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後妻の棺を開けないでください ~一年後にまた死ぬ予定の私ですが、辺境伯が離してくれません~  作者: しげみちみり


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10/21

第10話 婚約者の影

「……また、ですか」


 朝食が終わったあと、書類の束を抱えたギルベルトが、困ったような顔でため息をついた。


 その手には、王都から届いた数通の手紙が握られている。


「また、王都の噂話ですか」


 私はテーブルの端で、空になったカップを両手で包みながら尋ねた。


 今日は体調も悪くなくて、色の薄い果物も少しだけ喉を通った。


 それだけで少し嬉しかったのだけれど、その空気は長く続かなかったらしい。


「はい。閣下にお見せするほどのものではないのですが……耳に入ってしまうよりは、先に処理しておいた方がよろしいかと」


 ギルベルトはためらいがちに、封筒の一枚を開いた。


 エルドールは、いつものように無表情のまま椅子に腰掛けている。


 けれど、指先はわずかにテーブルを叩いていた。


 それが、彼なりの苛立ちの表れだと、最近やっと分かってきたところだ。


「読み上げる必要はない」


「しかし……」


「大方、いつもの類いだろう」


 エルドールは淡々とした声で言う。


「辺境伯が後妻を迎えたのは、政治的な駒が欲しかっただけだとか。聖女の代わりが必要なのだとか。その程度だ」


 言い当てられたギルベルトは、苦い顔でうなずいた。


「概ね、そのような内容でございます」


 私は、思わず背筋を伸ばした。


 代わり。


 その一言が、胸の奥に重く沈む。


「王都という場所は、遠くの話を好き勝手に形を変えて楽しむところですからな……」


 ギルベルトが言葉を濁した。


 エルドールは、冷たい視線で手紙の束を見つめる。


 その横顔はいつも以上に硬い。


「焚いておけ」


「はい」


「噂に返す言葉はない。仕事を増やすだけだ」


「承知いたしました」


 ギルベルトは、束を抱えて下がっていく。


 扉が閉まる音が響いたあと、部屋には私とエルドールだけが残された。


 沈黙が落ちる。


 暖炉の火がぱちぱちと小さく鳴る音だけが、聞こえていた。


「気にするな」


 不意に、エルドールが低い声で言った。


「王都の噂は、風より軽い」


「……そうでしょうか」


 私は、自分の指先を見下ろした。


 白くて、血の気の薄い指。


 ぎゅっと組むと、骨ばった感触が伝わってくる。


「私は、王都にいた頃から、噂話の怖さを知っています」


 庶子として育った日々。


 階段の影や廊下の端で、何度も自分の名前を含んだ声を聞いた。


 「伯爵の恥」「いない方がいい子ども」。


 本人の前では決して言わないのに、いつも耳に入る距離で囁かれる言葉。


「噂は、時々、事実より重くなります」


 誰かの評価を決めてしまう。


 その人自身が何をしていても、外側だけで形を作られてしまう。


「私は、ここで静かに過ごしているだけですのに」


 思わず口からこぼれていた。


「王都では、私を、なんと」


「……言わせる必要はない」


 エルドールの声が、わずかに低くなる。


 普段の冷静さの奥に、怒りが混じっているのが分かった。


「俺の前だからまだいい。だが、お前に直接聞かせるような価値のある言葉ではない」


「価値があるかどうかは、私が決めたいです」


 自分でも驚くほど、強い言い方をしてしまった。


 エルドールの灰色の瞳が、わずかに見開かれる。


 しまった、と思った。


 でももう、引き返せなかった。


「……すみません。出過ぎたことを」


「いや」


 エルドールは首を横に振った。


「お前の言う通りだ」


 意外な答えに、私は瞬きをした。


 彼は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄る。


 外には、まだうっすらと雪が残っていた。


 黒鷲領の冬は長い。


「王都の噂は、こうだ」


 しばしの沈黙のあと、エルドールは淡々と告げた。


「辺境に籠もっていた辺境伯が、やっと後妻を迎えた。王都と距離を取っている癖に、跡継ぎだけは欲しくなったのだろう、と」


「……」


「そして、その後妻は、聖女の代わりだと」


 心臓が、すっと冷えた。


「聖女の代わり」


「十年前、王都を守った聖女は、俺の婚約者だった。彼女の死後、俺が正式な妻を迎えなかったことも、王都では話題になっていた」


 エルドールは、窓の外から視線を外さずに続ける。


「それが今になって後妻を迎えた。王都の連中からすれば、『やっと吹っ切れたのだろう』『彼女の代わりを見つけたのだろう』と、そう解釈する方が楽なのだ」


 楽。


 その言葉の響きが、妙に耳に残った。


「……私は」


 喉が、少しだけ痛む。


「私は、エルドール様にとって、その……吹っ切るための」


「違う」


 重なるように、彼の声が落ちた。


 驚くほど早く、食い気味に。


 私は思わず顔を上げる。


 灰色の瞳が、まっすぐこちらを向いていた。


「そうではない」


「ですが」


「そうではないと言っている」


 きっぱりとした言い方に、言葉が途切れた。


 エルドールは、ゆっくりと息を吐く。


 少しだけ、表情を和らげながら、椅子の向かい側ではなく、私の隣の席に座った。


 こんな風に距離を詰めるのは、珍しい。


「俺は、王都のために妻を迎えたわけではない」


「ですが、私を買い取ったのは、伯爵家の借金の話があって……」


「それは理由のひとつだ」


 彼は否定しなかった。


 それはそうだろう。


 事実から目を背けても、意味はない。


「領地の事情もある。跡継ぎのことも。王家との関係も。政治の駒と見られているのは事実だ。だが――」


 灰色の瞳が、少しだけ言葉を探すように揺れた。


 普段はあまり見せない、迷いの色。


「お前を選んだのは、俺だ」


「……」


「伯爵から『一年だけ動く娘』の話が来た時、その場で断ることだってできた。だが、俺は棺を運ばせ、蓋を開けさせ、お前を見て、契約を結ぶことに決めた」


 彼の手が、テーブルの上でかすかに握られる。


「王都はそれを『聖女の代用品を手に入れた』と見るのかもしれない。だが、俺は十年前の棺を、ここに運ばせたわけではない」


 十年前の白い棺。


 黒い礼拝堂。


 泣き叫ぶ母親。


 その光景が、また頭に浮かぶ。


「ここにあるのは、お前の棺だ」


 エルドールは、はっきりと言った。


「お前自身のものだ。誰かの影の延長ではない」


 胸の奥が、じんと熱くなった。


 けれど、それと同じくらい、別の痛みも生まれる。


「でも、王都の方たちは、そうは思っていないのでしょう」


 ゆっくりと口を開く。


「『聖女の代わりが来た』と。『辺境伯が、やっと過去にけりをつけた』と」


「……そうだろうな」


「それに、私は……」


 私は自分の胸に手を当てた。


 遅く、不規則に打つ心臓。


 体温の薄い身体。


 魔獣の因子を抱えた、半端な命。


「私は、聖女様のように誰かを守ったわけでもありません。ただ、父の術で、都合よく動く身体をもらっただけです」


「ラウラ」


「そんな私が、聖女様の後にこの席に座っていること自体、間違っているのかもしれないと」


 声が震える。


 喉の奥が熱くなり、目の奥もじわりとする。


「私のような存在なら、きっと王都の人たちは、余計に『代わり』としか見ないのではないかと」


 だって、私は中途半端だ。


 生きているようで、死んでいる。


 死んでいるようで、まだここにいる。


 代用品には、ちょうどいいのかもしれない。


 元のものとは違うけれど、それなりの形を保っていて、使い勝手がいい。


「私は……」


 言いかけて、息が詰まった。


 胸の痛みが、少し強くなる。


 エルドールの視線が、胸元に落ちるのが分かった。


「ラウラ」


 呼ばれる声が、いつもより近い。


 気づけば彼の手が、私の手の上に重ねられていた。


 大きくて、熱い手。


 その温度が、冷えた指先にじんわりと伝わる。


 鼓動が、少しだけ落ち着く。


「お前が自分をどう見ているかは、ある程度理解しているつもりだ」


 エルドールは低い声で言った。


「死体同然だと。役に立つなら、どう扱われても構わないと。そう考えていることも」


 図星を刺されて、何も言えなかった。


 彼は、少しだけ視線を伏せる。


「俺が悪いのかもしれない」


「……え?」


「お前をここに連れてきて、契約を結び、棺で眠ることを許し、領主夫人として扱っているのに」


 いつもと変わらない声。


 けれど、その中に、かすかな自嘲が混じっているように聞こえた。


「肝心なことを、きちんと話してこなかった」


「肝心なこと?」


「俺と、前の婚約者のことだ」


 胸がきゅっとなる。


 聞きたいような、聞きたくないような。


 でも、きっと向き合わなければいけない話だ。


「王都がどう言おうと、俺にとって彼女は、もう過去の棺の中にいる」


 エルドールは、はっきりと言った。


「忘れたわけではない。今でも、思い出す夜はある。だが、それは『失ったもの』への悼みであって、『今を生きるための足枷』ではない」


 十年前の棺。


 そこに閉じ込められた「終わり」。


「そして、今、俺の隣に座っているのは、お前だ」


 重ねられた手に、力がこもる。


「俺は、お前を『代わり』として見ていない。誰かと比べているつもりもない」


「……本当に?」


「本当だ」


 迷いのない声だった。


 私は、彼の灰色の瞳を見つめた。


 そこに映っているのは、私だけだ。


 棺も、王都も、聖女も、婚約者も、今だけを切り取れば映っていない。


 映っているのは、冷たい指と、薄い金色の髪と、きっと少し不安そうな顔をした私だけ。


「王都がどう言おうと、俺は俺の事情でお前を迎えた」


「エルドール様の……事情?」


「ああ」


 彼は、ほんの少しだけ視線を逸らした。


 こんな風に照れたような仕草をするなんて、珍しいと思う。


「黒鷲領には、領主が必要だ。戦う者も、領民をまとめる者も。そして、その隣に立つ存在がいる方がいい」


「隣に……」


「俺は、お前をそこに立たせたいと思った」


 胸の奥の鼓動が、また速くなる。


「一年だけの契約かもしれないと思いながらも、だ」


 その一言が、少しだけ切なかった。


 でも同時に、とても優しく感じられた。


「エリオの母でも、王都の聖女でもない。黒鷲辺境伯夫人としての、お前自身を」


 目の奥が熱くなった。


 涙がこぼれないように、必死で瞬きを堪える。


「もちろん、そこへ至る道は、まだ途中だ」


 エルドールは続けた。


「お前は、自分の命を『一年だけの借り物』だと思っている。その認識を変えるには、俺も、もっと言葉を尽くさなければならなかった」


「……そんなこと」


「王都の噂が、お前を傷つける形で届く前に、話すべきだった」


 彼の声には、はっきりとした悔いが込められていた。


「すまない」


 静かな謝罪。


 私は、慌てて首を振った。


「謝らないでください」


「しかし」


「私は……知れて、よかったです」


 胸に手を当てながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「王都の噂は、確かに刺さりました。怖かったです。私が『代わり』としか見られていないのではないかと思って」


「ラウラ」


「でも、そのおかげで、エルドール様が、こうして言葉にしてくださった」


 だから、完全に悪いことだけとも言い切れない。


「十年前の棺と、今の棺の違いも。過去と、今と。私は、ちゃんと聞けてよかったです」


 もしこの先、王都からどんな言葉が届いても。


 エルドールが何を見ているのかを知っていれば、少しだけ、耐えやすくなる気がする。


 私はゆっくりと笑ってみせた。


 上手に笑えているかどうかは分からない。


 でも、エルドールの目がほんの少し柔らかくなったから、きっと失敗ではないはずだ。


「……お前は、本当に」


「はい?」


「自分のことを、安く見積もりすぎだ」


 エルドールは、少しだけ呆れたように言った。


「代わりと呼ぶには、お前はあまりにも、お前だ」


「褒めていただいているのでしょうか」


「そのつもりだ」


 少しだけ照れ隠しのように咳払いをしてから、彼は立ち上がる。


「王都の噂話には、ギルベルトに適当に返事をさせておく」


「適当に」


「『辺境は雪で忙しい』とでも言っておけばいい」


 その言い方が可笑しくて、思わず笑ってしまった。


「それで納得してくださるでしょうか」


「納得しないなら、もっと他の理由をでっち上げればいい」


 エルドールの口元に、ほんのわずかな皮肉な笑みが浮かぶ。


「どうせ、王都は真実には興味がない」


 それは、少し寂しい現実ではある。


 けれど同時に、「そこに合わせる必要もない」という意味にも聞こえた。


 私は椅子からゆっくりと立ち上がる。


 胸の鼓動は、さっきよりも落ち着いていた。


「エルドール様」


「何だ」


「もし……いつか」


 言いながら、自分の指先が少し震える。


「もし、私が一年で止まらずにすんだ時には」


 エルドールの瞳が、わずかに大きくなった。


「その時は、王都が何と言っても、私を『代わり』ではなく、ラウラとして紹介していただけますか」


 自分で言っておきながら、顔が熱くなる。


 けれど、もう止まらなかった。


 それは、今の私には少し背伸びをした願いだ。


 一年で終わるはずの命。


 でも、もし。


 もしもその先があるのなら。


「……もちろんだ」


 エルドールは、迷わず答えた。


「その時は、王都中を連れて歩いてやる」


「え」


「うるさい連中の前で、何度でも言おう」


 灰色の瞳が、静かに光る。


「これは、聖女の代わりではない。俺の妻だと」


 胸がぎゅっとなった。


 心臓が、強く打つ。


 痛みと、嬉しさと。


 棺の外の世界で、自分の名前を呼ばれる未来。


 それを想像しただけで、目の奥が熱くなる。


 私はそっと、胸に手を当てた。


 今はまだ、遅くて、不安定な鼓動。


 けれど、たしかにここにある。


 婚約者の影は、たぶん、簡単には消えない。


 でも、その影の隣に並ぶことは、できるのかもしれない。


 私は、私として。


 黒鷲辺境伯の妻として。


 ゆっくりと息を整えながら、私は小さく頷いた。


「その日まで、ちゃんと、生きていられるようにがんばります」


「そうしろ」


 エルドールは短く言って、背を向ける。


 扉へ向かう足取りは、いつも通り静かで、揺るぎない。


 でも、その肩越しに見えた横顔は、どこか少しだけ、晴れやかに見えた。

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