第17話 父の罠と王の命令
王都からの封蝋は、朝の静けさを乱すには十分すぎる重さを持っていた。
黒鷲の紋章が押された赤い蝋を、執事が震える指で差し出す。
「……陛下からの、親書にございます」
食堂には、いつもの三人がそろっていた。
私と、エリオと、エルドール。
焼きたてのパンの香りと、温かいスープの湯気が漂っているはずなのに。
封書が運び込まれた瞬間、空気が冷え込んだ気がした。
「父上、王都から?」
エリオが不安そうに首をかしげる。
エルドールは短くうなずき、封蝋に指をかけた。
破られる蝋の音が、やけに大きく響く。
ぱさ、と広げられた羊皮紙の文字を、彼は無言で読み進めた。
その横顔に、いつものような無表情はなかった。
眉間には深くしわが寄り、灰色の瞳が険しく細められていく。
「……内容を、読み上げろ」
しばらくしてから、エルドールは低く言った。
「しかし、旦那様」
「この場にいる者には、隠し事をするつもりはない」
短い一言。
それだけで、執事は観念したように親書を受け取り、喉を鳴らした。
「かしこまりました……。
ええと……『黒鷲辺境伯エルドール・ヴァルトライヒに命ずる』」
私の胸が、どくんと跳ねる。
王からの「命ずる」で始まる文書で、ろくなものを見たことがない。
「『王都における魔獣対策研究の一環として、伯爵令嬢ラウラ・アーレンスの身体検分および治療を、宮廷魔導師ザイアル・グレイグに一任する』」
ザイアル。
あの、冷たい笑みを浮かべる男の名前に、指先がかすかに震えた。
「『ついては、ラウラを速やかに王都へ移送し、王宮魔術塔にて、長期的な観察と処置を行うことを命ずる』」
「治療」という言葉に、ほんの一瞬だけ希望が顔を出しかけて。
すぐに、ザイアルと父の顔が脳裏に浮かんで、その小さな光を踏み潰した。
あの人たちの口から出る「治療」は、「使えるようにする」という意味だ。
私自身のためではなく、王都のため。
もっと正確に言えば、王都の兵と、王都の権力者たちのため。
「『なお、本命令は王国全土の防衛に関わる最優先事項であり、遅滞なく実行せよ。
これに背く行為は、王命への不服従と見なされる』」
その一文で、食堂の空気がさらに固くなった。
執事が言葉を詰まらせる。
エリオは状況がつかめない様子で、私と父親の顔を交互に見た。
「……以上にございます」
読み上げを終えた執事が、深く頭を垂れた。
しん、とした沈黙が落ちる。
スープの表面に浮かんだ湯気が、ゆっくりと形を変えていくのが見えた。
「ラウラを、王都に?」
先に口を開いたのは、エリオだった。
「治療って……ラウラ、病気治るの?」
まっすぐな瞳で見上げられて、私は返事に詰まる。
治る、なんて簡単には言えない。
それでも、この場で子どもの希望を踏みにじる言葉を選ぶ勇気もない。
「……分からないわ」
正直に答える。
「王都には、たくさんの魔導師がいて。
私のような身体を、調べたいと思う人もいるでしょうから」
調べたい。
解体したい。
分解して、再現したい。
頭の中で、言葉の意味がどんどん暗いものにすり替わっていく。
「行かせるわけにはいかない」
低く、押し殺したような声が、私の思考を断ち切った。
エルドールだ。
何度も戦場に向かう彼の声を聞いてきたけれど、今の声はそれとも違っていた。
もっと、個人的で、切実な響き。
「陛下は“治療”と言っているが、これは治療ではない。
軍事研究のための、素材の徴発だ」
はっきりと言い切る。
その断定に、私の背筋がすうっと冷えた。
「でも、文には……」
「王命の文書に、真正面から本音を書く愚か者はいない」
短く切り捨てられる。
「ザイアルが絡んでいる時点で、目的は明らかだ」
ザイアルの横顔が脳裏に浮かぶ。
あのとき、棺の内側の文字を見つめながら、彼は楽しそうに笑っていた。
『これは封印ではない、“方向を決める”術式だ』
まるで珍しい玩具を手に入れた子どものような目で、私を見ていた。
その視線を思い出して、指先が冷たくなる。
「……でも」
私はそっと口を開いた。
「王命に、逆らうことは」
怖い。
単純に、それだけだ。
辺境とはいえ、この領地は王国の一部で。
エルドールは、その王に任じられた辺境伯で。
ここに暮らす人々は皆、王都の決定の影響を受けている。
私一人のために、その秩序を揺らしていいのか。
「王都に行った方が、皆にとっては……」
「そうやって、また自分を犠牲にしようとする」
エルドールの声が、鋭く私の思考を遮った。
「まだ、昨夜の話が分かっていないのか」
昨夜。
一度目の告白と呼ぶには不器用で、危うくて。
それでも、私たちの距離を大きく変えてしまった夜。
彼の言葉と、腕の中の温度を思い出す。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「でも、陛下の命令ですから」
恐る恐る、言い訳のように付け足す。
「ここで逆らえば、あなたが……」
「俺は、王の奴隷ではない」
きっぱりとした一言。
その言葉が、食堂の空気を震わせた。
エリオがびくりと肩を揺らし、スプーンを落としそうになる。
「俺は、辺境伯として王に忠誠を誓っている。
王国を守るために、魔獣と戦っている」
エルドールは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
長身が、朝の光を遮る。
「だが、それは“王都の都合のためなら、誰を差し出してもいい”という意味ではない」
言葉に、怒りと、長年の諦めのようなものが混ざっている。
「王都は、辺境を盾として扱ってきた。
最前線の負担を押し付け、便利なときだけ“王国の盾”と持ち上げる」
それは、きっと彼がずっと胸の奥に抱えてきた不満なのだろう。
言葉にされたのを初めて聞いて、私は息を呑んだ。
「それでも俺は、王国全体のためだと、自分に言い聞かせてきた」
灰色の瞳が、静かに燃える。
「だが――」
一拍置いてから。
彼は、はっきりと言った。
「お前一人を、あの男たちの実験台に差し出すことを、“王国のため”だと納得するつもりはない」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
痛みが走る。
けれど、その痛みすら、どこか甘く感じてしまう。
私のために、ここまで言ってくれる人がいる。
その事実が、胸いっぱいに広がっていく。
「父も、関わっているのですよね」
かすれかけた声で尋ねる。
問いかけというより、確認だった。
ザイアルと父が密談していたことは、リディアから聞かされている。
死体兵計画。
私の身体を「成功例」として、量産する話。
「親書に、伯爵の署名も添えられていた」
エルドールは短く答えた。
「“娘の治療のため、どうか王都でのご高配を”という文と共にな」
想像できる。
父の、作り物のように丁寧な筆跡。
心にもない「娘」という言葉。
喉の奥が、きゅっと締め付けられる。
「……笑ってしまいますね」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
笑う余裕などないのに、口元がひきつる。
「私が死んだことに、誰より安堵していた人が。
今さら“治療”を願うなんて」
テーブルの端を、指でなぞる。
冷たい木の感触が、妙に現実的だった。
「伯爵は、自分の“成果”が欲しいだけだ」
エルドールの声には、冷たい軽蔑が混じる。
「死んだ娘を蘇らせた。
その術式が、王都で認められれば、自分の名誉になる。
そして、死体兵計画とやらで、さらに権力を得る」
言葉にされると、改めて吐き気がした。
私は娘ではなく、論文の一行でしかないのだろう。
「ラウラ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
エルドールの灰色の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
「王命に従えば、お前は王都に連れて行かれる」
淡々とした言い方。
でも、その声の奥には、はっきりとした怒りと拒絶があった。
「そこで“治療”と称して、身体を解剖され、魔術を施され。
うまくいけば兵器にされ、うまくいかなければ“失敗作”として処分される」
一つ一つの言葉が、胸に刺さる。
想像していた最悪の未来が、他人の口から語られることで、現実味を増していく。
「そんな未来を、俺は受け入れない」
エルドールははっきりと言い切った。
「だが、王命を拒めば、俺は“反逆の疑い”をかけられるだろう」
エリオがびくりと顔を上げる。
「反逆って……父上が、悪い人だと思われるってこと?」
「簡単に言えば、そうだ」
エルドールは息子に嘘をつかなかった。
「王都は、辺境伯が命令に従わないと知れば、“裏切り”の可能性を口にする。
軍の派遣。
領地の没収。
最悪の場合、家名そのものが断たれるかもしれない」
重い現実が、淡々と告げられる。
私は、自分の指が震えているのを、他人みたいに眺めていた。
「……そんなの、いやだ」
エリオの小さな声が、静寂を破る。
「ラウラを連れて行かれるのもいやだし。
父上が“反逆者”って呼ばれるのも、いやだ」
子どものわがままに聞こえるかもしれない。
けれど、その一言は、この場にいる誰より正直な気持ちを表していた。
私も、同じことを思っている。
私のせいで、この家が壊れてしまうのはいやだ。
この食卓から、誰かが消える未来を想像するだけで。
心臓が、またひどい音を立て始める。
「俺も、いやだ」
意外な答えが返ってきた。
エルドールが、小さく笑ったのだ。
それは、自嘲でも皮肉でもない、少しだけ柔らかい笑みだった。
「だからこそ、慎重に動く」
そう言って、彼は食堂の窓の外を一瞥する。
冬に向かっていく空が、薄く曇っていた。
「だが一つだけ、もう決めていることがある」
再び、灰色の瞳が私を捉えた。
その視線に、背筋が伸びる。
「俺は、ラウラ、お前を王都には送らない」
ゆっくりとした、はっきりとした宣言だった。
言葉のひとつひとつを、噛みしめるような口調。
その決意が、言葉の端々から伝わってくる。
「エルドール様」
思わず、椅子から立ち上がってしまう。
身体が軽く浮いた瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
どくん、と強く跳ねた心臓が、不規則なリズムで暴れ始める。
「っ……」
テーブルの縁を掴んで、どうにか倒れずに済んだ。
エルドールの視線が、すぐにこちらへ向かう。
「大丈夫か」
「はい、少し、驚いただけで」
息を整えながら、なんとか微笑みを作る。
驚いた。
本当に。
私のために、そこまで言い切ってしまうなんて。
「でも、そんなことをしたら……あなたが」
「もう一度言う」
彼は静かに遮った。
「俺は、お前一人のために世界を敵に回す覚悟がある」
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
鼓動が、痛いくらいに強くなる。
息が苦しいのに、顔が熱くなる。
そんな台詞、物語の中でしか聞かないと思っていた。
それを今、私に向かって言っている。
この人が。
「世界、とまではいかなくとも」
少しだけ、口元が緩む。
「少なくとも、王都と、伯爵と、宮廷魔導師くらいは敵に回すだろうな」
「笑い事ではありません」
思わず、そう返してしまった。
自分でも驚くほどの速さで声が出る。
エルドールが、少しだけ目を見開き。
次いで、肩の力がわずかに抜けた。
「そうだな。
笑い事ではない」
彼は真顔に戻る。
「だからこそ、準備をする。
王都からの使者をどうやって足止めするか。
“治療のために一時的に様子を見る必要がある”と、どこまで引き延ばせるか」
そこから先は、領主としての冷静な思考だった。
王都側の顔を立てるための文言。
魔獣への対処という名目で、兵を呼び戻させない条件。
他の貴族たちの反応を見越した根回し。
エルドールは、次々と指示を出していく。
執事は慌ただしくメモを取り、使用人たちに指示を飛ばす。
食堂はたちまち戦時の作戦室のような喧騒に包まれた。
その中心で、私はただ座っていた。
椅子の背にもたれ、胸に手を当てて。
暴れる心臓の音を、黙って聞いていた。
世界が大きく動いていくのを感じる。
王都。
王命。
反逆の疑い。
そんな大きな言葉が飛び交う中で。
その全部の中心に、私がいる。
私という、不完全で、いつ止まるか分からない存在が。
「ラウラ」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、エルドールがこちらを見ていた。
さっきまでの指示出しのときとは違う、柔らかい目。
「怖いか」
問われて、少しだけ考える。
怖くないと言えば嘘になる。
王都も、父も、ザイアルも。
正直、思い出すだけで身体がこわばる。
でも今、いちばん強い感情は――。
「……はい。
怖いです」
正直に答えた上で、言葉を足す。
「でも、それ以上に。
嬉しいです」
自分の声が、少しだけ震えている。
けれど、それは胸の痛みのせいだけではない。
「こんな私のために、そこまでしてくださることが」
言いながら、目尻が熱くなる。
泣くつもりなんてなかったのに。
「さっきも言っただろう」
エルドールが、ほんのわずかに口角を上げる。
「俺は、お前に救われている」
その一言が、胸の奥にまた深く落ちた。
きっとこの先、もっと大きな嵐が来る。
王都からの圧力。
父の罠。
ザイアルの企み。
私の心臓が、その嵐を乗り切れるかどうかも分からない。
それでも。
今、私の中で何かが、はっきりと形を変えつつあった。
私はこの家の迷惑ではない。
少なくとも、この人にとっては。
守られるだけの存在でいていい、と言われているのだとしたら。
私は初めて、「守られたい」と願ってもいいのかもしれない。
そんなことを思ってしまった自分に驚きながら。
私は胸の鼓動を確かめる。
まだ、しっかりと動いている。
怖いくらいに、うるさく。
でも、その音が今は、頼もしくも感じられた。




