第10話 婚約者の影
「……また、ですか」
朝食が終わったあと、書類の束を抱えたギルベルトが、困ったような顔でため息をついた。
その手には、王都から届いた数通の手紙が握られている。
「また、王都の噂話ですか」
私はテーブルの端で、空になったカップを両手で包みながら尋ねた。
今日は体調も悪くなくて、色の薄い果物も少しだけ喉を通った。
それだけで少し嬉しかったのだけれど、その空気は長く続かなかったらしい。
「はい。閣下にお見せするほどのものではないのですが……耳に入ってしまうよりは、先に処理しておいた方がよろしいかと」
ギルベルトはためらいがちに、封筒の一枚を開いた。
エルドールは、いつものように無表情のまま椅子に腰掛けている。
けれど、指先はわずかにテーブルを叩いていた。
それが、彼なりの苛立ちの表れだと、最近やっと分かってきたところだ。
「読み上げる必要はない」
「しかし……」
「大方、いつもの類いだろう」
エルドールは淡々とした声で言う。
「辺境伯が後妻を迎えたのは、政治的な駒が欲しかっただけだとか。聖女の代わりが必要なのだとか。その程度だ」
言い当てられたギルベルトは、苦い顔でうなずいた。
「概ね、そのような内容でございます」
私は、思わず背筋を伸ばした。
代わり。
その一言が、胸の奥に重く沈む。
「王都という場所は、遠くの話を好き勝手に形を変えて楽しむところですからな……」
ギルベルトが言葉を濁した。
エルドールは、冷たい視線で手紙の束を見つめる。
その横顔はいつも以上に硬い。
「焚いておけ」
「はい」
「噂に返す言葉はない。仕事を増やすだけだ」
「承知いたしました」
ギルベルトは、束を抱えて下がっていく。
扉が閉まる音が響いたあと、部屋には私とエルドールだけが残された。
沈黙が落ちる。
暖炉の火がぱちぱちと小さく鳴る音だけが、聞こえていた。
「気にするな」
不意に、エルドールが低い声で言った。
「王都の噂は、風より軽い」
「……そうでしょうか」
私は、自分の指先を見下ろした。
白くて、血の気の薄い指。
ぎゅっと組むと、骨ばった感触が伝わってくる。
「私は、王都にいた頃から、噂話の怖さを知っています」
庶子として育った日々。
階段の影や廊下の端で、何度も自分の名前を含んだ声を聞いた。
「伯爵の恥」「いない方がいい子ども」。
本人の前では決して言わないのに、いつも耳に入る距離で囁かれる言葉。
「噂は、時々、事実より重くなります」
誰かの評価を決めてしまう。
その人自身が何をしていても、外側だけで形を作られてしまう。
「私は、ここで静かに過ごしているだけですのに」
思わず口からこぼれていた。
「王都では、私を、なんと」
「……言わせる必要はない」
エルドールの声が、わずかに低くなる。
普段の冷静さの奥に、怒りが混じっているのが分かった。
「俺の前だからまだいい。だが、お前に直接聞かせるような価値のある言葉ではない」
「価値があるかどうかは、私が決めたいです」
自分でも驚くほど、強い言い方をしてしまった。
エルドールの灰色の瞳が、わずかに見開かれる。
しまった、と思った。
でももう、引き返せなかった。
「……すみません。出過ぎたことを」
「いや」
エルドールは首を横に振った。
「お前の言う通りだ」
意外な答えに、私は瞬きをした。
彼は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
外には、まだうっすらと雪が残っていた。
黒鷲領の冬は長い。
「王都の噂は、こうだ」
しばしの沈黙のあと、エルドールは淡々と告げた。
「辺境に籠もっていた辺境伯が、やっと後妻を迎えた。王都と距離を取っている癖に、跡継ぎだけは欲しくなったのだろう、と」
「……」
「そして、その後妻は、聖女の代わりだと」
心臓が、すっと冷えた。
「聖女の代わり」
「十年前、王都を守った聖女は、俺の婚約者だった。彼女の死後、俺が正式な妻を迎えなかったことも、王都では話題になっていた」
エルドールは、窓の外から視線を外さずに続ける。
「それが今になって後妻を迎えた。王都の連中からすれば、『やっと吹っ切れたのだろう』『彼女の代わりを見つけたのだろう』と、そう解釈する方が楽なのだ」
楽。
その言葉の響きが、妙に耳に残った。
「……私は」
喉が、少しだけ痛む。
「私は、エルドール様にとって、その……吹っ切るための」
「違う」
重なるように、彼の声が落ちた。
驚くほど早く、食い気味に。
私は思わず顔を上げる。
灰色の瞳が、まっすぐこちらを向いていた。
「そうではない」
「ですが」
「そうではないと言っている」
きっぱりとした言い方に、言葉が途切れた。
エルドールは、ゆっくりと息を吐く。
少しだけ、表情を和らげながら、椅子の向かい側ではなく、私の隣の席に座った。
こんな風に距離を詰めるのは、珍しい。
「俺は、王都のために妻を迎えたわけではない」
「ですが、私を買い取ったのは、伯爵家の借金の話があって……」
「それは理由のひとつだ」
彼は否定しなかった。
それはそうだろう。
事実から目を背けても、意味はない。
「領地の事情もある。跡継ぎのことも。王家との関係も。政治の駒と見られているのは事実だ。だが――」
灰色の瞳が、少しだけ言葉を探すように揺れた。
普段はあまり見せない、迷いの色。
「お前を選んだのは、俺だ」
「……」
「伯爵から『一年だけ動く娘』の話が来た時、その場で断ることだってできた。だが、俺は棺を運ばせ、蓋を開けさせ、お前を見て、契約を結ぶことに決めた」
彼の手が、テーブルの上でかすかに握られる。
「王都はそれを『聖女の代用品を手に入れた』と見るのかもしれない。だが、俺は十年前の棺を、ここに運ばせたわけではない」
十年前の白い棺。
黒い礼拝堂。
泣き叫ぶ母親。
その光景が、また頭に浮かぶ。
「ここにあるのは、お前の棺だ」
エルドールは、はっきりと言った。
「お前自身のものだ。誰かの影の延長ではない」
胸の奥が、じんと熱くなった。
けれど、それと同じくらい、別の痛みも生まれる。
「でも、王都の方たちは、そうは思っていないのでしょう」
ゆっくりと口を開く。
「『聖女の代わりが来た』と。『辺境伯が、やっと過去にけりをつけた』と」
「……そうだろうな」
「それに、私は……」
私は自分の胸に手を当てた。
遅く、不規則に打つ心臓。
体温の薄い身体。
魔獣の因子を抱えた、半端な命。
「私は、聖女様のように誰かを守ったわけでもありません。ただ、父の術で、都合よく動く身体をもらっただけです」
「ラウラ」
「そんな私が、聖女様の後にこの席に座っていること自体、間違っているのかもしれないと」
声が震える。
喉の奥が熱くなり、目の奥もじわりとする。
「私のような存在なら、きっと王都の人たちは、余計に『代わり』としか見ないのではないかと」
だって、私は中途半端だ。
生きているようで、死んでいる。
死んでいるようで、まだここにいる。
代用品には、ちょうどいいのかもしれない。
元のものとは違うけれど、それなりの形を保っていて、使い勝手がいい。
「私は……」
言いかけて、息が詰まった。
胸の痛みが、少し強くなる。
エルドールの視線が、胸元に落ちるのが分かった。
「ラウラ」
呼ばれる声が、いつもより近い。
気づけば彼の手が、私の手の上に重ねられていた。
大きくて、熱い手。
その温度が、冷えた指先にじんわりと伝わる。
鼓動が、少しだけ落ち着く。
「お前が自分をどう見ているかは、ある程度理解しているつもりだ」
エルドールは低い声で言った。
「死体同然だと。役に立つなら、どう扱われても構わないと。そう考えていることも」
図星を刺されて、何も言えなかった。
彼は、少しだけ視線を伏せる。
「俺が悪いのかもしれない」
「……え?」
「お前をここに連れてきて、契約を結び、棺で眠ることを許し、領主夫人として扱っているのに」
いつもと変わらない声。
けれど、その中に、かすかな自嘲が混じっているように聞こえた。
「肝心なことを、きちんと話してこなかった」
「肝心なこと?」
「俺と、前の婚約者のことだ」
胸がきゅっとなる。
聞きたいような、聞きたくないような。
でも、きっと向き合わなければいけない話だ。
「王都がどう言おうと、俺にとって彼女は、もう過去の棺の中にいる」
エルドールは、はっきりと言った。
「忘れたわけではない。今でも、思い出す夜はある。だが、それは『失ったもの』への悼みであって、『今を生きるための足枷』ではない」
十年前の棺。
そこに閉じ込められた「終わり」。
「そして、今、俺の隣に座っているのは、お前だ」
重ねられた手に、力がこもる。
「俺は、お前を『代わり』として見ていない。誰かと比べているつもりもない」
「……本当に?」
「本当だ」
迷いのない声だった。
私は、彼の灰色の瞳を見つめた。
そこに映っているのは、私だけだ。
棺も、王都も、聖女も、婚約者も、今だけを切り取れば映っていない。
映っているのは、冷たい指と、薄い金色の髪と、きっと少し不安そうな顔をした私だけ。
「王都がどう言おうと、俺は俺の事情でお前を迎えた」
「エルドール様の……事情?」
「ああ」
彼は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
こんな風に照れたような仕草をするなんて、珍しいと思う。
「黒鷲領には、領主が必要だ。戦う者も、領民をまとめる者も。そして、その隣に立つ存在がいる方がいい」
「隣に……」
「俺は、お前をそこに立たせたいと思った」
胸の奥の鼓動が、また速くなる。
「一年だけの契約かもしれないと思いながらも、だ」
その一言が、少しだけ切なかった。
でも同時に、とても優しく感じられた。
「エリオの母でも、王都の聖女でもない。黒鷲辺境伯夫人としての、お前自身を」
目の奥が熱くなった。
涙がこぼれないように、必死で瞬きを堪える。
「もちろん、そこへ至る道は、まだ途中だ」
エルドールは続けた。
「お前は、自分の命を『一年だけの借り物』だと思っている。その認識を変えるには、俺も、もっと言葉を尽くさなければならなかった」
「……そんなこと」
「王都の噂が、お前を傷つける形で届く前に、話すべきだった」
彼の声には、はっきりとした悔いが込められていた。
「すまない」
静かな謝罪。
私は、慌てて首を振った。
「謝らないでください」
「しかし」
「私は……知れて、よかったです」
胸に手を当てながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「王都の噂は、確かに刺さりました。怖かったです。私が『代わり』としか見られていないのではないかと思って」
「ラウラ」
「でも、そのおかげで、エルドール様が、こうして言葉にしてくださった」
だから、完全に悪いことだけとも言い切れない。
「十年前の棺と、今の棺の違いも。過去と、今と。私は、ちゃんと聞けてよかったです」
もしこの先、王都からどんな言葉が届いても。
エルドールが何を見ているのかを知っていれば、少しだけ、耐えやすくなる気がする。
私はゆっくりと笑ってみせた。
上手に笑えているかどうかは分からない。
でも、エルドールの目がほんの少し柔らかくなったから、きっと失敗ではないはずだ。
「……お前は、本当に」
「はい?」
「自分のことを、安く見積もりすぎだ」
エルドールは、少しだけ呆れたように言った。
「代わりと呼ぶには、お前はあまりにも、お前だ」
「褒めていただいているのでしょうか」
「そのつもりだ」
少しだけ照れ隠しのように咳払いをしてから、彼は立ち上がる。
「王都の噂話には、ギルベルトに適当に返事をさせておく」
「適当に」
「『辺境は雪で忙しい』とでも言っておけばいい」
その言い方が可笑しくて、思わず笑ってしまった。
「それで納得してくださるでしょうか」
「納得しないなら、もっと他の理由をでっち上げればいい」
エルドールの口元に、ほんのわずかな皮肉な笑みが浮かぶ。
「どうせ、王都は真実には興味がない」
それは、少し寂しい現実ではある。
けれど同時に、「そこに合わせる必要もない」という意味にも聞こえた。
私は椅子からゆっくりと立ち上がる。
胸の鼓動は、さっきよりも落ち着いていた。
「エルドール様」
「何だ」
「もし……いつか」
言いながら、自分の指先が少し震える。
「もし、私が一年で止まらずにすんだ時には」
エルドールの瞳が、わずかに大きくなった。
「その時は、王都が何と言っても、私を『代わり』ではなく、ラウラとして紹介していただけますか」
自分で言っておきながら、顔が熱くなる。
けれど、もう止まらなかった。
それは、今の私には少し背伸びをした願いだ。
一年で終わるはずの命。
でも、もし。
もしもその先があるのなら。
「……もちろんだ」
エルドールは、迷わず答えた。
「その時は、王都中を連れて歩いてやる」
「え」
「うるさい連中の前で、何度でも言おう」
灰色の瞳が、静かに光る。
「これは、聖女の代わりではない。俺の妻だと」
胸がぎゅっとなった。
心臓が、強く打つ。
痛みと、嬉しさと。
棺の外の世界で、自分の名前を呼ばれる未来。
それを想像しただけで、目の奥が熱くなる。
私はそっと、胸に手を当てた。
今はまだ、遅くて、不安定な鼓動。
けれど、たしかにここにある。
婚約者の影は、たぶん、簡単には消えない。
でも、その影の隣に並ぶことは、できるのかもしれない。
私は、私として。
黒鷲辺境伯の妻として。
ゆっくりと息を整えながら、私は小さく頷いた。
「その日まで、ちゃんと、生きていられるようにがんばります」
「そうしろ」
エルドールは短く言って、背を向ける。
扉へ向かう足取りは、いつも通り静かで、揺るぎない。
でも、その肩越しに見えた横顔は、どこか少しだけ、晴れやかに見えた。




