第14話 真実を知る花嫁
リディアの話が終わったとき、部屋の中は、やけに静かだった。
窓の外では風が吹いていて、遠くで兵の掛け声もしているはずなのに。
耳に届いてくるのは、自分の心臓の音ばかりだった。
どくん、どくん、と。
いつもより速くて、でも、どこかぎこちない音。
「……全部、ですか」
自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえる。
「私が、こうして動いていられる理由も」
「はい」
リディアは、視線を逸らさなかった。
真正面から、私を見る。
「ラウラ様を蘇らせた禁術は、本来なら、一時的な蘇生にしか使えないはずだったそうです」
淡々とした説明の中に、怒りと嫌悪が混じっているのが、分かった。
「ですが、お父上は試行錯誤を繰り返し、偶然――いえ、必然かもしれませんが」
リディアは言い直す。
「“死と生の狭間”で肉体を固定させる方法を見つけた」
「それが、私」
「ええ。あなたは、成功例として、ここにいる」
成功例。
さっきまで、リディアの口から出てきた父の言葉を、頭の中でなぞる。
失敗作だった娘が。
ようやく役に立つようになった、と。
家名のために。
王国のために。
死体兵を作るための、試作品として。
「……生きるためじゃ、なかったんですね」
ぽつりとこぼれた言葉は、思った以上に重くて。
床に落ちる前に、胸の中で沈んでしまいそうだった。
「私が蘇ったのは。私が生きたいと願ったからじゃなくて」
父が。
王都が。
誰かの都合が、私をここに繋ぎ止めているだけで。
「ラウラ様」
リディアが、そっと一歩近づく。
「それでも、あなたは――」
「大丈夫です」
思わず、遮っていた。
ここで彼女の言葉を最後まで聞いてしまったら、崩れてしまう気がして。
「話してくださって、ありがとうございました。知るべきことだと思いますから」
口の中が、乾いている。
喉の奥が少し震えているのを、自分でも分かっていた。
でも、今ここで泣くわけにはいかない。
そう思って、私は、笑った。
うまくできていたかどうかは、分からない。
「少し、一人になってもいいですか」
「……はい」
リディアは、何も言わなかった。
ただ深く一礼して、静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された部屋の空気が、一気に重くなる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
どくん、と。
さっきまでよりもさらに強く、心臓が打つ。
「……っ」
思わず、胸元を掴んだ。
爪が、薄い肌着越しに皮膚を引っかく。
痛みは、ほとんど感じない。
その代わり、心臓のあたりが、熱いような、冷たいような、不思議な感覚でいっぱいになっていく。
「落ち着いて。いつものこと」
自分に言い聞かせる。
感情が揺れすぎると、心臓が乱れる。
乱れ続けると、止まりかける。
だから、黙って、静かにしていればいい。
ずっとそうやって、生きてきた。
……はずなのに。
今日は、うまくいかなかった。
呼吸が浅くなる。
視界が、少し霞む。
心臓の音が、やたらとうるさい。
一歩、踏み出そうとして、足がもつれた。
床に膝をつきそうになって、必死で机の角を掴む。
冷たい木の感触が、現実に引き戻してくれる。
「礼拝堂」
気づいたら、その言葉が口から出ていた。
あそこなら。
あの棺の中なら。
何度も、心臓の乱れを、なだめてもらった。
死に近くて、でも生きやすい、私だけの場所。
足元がおぼつかないまま、部屋を出る。
廊下の冷気が、頬に触れる。
擦れ違ったメイドが驚いた顔をしていたけれど、声をかけられる前に、私は早足で通り過ぎた。
心臓が、また一つ、大きく鳴る。
胸の奥の不規則なリズムに合わせて、世界が少し揺れた。
◇
礼拝堂の扉を押し開けると、いつもの静けさが迎えてくれた。
高い天井。
古いステンドグラスから差し込む、淡い光。
空気は冷たく、少し湿っていて。
奥の方、祭壇の脇に、黒い棺が置かれている。
私の、もうひとつの寝床。
その姿を見た途端、膝から力が抜けそうになった。
「……ごめんなさい」
誰に謝っているのかも分からないまま、私は棺へと歩み寄る。
蓋に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。
内側から、ひやりとした魔力の気配が溢れだす。
冷たいのに、どこか馴染んだ温度。
何度も受け入れてもらった、感触。
「少しだけ。少しだけ、逃げさせてください」
誰もいない礼拝堂で、そう呟く。
棺の中に身を滑り込ませると、柔らかな布が身体を受け止めてくれた。
冷たい魔力が、肌の上をなぞっていく。
いつもなら、それだけで心臓の痛みが少しずつ引いていくのに。
今日は、違った。
どくん、どくん、と。
棺の中でも、心臓の音はうるさく鳴り続けている。
目を閉じても、胸の奥のざわめきが静まらない。
「……私、成功例なんだ」
闇の中で、自分に言ってみる。
死体兵を作るための。
その試作品。
家のための道具。
王国のための兵器。
「生きていてもいいからじゃなくて。使えるから、ここにいる」
唇が震えた。
喉が痛い。
何かを飲み込もうとして、うまくいかないときの感覚に似ている。
目の奥が、熱くなる。
それでも、私は言葉を止めなかった。
「こんな身体でも、誰かの役に立てるなら、構わないって思っていたのに」
ほんの少し前までの自分を、思い出す。
伯爵家の薄暗い部屋で。
父の冷たい視線を浴びながら。
「死体として使われても」と、心の中で呟いていた私。
その頃と、何が違うのだろう。
父にとっても。
王都にとっても。
きっと、何ひとつ変わっていない。
ただ。
私は知ってしまった。
この城での生活を。
あたたかい朝食の匂いを。
エリオの小さな手のぬくもりを。
エルドールが、黙って出してくれるマントの温度を。
それら全部が、私の中に、確かに残ってしまった。
「知りたく、なかったな……」
ぽつりとこぼれた言葉は、棺の中に吸い込まれていく。
もし、知らないままでいられたら。
一年の終わりに静かに消えることを、当たり前だと受け入れられていたなら。
こんなふうに、胸が痛むこともなかったのに。
「私は、生きていちゃいけないんだと思っていました」
誰に向かってでもなく、呟く。
「だって、最初の人生では、早くに死んで。きっとそれが正しい終わり方だったから」
一度目の死のときのことを、思い出す。
熱と咳で、何日も寝込んで。
息がうまく吸えなくなって。
意識が遠のいて。
でも、不思議と怖くはなかった。
ああ、やっと終わるんだ、と。
そう思った気がする。
「それなのに、お父様は私を引き戻して」
死んだはずの私を。
勝手に掘り起こして。
別の使い道を与えた。
「――失敗作が、ようやく役に立つようになった」
リディアの言葉の中の父の声が、そのまま耳の奥で反響する。
失敗作。
成功例。
どちらの呼び方も、ひどく冷たい。
「うっ……」
胸の奥がまた締めつけられて、思わず両手で抑え込む。
布越しに伝わる、自分の心臓の鼓動。
生きている証拠のはずなのに。
今は、それすらも、誰かの計画の一部に見えてしまう。
「生きてはいけないのに、生かされている。だったら、せめて静かに消えればいいのに」
声が、震える。
「死体兵なんて、嫌だ」
言葉にした瞬間、涙がこぼれた。
今まで、心のどこかで許していたのだと思う。
誰かの役に立つなら、いい、と。
そうすれば、自分の存在理由を、少しは肯定できるような気がして。
でも。
はっきりとした形で「兵器」として数えられる未来を想像したら。
そこに、自分の居場所を見つけることができなかった。
それは、私ではない何かだ。
名前も、心も、全部削られて。
ただ敵を斬るためだけに動く、空っぽの器。
「そんなふうにされるくらいなら」
喉の奥で、言葉が引っかかる。
それでも、どうにか押し出す。
「最初のまま、死んでいればよかった」
ぐしゃり、と。
胸の奥で、何かが潰れたような感覚がした。
心臓の鼓動が、一瞬、途切れる。
「――っ」
息が止まる。
視界が、暗くなる。
ああ、いけない。
ここまで、感情を揺らしてはいけないのに。
頭のどこかが、冷静にそう告げているのに。
涙は、止まらなかった。
ぽろぽろと。
頬をつたって落ちていく雫が、棺の内側に刻まれた文字の上に落ちる。
指先でなぞるのが好きだった、古い文字。
意味も読めないまま、ただその形だけを覚えていた印。
そこに、ひとしずくの涙が落ちた瞬間。
淡い光が、少し色を変えた気がした。
「……え?」
霞んだ視界の中で、私は目を凝らす。
今まで、棺の内側からあふれていた光は、冷たい青白い色をしていた。
死と眠りを象徴するような、静かな光。
それが。
私の涙を吸い込んだ文字のあたりだけ、かすかに、柔らかい色を帯びている。
青に、ほんの少しだけ、金色が混じったような。
あたたかい色。
錯覚かもしれない。
でも、確かに、そこだけが違って見えた。
「……気のせい」
自分に言い聞かせる。
魔力の揺らぎ。
心臓の乱れ。
光の加減。
そういうものが重なって、そう見えただけ。
そう思おうとしても、胸の奥で何かがざわついた。
棺の中の空気が、少し変わる。
冷たさの奥に、かすかなぬくもりのようなものが混じった。
それは、エルドールの手の温度には遠く及ばないけれど。
冬の朝、凍えた指先を、焚き火の煙の近くにかざしたときのような。
そんな、弱くて、頼りないあたたかさ。
「……私のせい、ですか」
呟いてから、自分でもおかしな質問だと思う。
涙ひとつで、古い術式が揺らぐなんて。
そんなこと、あるはずがない。
けれど――。
『魂が強ければ強いほど、術式の枠を越えて、自らの行き先を選び取ってしまう可能性がある』
ザイアルの言葉が、リディアの記憶の中から蘇る。
魂の行き先。
方向づけ。
棺の内側をなぞる指先に、光が触れた感覚を思い出す。
最初にここで眠った夜。
文字の冷たさの奥に、かすかな脈動を感じたことを。
「……だとしても」
私は、ぎゅっと目を閉じた。
「今は、何も考えたくない」
世界のことも。
王都のことも。
死体兵の計画も。
全部、いったん、遠ざけたい。
ただ、自分の呼吸の音と、心臓のリズムだけを数えていたい。
そう願って、私は棺の布を胸元まで引き上げる。
冷たい魔力が、涙で濡れた頬を撫でた。
その冷たさに、少しだけ救われる。
まだ、心臓は動いている。
止まりかけては、また動き出す。
不安定なリズムの中に、かすかな執着のようなものが混じっていた。
生きたいのか。
それとも、早く楽になりたいのか。
自分でも分からない。
ただひとつ、はっきりしているのは。
今の私は、「生きてはいけない」と思いながら。
同時に、「このまま兵器にはなりたくない」とも願っている、ということだった。
矛盾だらけの心を抱えて。
私は棺の中で、きつく目を閉じた。
淡く色を変えた古い文字が、暗闇の中で静かに脈打っていることに気づきながら。




