第15話 別れの準備
別れの準備というのは、もっと劇的なものだと思っていた。
涙ながらに抱き合って、さよならを告げて。
あるいは、夜のうちにそっと馬車に乗って、誰にも見送られずに去っていくとか。
けれど、私が始めたのは、もっと地味で、もっと生活に根ざしたことばかりだった。
部屋の整理。
棚の拭き掃除。
引き出しの中身の仕分け。
布に包まれた小さな手鏡を撫でながら、私は、そっとため息をつく。
「これは……いらないわね」
呟いて、自分に言い聞かせるみたいに頷く。
鏡に映る自分の顔は、相変わらず血の気が薄くて。
頬に触れても、あまり温度を感じない。
この城に来たときよりは、少しだけ明るい表情を覚えたはずだけれど。
それでも、鏡を見るたびに思うのだ。
この顔は、ここに残すべき顔ではない、と。
だから私は、手鏡を布ごと包み直し、箱の端に寄せた。
残していくものと、処分してもらうもの。
きちんと分かるように、箱に小さく印をつけていく。
誰が見ても迷わないように。
私がいなくなったあと、困らないように。
そんなことを考えていると、ふいに胸の奥がきゅっと痛んだ。
別れを前提にした優しさなんて、本当はとても残酷だ。
それでも、してしまう。
そうせずにはいられない。
◇
次に手をつけたのは、机の上だった。
インク壺。
羽根ペン。
半分まで書いて途中で投げ出した、文字練習用の紙。
その中に、ひときわ小さな紙束が混ざっている。
エリオ宛ての手紙だ。
まだ、最後まで書き切れていない。
でも、最初の一枚には、どうにか言葉を並べることができた。
『エリオへ
この手紙を読むころ、私はもう近くにはいないかもしれません。
でも、それはエリオのせいではないから、どうか自分を責めないでください』
そこまで読み返して、胸が少し苦しくなる。
まだ幼い子に渡すには、重すぎる言葉だと分かっているのに。
どうしても、最初にそれを書かずにはいられなかった。
あの子が、自分のせいだと思って泣く顔を、想像したくないから。
「……ごめんね」
誰もいない部屋で、そっと紙に向かって謝る。
手紙に語りかけるように、ペン先を進める。
『エリオは、とても優しい子です。
怪我をした兵士さんにも、倒れている小鳥にも、同じように心配そうな顔をしていましたね。
私がここに来てから、一番最初に笑ってくれたのも、エリオでした』
あの日のことを思い出す。
ぎこちない食卓で、パンを落として慌てた私を見て。
エリオは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それが、ここで見た、最初の笑顔だった。
『だから、これからも、たくさん笑ってください。
お父様が怖い顔をしていても、エリオが笑えば、きっと少しだけ柔らかくなります』
そこまで書いたところで、ペン先が止まった。
これ以上先の未来を想像しようとすると、頭のどこかが拒絶する。
胸の奥で、小さく警鐘が鳴る。
心臓の鼓動が、すこしだけ速くなる。
「……今日は、このくらいで」
紙をそっと伏せて、インクが乾くまでのあいだに、別の作業に移る。
家事の引き継ぎメモ。
台所の棚の、どこに何があるか。
エリオが嫌いな野菜と、その誤魔化し方。
冬の間に乾燥させておくといい薬草の束ね方。
そういったものを、簡単な文字と図でまとめていく。
私がいなくても、領主館の生活が滞らないように。
エリオが、困らないように。
エルドールが、無理をして家事に手を出さなくてもいいように。
「……そこまで考えるのは、余計なことかしら」
そう呟いて、すぐに首を振る。
余計でもいい。
きっと私は、最後まで余計なことばかりしてしまう人間なのだろう。
◇
そんな日々が、数日つづいた。
昼は、いつも通り家事と勉強と、エリオの相手。
夜は、皆が寝静まったころに、自室の机でこそこそと紙を広げる。
最初のうちは誰にも気づかれずに済んでいたが、そう長く隠し通せるものではなかった。
「最近、遅くまで灯りがついているな」
ある夜、背後から低い声がして、私は思わず肩を跳ねさせた。
振り返ると、扉のところにエルドールが立っていた。
薄暗い室内でも分かる、鋭い灰色の瞳。
普段と変わらない無表情のはずなのに。
私を見つめる視線には、わずかな探るような色が宿っていた。
「す、すみません。眠りが浅くて……少し、書きものを」
机の上の紙束を、とっさに手で覆う。
指先にインクがついて、じんわりと黒く染まる。
それがやけに目立つ気がして、余計に落ち着かなくなった。
「体調が悪いのか」
「いいえ。ただ、考えごとをしていると、眠れなくて」
正直と言えば正直だ。
嘘でもあり、本当でもある。
エルドールは、一歩、部屋の中に入ってきた。
燭台の火が、彼の軍服の金具に反射する。
その光がちらちらと揺れて、私の視界も落ち着かない。
「何か、困っていることがあるなら言え」
「……大丈夫です」
咄嗟に、いつもの言葉が出てしまう。
大丈夫。
平気。
慣れています。
何度も口にしてきた、私の習慣のような返事。
けれど今日は、エルドールがそれを簡単には受け取ってくれなかった。
「そうは見えない」
短く、そう言い切られる。
胸の奥が、少しだけ震えた。
「部屋の片付けも、メイドたちから聞いている。
衣装を何着も下働きに譲ったそうだな」
「え……」
そこまで知られているとは思わなかった。
使用人たちに、口止めをしたわけではないから当然なのだけれど。
「それに、台所に家事のメモを残しただろう。
エリオの好物と嫌いなものの一覧表まで、丁寧に」
淡々とした声の中に、わずかな皮肉と、怒りと、心配が混じっているのが分かる。
私は、視線を机に落とした。
「……先のことを、考えていただけです」
「先のこと」
「一年が、終わったあとのことです」
自分でも驚くくらい、声は真っ直ぐに出た。
嘘をついているのに、震えない。
それが、かえって恐ろしい。
「この身体は、一年しか持たないと、最初にお伝えしました。
そうしたら、終わりが来る前に、できるだけ皆さんに迷惑をかけないようにしておきたくて」
「迷惑?」
エルドールの声が、低く落ちる。
木の床を踏みしめる足音が、一歩分、近づいた。
顔を上げると、思ったより近くに彼がいて。
灰色の瞳が、私の表情を逃さないように見つめていた。
「お前がここに来てから、どれだけ助けられているか、分かっていないのか」
「そんな……」
思わず否定しかけて、言葉が喉で絡まる。
助けられているのは、私の方だ。
そう言いたいのに、言えない。
言ってしまったら、心臓がまた乱れそうで。
私は、机の端を掴んで、なんとか笑みを作った。
「でも、いずれ私はここからいなくなります。
そのときに、急に生活が変わってしまうと、皆さんが困るでしょう。
だから、少しずつ……」
「準備をしていると」
エルドールの声が、ほんの少しだけ震えた。
それが怒りの震えなのか、別の感情なのか、私には判断がつかない。
「別れの準備を、今から始めているのか」
「……はい」
嘘ではない。
本当のことだ。
ただ、その準備の裏にある大きな企み――私自身を、誰の手にも渡らないように消すつもりでいることは、言えないだけで。
「一年の終わりに、きちんと笑って“ありがとうございました”と言えるようにしたいんです」
言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。
「エリオにも、リディアにも、皆さんにも。
それから……あなたにも」
最後の一言は、少しだけ小さくなった。
エルドールの顔が、一瞬だけ揺れる。
驚いたような、苦しそうなような、複雑な表情。
すぐに、またいつもの無表情に戻ってしまったけれど。
「手紙も、その一部か」
視線が、私の手元へと落ちる。
紙束を握りしめる指先に、自然と力がこもった。
「これは……」
一瞬迷ってから、私は、最初の一枚をそっと捲って見せた。
「エリオへの手紙です」
そこに書かれた文字列を、エルドールは黙って追う。
彼の視線の動きに合わせて、自分の言葉が、胸の内で一つ一つ読み上げられていくような気がして、妙なくすぐったさと恥ずかしさが混じった。
『これはエリオのせいではないから、どうか自分を責めないで』
その一文で、彼の眉がわずかに動いた。
「……あの子が、自分のせいだと考えそうだと、そう思っているのか」
「はい」
正直に答える。
「優しい子だから。
私がいなくなったら、“もっとこうしてあげればよかった”って、たくさん自分を責めてしまいそうで」
「それは……」
一瞬言い淀んでから、エルドールは小さくため息をついた。
「否定できないな」
その声音には、父親としての苦笑が混じっていた。
ほんの少し、緊張がほどける。
けれど、それも一瞬だった。
「エリオへの手紙は、いい」
エルドールは、机の上のもう一つの紙束を顎で指し示す。
「それは、誰宛てだ」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
そこには、まだ書き出ししか記されていない。
幾度もペンを取っては、最初の一文さえ決められずにいた紙。
それでも、先ほど、ようやく一行だけ書いたばかりだった。
『エルドール様へ』
名前を書いただけで、手が震えてしまった。
その、たった一行。
エルドールは、じっと見つめる。
私の顔と、紙とを、交互に。
「実家に宛てたもの、と言い張るには、無理があるな」
「……そうですね」
苦笑いが、喉の奥で引っかかる。
嘘を重ねることが、こんなにも難しいとは。
「一年の終わりに、お渡ししようと思っていたものです。
でも、まだ何も書けていません」
そこまでは、本当だ。
ただ、その「終わり」が、皆が想像しているものより、ずっと早く訪れるかもしれない、ということだけが違う。
「一年の終わりに渡す手紙を、今から書く必要があるのか」
静かな問いかけに、言葉を失う。
すぐには答えられなくて。
私は、視線を逃がすように、窓の外を見た。
夜の黒鷲領は、相変わらず暗くて。
遠くの塔の灯りだけが、小さく瞬いている。
「今から少しずつ書いておかないと、きっと間に合わないからです」
どうにか絞り出した答えは、自分でも苦しい言い訳だと思った。
「最後の日になってからだと、言いたかったことを全部思い出せないかもしれない。
それに、心臓が……」
そこで、言葉を切る。
心臓が、いつまでもつか分からない、なんて。
口に出せるはずがない。
エルドールは、しばらく黙っていた。
静かな沈黙。
けれど、その沈黙には、怒りも、嘲りも、諦めも、混じっていない。
ただ、何かを選び取ろうとしている人の静けさだけがあった。
「……好きにしろ」
やがて、低い声が落ちる。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「好きに、というのは……」
「部屋を片付けるのも、手紙を書くのも、お前の自由だ。
止める権利は、俺にはない」
そう言いながらも、彼の表情はどこか痛そうで。
「ただし」
短く息をついて、続ける。
「一年の終わりを勝手に決めることだけは、許さない」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、思わず彼を見つめ返す。
灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
「身体のことも、呪いのことも、まだ分からないことだらけだ。
一年という期限だって、絶対ではないかもしれない」
「でも、お医者様も、魔導師も」
「それでもだ」
きっぱりとした声。
いつもの戦場の英雄の、命令口調。
けれど、そこに含まれているのは、私を責める響きではなく。
ただ、諦めを拒む意思だった。
「俺はまだ、諦めていない」
静かに、そう言われる。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
同時に、その温かさが、心臓の不規則な鼓動を呼び起こしかねないことを、私は知っていた。
だから、怖い。
怖くてたまらない。
「……ありがとうございます」
それでも、礼を言わずにはいられない。
「でも、私は、少しずつ準備をしておきます」
目を伏せて、ゆっくりと言う。
「それは、あなたのためでもありますが、私自身のためでもあるから」
別れの準備をしておけば。
いざというときに、取り乱さずに済むかもしれない。
そうやって、自分を守りたいのだ。
自分の心を、突然の喪失から守るために。
それが、どれほど幼稚な自己防衛か分かっていても。
エルドールは、しばらく黙って私を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「本当に、頑固だな」
「よく言われます」
思わず返すと、彼の唇が、ほんのわずかだけ緩んだ。
笑った、というには足りない。
けれど、私には、それで十分だった。
「……遅い。そろそろ休め」
「はい」
短いやり取りのあと、エルドールは部屋を出ていった。
扉が閉まる音がした瞬間、私は、大きく息を吐く。
胸の奥で、心臓が忙しなく跳ねている。
さっきまで張り詰めていた緊張が、一気にほどけた。
「一年の終わりを、勝手に決めないで」
彼の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
分かっている。
彼がどれほど、諦めを嫌う人なのか。
戦場で、何度も死線を越えてきた人だ。
簡単に「仕方がない」と言える性格ではない。
そんな人に、「もう終わりです」と先に決めてしまおうとしている私の方が、ずっと残酷なのだろう。
「……ごめんなさい」
机の上の紙束に向かって、小さく囁く。
エリオへの手紙。
エルドールへの手紙。
どちらもまだ、途中のまま。
私は羽根ペンを取り、それでも一筆だけ、書き足した。
『エルドール様へ
この一年のことを、どう言葉にすればいいのか、まだうまく見つけられません』
そこで、ペン先が止まる。
本当は、続きに書こうとしていた言葉がある。
最初の人生の全部よりも、ずっと――。
けれど今、ここでそれを書いてしまったら。
きっと心臓が暴れて、棺に逃げ込むことになる。
「続きは、もう少しだけ、あとで」
自分にそう言い聞かせて、私はペンを置いた。
別れの準備は、少しずつ進んでいく。
それが正しいことなのかどうか、分からないまま。
それでも私は、手を止めることができなかった。




