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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: しげみちみり


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第19話 魔獣召喚の夜

 その夜の空は、やけに星が少なかった。


 窓の外を見上げながら、私はなんとなく胸に手を当てる。


 昼間から続く胸の違和感は、薬を飲んでも、棺に入っても、どこか落ち着かなかった。


「今日は、少しざわついていますね」


 誰にともなくつぶやいて、カーテンを閉める。


 部屋の中には、小さなランプの明かりと、本を閉じたあとの静けさだけが残った。


 エリオはもう寝室に戻っている。


 エルドール様は、いつものように執務室で書状とにらめっこをしているはずだ。


 ザイアルが来てから、彼の机の上は、さらに紙で埋もれるようになった。


「……大丈夫」


 胸の上に置いた手に、ぐっと力をこめる。


 少し不安なときは、自分で自分に言い聞かせるしかない。


 そうして、ベッドに腰を下ろした、その瞬間だった。


 床の下から、なにかがうごめくような気配がした。


 次の瞬間、視界がぐらりと揺れる。


「え……?」


 足元から、冷たい光が立ち上がった。


 石畳の隙間から、黒い線のようなものが伸びてくる。


 それは墨が水に広がるみたいに、部屋中に、廊下へ、さらにその先へと一気に走っていった。


 私は慌てて立ち上がろうとして、足に力が入らないことに気づく。


 指先が、勝手に震え始めた。


「なに、これ……」


 掠れた声が、部屋の中で頼りなく響く。


 次の瞬間、胸の奥をぐしゃりと掴まれたような感覚がした。


 心臓が、強く引き絞られる。


 息を吸おうとしたのに、空気が入ってこない。


 その代わりに、見えない糸のようなものが、私の胸とどこかを結びつける。


 結ばれて、ぐい、と引っ張られる。


「っ……!」


 床が傾いたわけでもないのに、身体が前につんのめった。


 脚が、自分の意志とは無関係に、一歩を踏み出す。


 部屋の扉の方へ。


 廊下の方へ。


 礼拝堂がある方向へ。


「……いや」


 小さく首を振る。


 これは、私の「足」ではない。


 胸の奥に刺さった見えない鉤が、私の全身を引きずっている。


 抵抗しようとすると、心臓に走る痛みが倍になった。


 視界の端で、窓ガラスが震えた。


 遠くから、兵士たちの怒鳴り声が聞こえてくる。


「魔力反応! 北の森から、異常な――」


「魔獣だ! 一斉に……くそ、数が多すぎる!」


 叫び声は、すぐに別の音にかき消された。


 空が割れるような、低い咆哮。


 聞いたことのある、魔獣の鳴き声。


 けれど今夜のそれは、いつもの比ではなかった。


 いくつもの咆哮が、重なっている。


 遠くの森からではなく、領内のあちこちから同時に響いてくるような、そんな嫌な音だった。


「ラウラ様!」


 廊下の向こうから、リディアの声がした。


 こちらへ駆けてくる足音。


 私は、助けを求めようと口を開く。


「リディア……!」


 名前を呼んだ。


 けれど、次の瞬間。


 足元の黒い線が、ぱっと眩しい紅に変わった。


 まるで血管の中を、逆流する血潮のようだった。


 視界が、白く弾ける。


 自分の身体の輪郭さえ、分からなくなる。


     ◇


 気づいたとき、私はもう礼拝堂の中にいた。


 いつの間にか、棺のすぐそばまで来ていて。


 自分の足で歩いた記憶はないのに、棺の縁に手をかけていた。


 胸の痛みは、さっきよりもひどくなっている。


 それでも、ここまで来れば――。


「……中に、入れば」


 反射のようにそう思って、蓋に手をかけた。


 その瞬間、棺が自分から動いた。


「え」


 重いはずの蓋が、音もなく開く。


 私の脚が、するりと棺の中へ滑り込んでいく。


 まるで、水面に引き込まれるみたいに。


「ちょっと、ま……っ」


 抗う間もなく、背中が冷たい内側に触れる。


 棺の内壁に刻まれた古い文字が、ぱっと光を放った。


 これまで何度も見てきた淡い光とは違う。


 今夜のそれは、ほとんど焼き付くような眩しさだった。


 耳元で、礼拝堂の扉が激しく叩かれる音がした。


「ラウラ!」


 低い声。


 聞き慣れた、私の名前を呼ぶ声。


 エルドール様だ。


 でも、その声も、棺の蓋が閉じる音にかき消されていく。


 重い石の板が下りてきて。


 最後に見えたステンドグラスの光が、細い線になり。


 ぱたりと、完全な闇になった。


「いや……待って、エルドール様――!」


 棺の内側を叩こうとした腕が、動かない。


 身体全体が、冷たい何かで固定されていく。


 骨の一つ一つまで、古代文字の光に絡めとられる。


 息を吸ったはずなのに、胸は上下しない。


 代わりに、心臓が、異様なリズムで打ち始めた。


 どくん、どくん、と。


 それは、私のために打っている鼓動ではない。


 もっと遠くへ、何かを送り出すために打っている。


 それが直感的に分かってしまった。


「……ああ」


 唇だけが、かろうじて動いた。


 棺の内側に滲んだ自分の息が、白く曇る。


 光は、古代文字から血管のように伸びていく。


 私の胸へ。


 腕へ。


 指先へ。


 そして、どこまでも遠くへ。


 闇の中で、私は気づいた。


「私……が、核に……」


 黒鷲領を中心に展開している魔法陣が、視界の裏側に浮かぶ。


 見ているというより、内側から「感じている」。


 城の地下深くに潜んでいた見えない紋が。


 村の井戸の底にも。


 森の中の岩にも。


 遠くの古い祠にも。


 薄く刻まれていた印が、一斉に光を帯びていく。


 それらをつなぐ線の中心に、礼拝堂。


 礼拝堂の中心に、棺。


 棺の中心に、私の心臓。


 世界の憎悪と、恐怖と、呪い。


 魔獣たちを生み出した黒い「何か」が。


 すべて、一点へ流れ込むように作られている。


 その一点が、私だ。


「ラウラ嬢」


 闇の向こうから、声がした。


 聞き慣れた、少し乾いた声音。


 ザイアルだ。


 棺の外から話しかけているのに、彼の声は妙に近く感じる。


 古代文字を通じて、直接頭の中に響いてくるような、不快な近さだ。


「ようやく、完全な形で起動したようですね」


 彼は、愉快そうに息を吐いた。


「これが“魔獣召喚陣”の真の姿ですよ。


 黒鷲領を中心に、王国の古い線を全て結び直した、大規模陣」


 ぞわりと、背筋が冷たくなる。


 外で何が起きているのか、はっきりと分かってしまうからこそ怖い。


 森という森から、魔獣の咆哮が上がる。


 地面が割れ、泥のような魔力から、新たな獣が這い出してくる。


 それらは皆、同じ方向を向いていた。


 礼拝堂。


 ここに鎮座する棺。


 その中に横たわる、私へ。


「あなたの身体は、“死と生の狭間”に固定されている」


 ザイアルの声は、淡々としていた。


「だからこそ、“魂”を強制的に繋ぎ止めることができる。


 そして、“世界の外側”とも、“内側”とも接続できる」


「…………」


「以前、あなたに説明しましたね。


 この古代文字は、封印ではなく、“方向を決める羅針盤”だと」


 彼は棺の蓋を軽く叩いた。


 その振動が、内側の私の背中にまで伝わる。


「羅針盤があれば、流れ続ける魔力や憎悪の行き先を、好きな場所に固定できる。


 王都の地下でも、敵国の城でも、世界の裂け目でも」


 くす、と笑う気配がする。


「ですが今回は、もっと単純な使い方をしています」


 ザイアルは言った。


「“すべての呪いと魔獣の核を、一度、ここに集める”」


 ここ。


 礼拝堂。


 棺。


 私。


「あなたの父上が、実に優秀なひらめきをくれたのですよ。


 “魂の強い娘”を核にして、世界の憎悪を一度集約できれば」


 そこで、彼は言葉の調子を変えた。


「魔獣は無限に生み出せる」


 頭の中に、ぞっとする光景が流れ込んでくる。


 黒い泥。


 それが私の胸から溢れて、世界中に降り注ぐ未来。


 魔獣たちが、王都を蹂躙し、他国を焼き尽くす姿。


 それが「計画」であり、「理論」なのだと、ザイアルは本気で信じている。


「ラウラ」


 別の声がした。


 冷たく、鋭い。


 でも、私にはあまりにも馴染み深い声。


 父の声だった。


 棺のすぐそばに立っているのだろう。


 石の床を擦る靴音が、微かに聞こえる。


「……お父様」


 唇が、自分でも驚くほど自然に、その呼び名をこぼした。


 こんな状況でさえ。


 身体は、昔の癖を手放せない。


「おまえは、やはり成功例だった」


 父の声には、喜びさえ滲んでいた。


「魂が強いからこそ、これほど大規模な陣を支えられる」


「私は……」


 喉が焼けるように熱い。


 言い返したい言葉はいくつもあるのに、声にならない。


「最初は失敗だと思っていた」


 父は続けた。


「病弱で、ろくに動けず。


 貴族の嫁としても、兵としても使い道がない。


 だが――」


 石畳を踏みしめる足音が、少し近づいた。


 棺の蓋に触れそうな距離。


「死んだあとでこそ、おまえは役に立った」


 静かな言葉が、胸を刺す。


「死体として、その魂の強さを証明している。


 今度こそ、私の研究は、王都に認められる」


 それは、父がずっと求めてきたものだ。


 地位。


 名誉。


 評価。


 私は、そのための部品にすぎない。


「……そんなことのために」


 かろうじて、声が出た。


「こんな、無茶なことを……」


「無茶ではない」


 父は即座に切り捨てた。


「犠牲は必要だ。


 世界の均衡を保つためには、弱いものが砕けるしかない」


 弱いもの。


 私のことだ。


 棺の中で、指先がわずかに震えた。


「それに、おまえは、もう一度死ぬだけだ」


 父は淡々と言った。


「治療でもなければ、安楽死でもない。


 “役に立つ死”だ。


 娘としての最後の親孝行には、ふさわしいだろう」


 棺の内側で、古代文字がさらに輝きを増す。


 胸の奥へ、世界中の憎悪が流れ込んでくる。


 黒い泥。


 鋭い棘。


 濃い煙。


 形容するなら、そんなものだ。


 それらが、私の魂で一度かき混ぜられてから、どこかへ向かおうとしている。


 行き先は、まだ、決まっていない。


「ザイアル」


 父が呼びかける。


「羅針盤の針は、どこに向ける」


「今はまだ、固定していません」


 ザイアルが答える。


「最終的には、王都の地下、あるいは敵対国の王都が適切でしょうが。


 まずは、“境界”に押し出す」


「境界……」


「ええ」


 ザイアルは楽しそうだった。


「世界の外側。


 “死”と“生”の間。


 あなたの娘が、今、横たわっている場所そのものです」


 彼の言葉に、全身が総毛立つ。


 世界の外側。


 何もない場所。


 光も、音も、誰の声も届かないところへ。


 魂ごと、投げ出される。


 最初に父の書斎で聞いた「世界の外」という言葉が、別の重さを持って胸に沈んだ。


「……やめて」


 掠れた声で、私は言う。


 滑稽なくらい、ひ弱な言葉だった。


 こんな規模の魔法陣の前で、「やめて」と言ったところで。


 何が変わるわけでもない。


 それでも、言わずにはいられなかった。


「もう、いいでしょう」


 棺の内側に、涙が一滴落ちる。


 それが古代文字に触れた瞬間、光がひゅっと揺れた。


 前に一度だけ見た、あの揺らぎ。


 感情が、術式に干渉している。


 それが分かってしまうから、余計に怖い。


「私は、ただ……」


 喉が詰まる。


 それ以上の言葉が出てこない。


 ただ、守りたかったものがある。


 エリオの寝顔。


 エルドール様の背中。


 黒鷲領の朝の冷たい空気。


 一年だけの空だと思っていた空を、もう一度見たかった。


 そのささやかな願いでさえ、今、この棺の中では、とても大きな罪のように感じる。


     ◇


 そのとき、遠くで、何かが爆ぜる音がした。


 礼拝堂の壁が震える。


 ステンドグラスの一部が割れ、細かな破片が床に散った。


 すぐに、聞き慣れた咆哮が続く。


 魔獣の声ではない。


 人の声。


「道を開けろ!」


 怒鳴り声が、礼拝堂へ向かう廊下に響き渡る。


「旦那様! そこはもう――」


「構わん!」


 誰かが制止しようとしているのを、力任せに振り払う音。


 鉄と鉄がぶつかり合う耳障りな音。


 甲冑ごと吹き飛ばされる兵士の呻き。


 何枚もの扉が、次々と破られていく。


 そのどれもが、私にははっきりと分かった。


 エルドール様の声だから。


 何度も聞いてきた、戦場での怒鳴り声だから。


「ラウラを閉じ込めたまま、誰も近づけるな、だと?」


 石の床を踏み鳴らす足音が、近づいてくる。


「そんな命令、従うと思うな!」


 父とザイアルが、同時に息を呑む気配がした。


「早いですね」


 ザイアルが、くすりと笑う。


「さすが、辺境伯」


「時間稼ぎくらいはできると思ったが」


 父が舌打ちする。


「仕方ない。


 羅針盤の固定は、おまえがやれ」


 足音が、礼拝堂の扉の前で止まった。


 重い扉の前で、誰かが最後の説得を試みている。


「旦那様! 陣が、扉を――」


 言葉の途中で、轟音がした。


 扉の金具が吹き飛び、厚い木板が軋みながら揺れる。


「ラウラ!」


 それでも、彼は叫んでいた。


 魔獣の咆哮も。


 兵士たちの悲鳴も。


 父の冷たい声も。


 ザイアルの好奇心に満ちた独り言も。


 すべてを上書きするような、真っ直ぐな声。


 棺の中の私は、何もできない。


 腕も。


 足も。


 顔さえ動かせない。


 けれど、その声だけは、確かに届いていた。


「……エルドール様」


 かすれた声で、名前を呼ぶ。


 棺の内側で、古代文字が微かに震えた。


 世界中から流れ込んでくる憎悪の流れと。


 礼拝堂へ向かって走ってくる、その人の気配と。


 どちらもが、私の中で交差する。


 私の心臓は、今。


 世界の呪いを集めるための「核」であり。


 エルドール様の声へと、どうしようもなく惹かれてしまう、ただの「女」でもあった。


 その矛盾が、胸の中で激しくぶつかり合う。


 古代文字の光が、明滅する。


 ザイアルが、驚いたように息を呑んだ。


「……面白い」


 彼は、棺を見下ろしているのだろう。


「やはり、羅針盤は“魂”そのものに反応する」


 世界の呪いか。


 世界の外側か。


 どこか遠い敵国か。


 あるいは――。


 礼拝堂の扉を破ってでも、こちらへ向かってくる、一人の男のもとへか。


 今夜の魔法陣は、その「行き先」を決めようとしていた。


 私の、弱くて、厄介で。


 それでもまだ、完全には諦めきれない心を、羅針盤にして。

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