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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: 妙原奇天


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第18話 逃避行の提案

 嵐の前の静けさ、という言葉がある。


 王都からの親書が届いた日から、城の中はずっと忙しくて。


 書状が飛び交い、兵の配置が見直され、執務室の灯りは夜更けまで消えなくなった。


 けれどその喧騒の、ほんの少し外側で。


 私の周りだけ、妙に静かな時間が流れていた。


 礼拝堂の窓から見える空は、薄く曇っている。


 雪になるにはまだ早いけれど、風には冷たさが混じっていた。


 私は、いつものように棺の縁に腰かけて、胸に手を当てる。


「……大丈夫。


 まだ、ちゃんと動いています」


 ぽつりと自分に言い聞かせていると、扉の方から、控えめなノックの音がした。


「ラウラ」


 低く落ち着いた声。


 エルドール様だとすぐに分かる。


「入ってもよろしいですか」


「どうぞ」


 返事をすると、重い扉が音を立てて開いた。


 軍服ではなく、部屋着に近い黒いシャツとズボン。


 それでも、彼が「辺境伯」であることは一目で分かる佇まいだった。


 長い足取りで近づいてきて、棺から少し離れた場所に立つ。


 まるでそこに境界線があるかのように。


「体調は」


「今は、落ち着いています」


 そう答えると、彼は目を細めて頷いた。


 礼拝堂の中に、少しだけ沈黙が落ちる。


 ステンドグラスを通った夕陽が、床に色のついた光を落としていた。


「ここにいると、落ち着くか」


 不意に、そんなことを聞かれた。


「……はい。


 棺に入れば、鼓動が静かになりますし。


 この場所は、静かで」


 どこか、死に近い匂いがして。


 それなのに、いちばん生きやすい場所だと感じる。


 そんな矛盾した思いを、言葉にするのは難しい。


「そうか」


 エルドール様はステンドグラスの光を一瞥してから、私の方へと顔を向けた。


 灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。


「……少し、話がある」


 その声音に、いつもとは違うものを感じて、背筋が伸びた。


 王都の命令のことだろうか。


 父のこと。


 それとも、反逆と呼ばれるかもしれない決断について。


 心臓が、また速く打ち始める。


 けれど、次の言葉は私の予想とは少し違っていた。


「この領地を出るという選択肢についてだ」


「え」


 思わず間の抜けた声が出てしまう。


 エルドール様は、ほんの少しだけ目を伏せてから、言葉を続けた。


「王都は、お前を手に入れるつもりだ。


 俺がどれだけ抵抗しても、圧力は強まっていく。


 それは分かっている」


 静かな声。


 でも、その奥にある諦めと怒りは、昨日までの話で十分に伝わっていた。


「だから、その前に」


 そこで彼は、一度唇をきゅっと結んだ。


 そして、覚悟を決めたように、私を見る。


「ラウラ。


 この領地を出て、どこか遠くで暮らすという道もある」


「……え?」


 今度こそ、本当に言葉を失った。


 逃げる。


 ここから、遠くへ。


 エルドール様が、その提案を私に向けている。


「王命に逆らう形にはなるが。


 辺境からさらに外れた、小さな村や、別の国との境界に近い場所なら。


 王都の目も届きにくい」


 淡々とした口調で、可能性を並べていく。


「親書が届いてから、地図を見直した。


 黒鷲領から馬で数日。


 雪山を越えれば、小さな自治村がある。


 そこは王都の支配から半ば外れていて、行き来も少ない」


 礼拝堂にはない、執務室の地図の光景が、頭に浮かぶ。


 彼が一人で、それを見つめながら考えていたのだと想像すると、胸が少し締め付けられた。


「そこであれば、王都の手は簡単には伸びない。


 俺の名を捨てれば、“辺境伯の後妻”ではなく、ただの夫婦として暮らすことも」


 そこで、彼は一度言葉を切った。


 「暮らす」という言葉に、何か重ねたかったのかもしれない。


 けれどそれを飲み込み、別の表現を選ぶ。


「少なくとも、王都の研究室の中で朽ちるよりは、よほどましだ」


 遠くで暮らす。


 夫婦として。


 ただの人として。


 その情景が、ふっと頭の中に描かれてしまう。


 雪の少ない土地。


 小さな家。


 朝、目を覚ましたら、エルドール様が隣にいて。


 台所からは、焼きたてのパンの匂いがして。


 エリオが寝ぼけた顔で「おはよう」と言いに来て――。


 そこまで想像したところで、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 痛いのは心臓だけではない。


 その光景が、あまりにも甘くて、眩しくて。


 私には似合わないと思ってしまうから。


「……エリオは?」


 気づけば、口からその名前がこぼれていた。


「エリオも、一緒に」


「もちろんだ」


 エルドール様は即答した。


「あいつ一人をここに残す気はない」


 その言葉に、息が詰まる。


 エリオが。


 この城を離れる。


 黒鷲の紋章も。


 母の眠る墓も。


 十年間暮らしてきた全てを、置いて。


 私と一緒に、知らない土地へ。


「……でも」


 唇が震える。


「エリオから、あなたを奪ってしまうことになります」


「奪う?」


 彼が、少しだけ眉をひそめた。


「この城は、エリオにとって“父上の城”です」


 ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「お母様を失って。


 十年間、ここであなたを待ってきた。


 門を見つめて、帰ってくる背中を探して。


 やっと、今。


 エリオの“居場所”が、少しずつ安定してきたばかりです」


 あの子が庭で笑う顔を思い出す。


 私の手をぎゅっと握ってくれた夜。


 泣きながら「死なないで」と縋った声。


「そんなエリオから、この城と、“辺境伯エルドール”を奪うことになる」


 それは、あまりに残酷だ。


 新しい土地で、彼が幸せになれる保証もない。


「それに」


 私は礼拝堂の天井を見上げる。


 高い天井。


 古い石。


 ここに刻まれてきた祈りの数々。


「あなたは、ここにいるべき人です」


 自然に、その言葉が出ていた。


「黒鷲の兵たちを率いて。


 魔獣から人々を守って。


 王都が振り返らないところを、ずっと支えてきた人でしょう」


 エルドール様が、少しだけ目を見開く。


「あなたがこの領地を捨ててしまったら。


 ここに暮らす人たちは、誰を頼ればいいのでしょう」


 冬支度をする村人たちの姿が、頭に浮かぶ。


 市場で笑い合う人々。


 壁の上で夜通し見張りをする兵士たち。


 皆、エルドール様を「旦那様」と呼び、誇らしげに見つめていた。


「私は、もともと、この家の人間ではありません」


 そう続けると、胸が少し痛んだ。


 言いながら、自分で自分を遠ざけている。


 それでも、言わずにはいられなかった。


「一年だけの、契約の後妻です。


 期限付きの客人のようなもの」


「客人ではない」


 低く、強い否定。


「俺は、お前を“妻”として迎えた」


「それでも」


 私は微笑んだ。


 できるだけ、穏やかに。


「この領地にとって、必要なのは。


 “私”ではなく、“辺境伯エルドール”です」


 彼は、この土地の盾だ。


 王都が見ないふりをしてきた最前線で、何度も傷を負ってきた。


 あの人がいなくなれば、黒鷲領だけでなく、王国の防衛線そのものが脆くなる。


 それはきっと、私が想像する以上に深刻なことなのだろう。


「私の身体は、爆弾のようなものです」


 ゆっくりと、自分の胸に手を当てる。


「心臓が乱れれば、すぐに命が削れて。


 感情が高まるたびに、寿命が短くなって」


 ザイアルや父の言葉が、頭の中で響く。


『死と生の狭間に固定された失敗作』


『死体兵の試作品』


 じわりと、指先が冷たくなっていく。


「そんな不安定な私を抱えて、見知らぬ土地へ逃げても。


 あなたとエリオの未来を、むしろ狭めてしまうだけです」


 知らない土地で、私が突然倒れたら。


 棺も、古代文字もない場所で。


 この身体は、すぐに限界を迎える。


「ここなら、まだ、棺があります」


 私は横にある白い棺に視線を向けた。


 光の加減で、表面が柔らかく輝いて見える。


「礼拝堂も、慣れた医師も、私の状態を知っている人たちもいます。


 一年を片手で数えられるほどに縮めてしまった命でも。


 ここなら、まだ、少しだけ伸ばせるかもしれない」


 それは、希望というより、現実的な計算だ。


 棺の中でなら、鼓動は落ち着く。


 この城でなら、私の「死にかけ」を見慣れた人たちがいる。


「逃げた先で、あなたとエリオの足手まといになって。


 何も守れないまま、ただ、消えていくだけなら」


 自分の声が、少しだけ震えた。


「私は、嫌です」


 それは、初めて口にしたわがままだったかもしれない。


「……ラウラ」


 エルドール様が、私の名前を呼ぶ。


 そこには怒りも、落胆もなかった。


 ただ、深い、どうしようもないほどの優しさがにじんでいた。


「お前は、いつもそうだな」


 かすかに笑うように、彼は言う。


「自分を犠牲にすることを、当たり前のように選ぶ」


「そんなつもりは」


「ある」


 静かな断定。


「一年の契約を結んだときも。


 死体兵の計画を知ったときも。


 王命の話を聞いたときも」


 一つ一つ、指折り数えるように並べられていく。


「お前は、まず“自分がどうなるか”ではなく。


 “周りがどうなるか”で決めようとする」


 その言葉に、胸がちくりとした。


 褒められているのでも、責められているのでもない。


 ただ、見透かされている。


「……それは」


 少し考えてから、私は言葉を探した。


「怖いからです」


「怖い?」


「はい」


 自分でも意外なほど、すらりと出てきた答えだった。


「私が自由に選んでしまうことが」


 ふっと笑ってしまう。


 少しだけ、自嘲が混じった笑い。


「“一年しかない命だから”と。


 “どうせ終わるから”と。


 他の人のために使い切ってしまった方が、楽なんです」


 それは、ずっと前から身につけてしまった癖のようなものだ。


 実家で。


 父の機嫌をうかがいながら。


 自分の感情を押し殺して。


 「役に立つ娘」であろうとした日々。


「自分のために。


 誰かの未来を変えてしまうことの方が、怖いんです」


 エリオから父を奪うこと。


 この領地から辺境伯を奪うこと。


 それを、自分が望んでしまうのが怖い。


「だから、逃げるなら」


 私は棺の縁を軽く叩いた。


「私だけで、十分です」


 この棺ごと、王都に運ばれて。


 研究室の片隅に置かれて。


 そこで、静かに止まる。


 それが、いちばん被害が少ない道だと思っていた。


 少なくとも、頭では。


「お前は、本当に」


 エルドール様が、深くため息をついた。


 諦めにも似た、でもどこか優しい音だった。


「どうしようもなく、強くて、どうしようもなく、弱い」


 その言葉に、思わず顔を上げる。


 灰色の瞳が、少しだけ笑っていた。


「自分を捨てる覚悟だけは、誰よりもあるくせに。


 自分が幸せになる可能性には、まるで手を伸ばそうとしない」


「幸せなんて」


 口を開きかけて、言葉を飲み込む。


 今の私が「幸せじゃない」と言ってしまうのは、嘘になる。


 この家で。


 エリオに「おかえり」と言われて。


 エルドール様に「おはよう」と返されて。


 棺の中で、静かに息を整えながら「明日も目を覚ませますように」と祈る日々。


 それは、間違いなく、私が一度目の人生で決して手に入れられなかったものだ。


「……私は、もう、十分です」


 小さくつぶやく。


「一年だけ、こうして。


 あなたとエリオと一緒に過ごせただけで」


 胸に手を当てる。


「それ以上を望んでしまったら。


 罰が当たりそうで」


 本音だ。


 こんな死に損ないが。


 これ以上を求めるのは、欲張りだ。


「罰など当たらない」


 すぐに、否定が返ってきた。


 エルドール様は、ゆっくりと歩み寄ってくる。


 棺のすぐそばまで来て、しかし中には手を伸ばさず。


 代わりに、棺のふちに自分の手を置いた。


 私の指先と、数センチの距離。


「お前が誰かのためにどれだけ祈ってきたかを、俺は知っている」


 静かな声が、礼拝堂に満ちる。


「この城に来てからも。


 エリオの眠る枕元で。


 出陣する兵の背中に向かって。


 見えないところで、何度も」


 言われて、胸が熱くなった。


 見ていないと思っていたのに。


 誰も知らないだろうと思っていたのに。


「そんなお前が、“罰”を恐れているのなら」


 エルドール様は、棺に置いた自分の手から、ゆっくりと力を抜いた。


「俺が、全部殴り返してやる」


「……え?」


「お前が、少しでも“生きたい”と願ったことで。


 もし何かの天罰とやらが降ってくるなら」


 灰色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「俺が、それを全部受け止める」


 その言葉は、冗談ではなかった。


 戦場で一歩も引かない彼と同じ、真剣な覚悟の声だった。


「だから、ラウラ」


 名前を呼ぶ。


「“ここにいるべき人”なんて、簡単に決めるな」


 静かに、しかし強く。


「俺は、ここにいるべきだ。


 黒鷲辺境伯として」


「はい」


「だが同時に」


 ほんの少しだけ間を置いて、彼は続けた。


「お前と、エリオと、生きるべきだ」


 胸の奥で、何かが大きく鳴った。


 鼓動なのか。


 別の何かなのか。


 自分でも分からない。


「逃げるのが正しいかどうかは、まだ分からない」


 エルドール様は正直だった。


「王都との駆け引きで、道が開けるかもしれない。


 誰かが手を貸してくれるかもしれない」


 リディアの顔が浮かぶ。


 ザイアルの中でも、良心の欠片が動く可能性だって、ゼロではないのかもしれない。


「だが、もし本当にどうしようもなくなったとき」


 エルドール様は言う。


「“逃げる”という選択肢を、俺に残しておいてくれ」


 それは、逃げようという提案ではなく。


 いつかのための「道」を、今、言葉にしておく行為だった。


「お前が勝手に消える道ではなく。


 俺たち三人で、生き延びる道として」


 その違いが、痛いほど分かってしまう。


 私一人が、棺に閉じこもって終わらせる未来ではなく。


 三人で、どこかへ向かう未来。


「……そんな未来を、考えてもいいのでしょうか」


 問いかけるというより、自分に聞いている。


 胸の奥で、小さな声が「いい」とささやく。


 すぐそばで、古い棺の木が、きしりと鳴った気がした。


 まるで、その可能性を肯定するように。


「考えるだけなら、誰にも罰は与えられない」


 エルドール様は、少しだけ笑った。


「それは、俺が許す」


 その言い方が可笑しくて、思わず笑ってしまう。


 礼拝堂の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


「……分かりました」


 私は、小さくうなずいた。


「逃げる道を“捨てる”のではなく。


 “最後まで残しておくもの”として、考えます」


「それでいい」


 エルドール様は、満足そうに息を吐いた。


「だが、そのときは、必ず俺とエリオも連れて行け」


「勝手に一人でいなくなったりは、しません」


 その約束は、今の私には、とても重くて。


 でも、同じくらい、温かい鎖でもあった。


 ここに、つなぎとめてくれる鎖。


 逃げないための鎖ではなく。


 生きるために、絡みついてくれるもの。


 礼拝堂の窓の外で、風が少し強くなった。


 王都からの嵐は、たぶんすぐそこまで来ている。


 それでもその日、棺のそばで交わしたやりとりが。


 私の中の「逃げる」と「残る」の意味を、少しだけ塗り替えてくれた気がした。

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