのですね、私」


 笑うつもりはなかったのに、口の端が少しだけ上がった。


 自嘲なのか、諦めなのか、自分でもよく分からない。


 こんなふうに「役に立つ」と言われても、嬉しいはずがないのに。


 それでも、昔の父の言葉が、どうしても頭を離れない。


 病室のように薄暗い、伯爵家の一室。


 窓の外は晴れているのに、カーテンはずっと閉められていた。


「また熱か。


 おまえは本当に、コストばかりかかる」


 ベッドの横で腕を組んでいた父は、ため息をつきながらそう言った。


「弱い子は、いても仕方がない」


 あのとき、私はうなずいたのだ。


 うなずいて、「はい、お父様」と答えた。


 そのほうが楽だと思っていたから。


 否定される前に、自分から「そうです」と受け入れてしまえば、傷は浅くてすむと信じていた。


 だから、一度目に死んだときも。


 冷たい湯に沈められた身体の感覚を、今でも覚えている。


 花を飾る代わりに、薬草の匂いが立ちこめる、大きな桶。


 召使いたちが、目を伏せながら私の身体を洗っていく。


 胸に手を当てて、生きているかどうか確かめる気配もない。


 それが当たり前なのだと、誰もが思っている空気。


「これで、やっと片付く」


 父の声が、どこか遠くで聞こえた。


「今度こそ、まともな跡継ぎを迎えればいいだけだ」


 私は、視界の端で自分の腕が水に揺れているのを、他人事のように見ていた。


 あのとき、本当は少しほっとしていた。


 やっと終わると思ったから。


 やっと、誰の役にも立てなかった自分を、片付けてもらえるのだと。


 そのくせ。


「魂が強いのは、無駄ではないな」


 冷たい声が耳元でささやいた瞬間、すべてはやり直された。


 二度目の目覚めは、棺の中。


 「一年だけ動く娘」として売られるための、商品。


 あのときの空の色を、私はまだ覚えている。


 棺の蓋の隙間から見えた、細くて頼りない青。


 一年だけの空。


 そう思っていた空。


 その一年が、今、終わろうとしている。


 そして――。


 その一年の終わりに、私は世界を壊す核として使われようとしている。


「……最低ですね、私」


 棺の内側に、息が白く曇った。


「やっと、少しは笑えるようになったのに」


 エリオが、初めて私の手を握ってくれた日。


 エルドール様が、ぎこちなくも、確かに私を抱きしめようとした夜。


 寒い朝の食卓で、三人で同じパンを分け合って食べた時間。


 礼拝堂で一人祈りながら、「今夜も帰ってきてください」と小さくつぶやいた夜。


 それら全部が、胸の奥で柔らかく光っている。


 あれは、夢ではなかった。


 確かに、私のものだった時間だ。


「一年だけって、分かっていたはずなのに」


 喉の奥から、小さな嗚咽がこぼれた。


「欲張りになりましたね、私」


 本当は、もっと見たかった。


 エリオの成長も。


 エルドール様が、笑う頻度が少しずつ増えていく様子も。


 春になって雪が解けたら、あの丘にもう一度行きたかった。


 星ではなく、朝の光の中で、同じ景色を見てみたかった。


 でも。


 棺の外では、今も魔獣の咆哮が響いている。


 礼拝堂の壁を揺らす振動が、棺越しに伝わっていた。


 このまま私が「核」として存在し続ければ、魔獣たちは何度でも蘇る。


 呪いも、憎悪も、尽きることなく世界を蝕んでいく。


「……それだけは、嫌です」


 はっきりと、心の中で言った。


 私のせいで、エリオの未来が食い荒らされるのは嫌だ。


 私のせいで、エルドール様の領地が焼けるのは嫌だ。


 私のせいで、誰かがまた白い棺に、大切な人を閉じ込めるのも、嫌だ。


「私なんかのために、誰かが泣くのは、もう十分です」


 父の前で泣いたことは、ほとんどない。


 泣けば、余計に面倒だと言われるのが分かっていたから。


 泣かない娘でいることだけが、私にできる「良い子」の条件だった。


 でも今は、誰も見ていない。


 棺の内側で、私は両目をぎゅっと閉じた。


「それでも、一年間」


 胸の奥から言葉を掘り起こすように、ゆっくりとつぶやく。


「私は、幸せでした」


 本当にそう思っていた。


 弱い心臓と、役立たずの身体しか持っていない私に。


 黒鷲領の人たちは、思っていたよりずっと優しかった。


 エリオは、母親代わりとしての私を必要としてくれた。


 エルドール様は、無愛想で、不器用で。


 でも、一度も「弱い」とか「いらない」とか言わなかった。


 むしろ、何度も同じ言葉をくれた。


 ラウラは生きている。


 少し弱いだけだ。


 その一言が、どれだけ私を救ってくれたか、きっと彼は知らない。


「だから、もういいんです」


 息を吐く。


 胸の痛みは、少しずつ別の形に変わっていく。


 諦めではなく、決意に近いなにかへ。


「一年だけ、幸せにしてもらった。


 それで、十分すぎるくらいです」


 あとの時間は、返せばいい。


 父にではなく。


 王都でもなく。


 世界に。


 私に与えられた「強い魂」という厄介な資質を、元の場所に返す。


 それで、この災厄をここで終わらせることができるなら。


 私は、喜んで核になる。


 ただし、魔獣を増やす核ではなく。


 呪いを外へ流して消すための、最後の蓋として。


「世界の、外側」


 ザイアルが言った言葉をなぞる。


 何もない場所。


 誰の声も届かない場所。


 そこへ、すべてを押し出してしまえばいい。


 魔獣の核も。


 世界の憎悪も。


 そして、私自身も。


「……ごめんなさい」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からない。


 エリオかもしれない。


 エルドール様かもしれない。


 あるいは、一度も私を見てくれなかった父へでさえ、ほんの少し。


 謝りたい気持ちがあったのかもしれない。


 棺の内側に刻まれた古代文字が、淡く輝いている。


 以前、涙が落ちたときに揺らいだ光。


 今も、その光は私の感情に呼応して、微かに震えていた。


 私は、ゆっくりと片手を持ち上げる。


 身体を締めつける光の鎖に、抵抗するように。


 指一本動かすだけで、心臓が悲鳴を上げる。


 それでも、動かした。


 棺の縁に、爪を立てる。


 ぎり、と嫌な音がして、薄い皮膚が裂けた。


「っ……」


 涙とは違う熱が、指先に滲む。


 血だ。


 生前よりも冷たくなったはずの身体から、まだ赤いものが出てくる。


 それを見て、少しだけ安心する自分がいた。


 完全な死体ではない。


 だからこそ、今、ここで決めなければいけない。


「あなたは、羅針盤なのでしょう」


 古代文字を見つめながら、ゆっくりとささやく。


「だったら、どうか。


 私のわがままを、一度だけ聞いてください」


 血のにじんだ指先を、棺の内側の文字にそっと重ねる。


 ざらりとした刻印の感触。


 次の瞬間、光が一気に強くなった。


 熱いわけではない。


 けれど、魂の奥を直接なぞられるような、不思議な感触が走る。


 頭の中に、地図のようなものが広がった。


 この国の輪郭。


 隣国。


 さらに遠くの大陸。


 もっと遠く。


 何もない、真っ白な隙間。


 そこへ、光が細い線を伸ばそうとしている。


 魔獣たちを生み出していた黒い泥も。


 王都の地下で渦巻いていた呪いも。


 すべて、同じ方向へ流してしまうことができる。


 羅針盤の針を、そこに固定すれば。


「魂の行き先は……」


 棺の内側に額を寄せる。


 血で濡れた指先を、古代文字の最後の一画になぞらせる。


 父やザイアルなら、もっと正確な言葉を選ぶのかもしれない。


 でも私は、学者でも、魔導師でもない。


 ただの娘であり、花嫁であり、一年だけ生かされた人間だ。


 だから、私の言葉でいい。


「世界の、外側」


 はっきりと、そう告げた。


「誰もいない場所へ。


 私の魂も。


 魔獣の核も。


 全部、まとめて捨ててください」


 光が、強く脈打つ。


 胸の奥の黒い泥が、ざわりと揺れた。


 棺の内側、私の血が触れた文字だけが、別の色に染まっていく。


 冷たい白から、どこか温かみのある金色へ。


 羅針盤の針が、ゆっくりと回転していく。


 王都でもない。


 敵国でもない。


 何も描かれていない、世界の縁の向こう側へ。


 そこへ向かって、針がぴたりと止まった。


「……これで」


 安堵と、恐怖が同時に胸に押し寄せる。


 私が完全に砕ければ、その瞬間。


 魔獣の核も、呪いも、全部一緒に世界から消える。


 父の望んだ「無限の死体兵軍」も、王都の企みも、全部、無駄になる。


 代わりに、世界から一つの魂が消えるだけだ。


 それなら、安いものだ。


 この一年で、これだけ幸せをもらったのだから。


「エリオ」


 棺の闇の中で、小さく名前を呼ぶ。


「ごめんなさい。


 せっかく『ママ』って呼んでくれたのに」


 もう一度、あの小さな手を握りたかった。


 でも、もう十分だ。


 彼には、他にもたくさんの大人たちがいる。


 リディアも。


 兵士たちも。


 そして何より、エルドール様がいる。


「エルドール様」


 その名を口にした瞬間、胸が強く鳴った。


 痛みに似た、でもそれだけではない衝撃。


「勝手にいなくなって、ごめんなさい」


 本当は、ちゃんと顔を見て、さよならを言いたかった。


 でも、そんなことをしたら、きっと私は決意を揺らしてしまう。


 泣きながら「やっぱり生きたい」と、縋ってしまうに決まっている。


 だから、これでいい。


 棺の中で、一人で決める。


 私がこの世界で最後にするわがままは、わがままに見えない形で終わらせる。


「一年だけの後妻で、すみません」


 小さく笑って、そっと目を閉じた。


 羅針盤の針は、もう動かない。


 あとは、私が砕けるだけ。


 世界の外側へ、すべてを押し出すだけ。


 棺の外では、まだ誰かの声がしている。


 扉を叩く音。


 叫び。


 刃が打ち合う音。


 全部が遠くに霞んでいく。


 私の世界は、棺の内側と、自分の胸の鼓動だけになった。


「本当に、ありがとう」


 誰にも届かないお礼を、そっとこぼす。


 伯爵家の冷たい納戸で終わるはずだった私の人生に。


 黒鷲領の一年を与えてくれたすべてのものへ。


 父の冷たい手から、私を買い取ってくれた人へ。


 「生きている」と言ってくれた人へ。


 その人を守るために、私は消える。


 その選択が、今の私には、いちばん自然で、いちばんまっすぐな道に思えた。


 光が、一気に胸へと流れ込む。


 世界の呪いと一緒に、私の意識も、どこか遠くへ引き延ばされていく。


 最後に残ったのは、一つだけだった。


 どうか。


 これで、本当に終わりますように。


 これ以上、誰も棺に閉じ込められませんように。


 そんな祈りだけを、ぎゅっと抱きしめながら。


 私は、自分で決めた「世界の外側」へ、魂ごと身を投げ出した。

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