第2話 黒鷲辺境伯との対面
馬車が止まったのが分かったのは、棺の底を伝ってくる振動がふっと途切れたからだった。
揺れがやみ、代わりに外のざわめきが近くなる。
「着いたぞ、扉を開けろ」
「礼拝堂までは男手をそろえろよ。落としたら、伯爵様に殺される」
誰かの冗談めいた声がして、別の誰かが小さく笑った。
私は棺の中で、そっと息を吸い込む。
薄い隙間から入り込んでくる空気が、さっきまでとは違っていた。乾いた砂と草、それから遠くで燃える焚き火の匂いがする。故郷の湿った土よりも、ずっと軽い匂いだ。
ここが、黒鷲辺境領。
私が一年を過ごして、二度目の死を迎える場所だ。
棺がまた持ち上げられる。何人もの手で、慎重に運ばれていく気配がする。石畳を踏む靴音が、規則正しく続いた。
やがて、ひんやりとした空気が肌に触れた。
建物の中だろう。天井の高い、広い空間。声が少し響いて聞こえる。
「ここが礼拝堂です、閣下」
「棺は祭壇の前に」
聞き慣れない声がした。
低く、よく通る声。命令の言葉なのに、どこか淡々としていて、必要以上の感情が乗っていない。
その声の主が、これから一年、表向きには夫と呼ぶことになる人なのだろう。
棺が最後の一度、大きく揺れて、すとん、と何かの上に置かれた。
膝をつく気配、人々が並ぶ衣擦れの音。簡素な祈りの言葉が唱えられている。私を迎え入れるための式典なのだと、誰かが説明していた。
死んでいるような娘を迎えるのに、わざわざ式など必要なのだろうか。
ふと、そんなことを思ってしまう。
「では、蓋を」
一拍置いて、棺の縁に手がかかる。
私は、胸の上で指を組んだ。
ゆっくりと、蓋が持ち上がる。閉じ込められていた空気が動き、上から光が差し込んできた。
目がくらむような白さに、一瞬だけ目を細める。
その向こうに、影が立っていた。
黒い軍服。胸元にはいくつもの勲章。その肩の線は、迷いなく真っすぐで、少しの隙もない。
短く刈られた黒髪に、日に焼けた肌。頬には古い傷が一本、斜めに走っている。それが不思議と、彼の顔から人間味を奪うのではなく、むしろ「戦場の人間」であることを強く印象づけていた。
目は、鋭い灰色。
噂どおりの、冷酷そうな色だと思った。
冷たい剣先みたいな視線が、棺の中の私を見下ろす。
きっと、嫌悪する。
死装束のまま、半ば死んだ体を起こそうとする娘など、気味が悪いはずだ。
せめて、顔を歪められる前に、先に頭を下げてしまおう。
私はゆっくりと上体を起こし、白い布を整えた。細い腕を外に出すと、空気の冷たさが肌を撫でる。自分の体の冷たさと、うまく区別がつかない。
唇が、少し震えた。
「はじめまして。伯爵家の庶子、ラウラと申します。一年だけの後妻として……」
言い終える前に、彼が口を開いた。
「エルドール・バルシュタイン」
低い声で、自分の名を告げる。
「黒鷲辺境領を預かる者だ」
その灰色の瞳が、真っすぐに私をとらえていた。
嫌悪でも、好奇でも、哀れみでもない。
感情がどこにあるのか分からない、静かな視線。心の奥を隠すために、すべてを固く閉ざしている人の目だった。
「ようこそ」
短く、それだけを言う。
礼拝堂の空気が、少し揺れた気がした。見守る人々が息を呑む気配がする。
ようこそ。
その一言は、儀礼として当然のものなのかもしれない。けれど、私を迎えるためだけに使われるには、とてももったいない言葉に思えた。
だって、私は。
一年で止まる、半分死んでいる体で。
借金のカタとして売られてきた、安い娘で。
誰かに「ようこそ」と言ってもらうような存在では、きっとなかったから。
胸の奥がきゅう、と小さく痛む。
鼓動が、ひとつ、遅れて打った。
「……お世話になります。黒鷲辺境伯様」
息を整えながらそう返すと、彼は棺の縁に手を置き、身をかがめた。
そして、ためらいなく手を差し出してきた。
大きな掌。剣の柄を握り続けてきたのだろう、節の固い指。
私は、自分の手を見下ろす。
白い布の袖から覗く指は、血の気が薄い。触れれば、すぐに冷たさが伝わってしまうだろう。
この人の手を、凍えさせてしまう。
そんなことを思って、私は慌てて裾の布をつまんだ。布越しに、自分の手を包みこむようにしてから、その上から彼の手に触れる。
布の向こうから、熱が伝わってきた。
びくりと、肩がふるえる。
彼の手は、生きている人の温度だ。
当たり前のことなのに、胸の奥がじわりと熱くなる。
生きている人と、死にかけている私。
温度の差が、はっきりとそこにあった。
「ゆっくりでいい」
彼はそう言って、私の体を支えながら棺から引き上げてくれた。
軍服の胸に、私の肩が軽く触れる。固い布越しにも、体温があった。
ふわり、と視界が上がる。
礼拝堂の高い天井、古いステンドグラス、石の床に灯されたろうそくの列。すべてが、少し遠く、少し現実味のない景色に見えた。
私を見つめる視線が、いくつも集まっている。
侍女、騎士たち、年配の神官、執事らしき男。そして、その人たちの列の陰から、こちらをのぞき込んでいる小さな影。
まだ六歳にも満たないくらいの少年だった。
柔らかそうな髪は父親譲りの黒で、大きな瞳は、少しだけエルドールより明るい灰色をしている。
少年は、私を見る目を丸くしていた。
「……この人が、ママ?」
小さな声が、礼拝堂に響く。
侍女が慌てて「エリオ様」と呼び、少年の肩に手を置いた。
エリオ。
この領地の嫡男。亡くなった前妻の子。
そう、私に説明してくれたのは、旅の途中の御者だったろうか。
少年は私から目を離さないまま、父親の袖を引っ張る。
「動いてるけど、棺から出てきたよ?」
「エリオ」
エルドールの声が、少しだけ硬くなる。
厳しく叱るのかと思ったが、彼は息子を睨みつけることはしなかった。
ただ、ほんの少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。
「彼女は、お前の新しい家族だ。失礼なことは言うな」
「でも、真っ白で、冷たそうで」
少年の率直な言葉に、私は胸の内側がひやりとした。
冷たそう、ではなく、本当に冷たいのだ。
そのことを、この子に教えたくはなかった。
私は少しだけ笑ってみせる。
「驚かせてしまって、ごめんなさい。私が棺から出てきたのは……こうする方が、少し楽に動けるからなんです」
「楽?」
「ええ。体が弱いので、近いところから起き上がれた方が、倒れずに済みますから」
本当は、棺の中の方が楽なのだけれど、今は細かい説明をする必要はない。
少年はなおも私をじっと見る。
その目には、好奇心と、不安と、少しの期待がまざっていた。
前の「ママ」を失ってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
その傷に、私は触れる資格があるのだろうか。
胸の奥で、また鼓動がひとつ遅れて打つ。
「彼女は生きている」
静かな声が、私の隣から落ちてきた。
エルドールだった。
「少し体が弱くて、冷たいだけだ。だが、生きている」
言葉に、迷いがなかった。
彼の灰色の瞳が、少年から私へ、そしてまた少年に戻る。
「エリオ。お前と同じだ。眠る時は目を閉じるし、起きている時は考える。言葉も話す。笑うことも、きっとできる」
笑うことができる、と言われて、私は一瞬だけ息を詰めた。
この人は、まだ私が笑える顔を見たことがないはずなのに。
それでも、そう言ってくれる。
少年は父親の顔を見上げ、少しだけ安心したように肩の力を抜いた。
「……分かった」
それだけ言うと、彼は侍女の影に隠れるようにして、一歩下がる。
簡単に受け入れられるほど、彼の傷は浅くないのだろう。
それでいい。いずれ、時間をかけて距離を詰めていければ。
たとえその時間が、一年しかなくても。
「閣下」
執事が一歩前に出て、礼拝堂の隅に置かれた棺を見やった。
「この棺は、後ほど倉庫に移させますか?」
「いや」
エルドールは即座に首を振った。
「棺はこのまま、礼拝堂に置いておけ」
驚いて、彼の横顔を見上げる。
彼は淡々と続けた。
「彼女の具合が悪い時のためだ。ここなら静かだし、誰も勝手に触らない」
具合が悪い時。
私の体のことを、どこまで知っているのだろう。
父は「一年で止まる」としか説明していないはずだ。それなのに、まるで私より先に、私の逃げ込む場所を用意してくれているような言葉だった。
「しかし、礼拝堂の真ん中に棺があるのは、縁起が」
「これは彼女の部屋の一つだと思え」
エルドールの声は、少しだけ冷たくなった。
「敬意を払えない者は、この領にはいらない」
「……かしこまりました」
執事は慌てて頭を下げる。
人々の視線が、棺と、私と、エルドールの間を行き来した。
死の象徴だったはずの棺が、「私のための場所」として、この家に居場所を持つのだと告げられた瞬間だった。
私は、自分の胸に手を当てる。
遅い鼓動が、またひとつ。
さっきより少しだけ、しっかりとした音に聞こえたのは、きっと気のせいだ。
「ラウラ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
灰色の瞳が、真っすぐに私を見ていた。
「長旅で疲れただろう。部屋に案内する。歩けるか?」
「はい。ゆっくりなら」
「無理はするな。途中で苦しくなったら、すぐに言え」
そう言われてしまうと、逆に言いづらくなってしまう気もしたが、ありがたさの方が勝っていた。
この人は、冷酷なのではなく、ただ感情の出し方を忘れてしまった人なのかもしれない。
そう思った瞬間、ほんの少しだけ、彼の背中が遠く見えなくなった。
一年だけの契約のために出会った人。
死にかけの後妻と、戦場帰りの辺境伯。
きっと、どこを切り取ってもおかしな組み合わせだ。
それでも。
棺から伸ばされた手を取った時のあの熱さを、私はしばらく忘れられそうになかった。




