第1話 棺から売られる娘
第ひとつ分、息をするのを忘れていた気がする。
目を開けたとき、最初に見えたのは、低い天井の黒ずんだ木目だった。鼻の奥に、湿った土と古い木箱の匂いがまとわりつく。
ここは、伯爵家の納戸だ。
私は何度も天井を見上げてきた。子どものころ、閉じ込められて泣いていた時も。お手伝いの合間に、こっそり本を読んでいた時も。
だからこそ、そこに違和感があるのが、すぐに分かった。
私の視界の端に、布の白さが揺れている。
自分の身体を見下ろすと、着ているのは薄い白布だけだった。刺繍も飾りもない、簡素な死装束。襟元から覗く肌は、自分のものなのに、どこか人形のように見える。
指を動かそうとすると、冷たい。冷たいというより、感覚が遠い。水に長く浸しておいた草花を、そっと持ち上げた時みたいに、重さがどこか他人事だ。
胸に手を当てる。
どくん、と、遅い鼓動がひとつ、時間をかけて返ってきた。
次の鼓動まで、ひと呼吸以上の間がある。生きている心臓とは思えない、のんびりとしたリズムだ。
「まだ終わらせてくれないのですね、お父様」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
喉が焼けるように痛くて、最後に息を吸い込んだ記憶がある。ベッドの上で、必死に縋りつく侍女の手を振り払って、私は静かに目を閉じたはずだ。
あれが、確かに「死」だった。
それなのに、こうしてまた目を覚ましている。
納戸の扉の向こうから、低い男たちの声が聞こえてきた。木の板一枚隔てた先で交わされる言葉は、少しこもっているけれど、内容ははっきりと分かる。
「……決まりだな、伯爵。娘はたしかに“動いている”んだろうな?」
「試してみますか? ちょうど、今、目を覚ましたところですので」
父の声だ。
ああ、と胸の奥がひやりとした。血が流れているかどうかもあやしい胸の奥が、それでもひとつ萎む。
私は上体を起こそうとした。体は軋むように重く、それでも、ゆっくりと言うことを聞いた。白い布がさらりと床をなでる。
納戸の戸口の隙間から、薄い光が線のように差し込んでいる。そこから、父の足元と、見慣れない男の靴先が見えた。
「一年、だ」
借金取りらしい男が言った。
「一年だけ、動く体。……そんな話、本気で信じろという方が無理だが」
「信じていただくしかありません。魂が強いからこそ、この術は成功したのです」
父は、いつもの丁寧な口調で言う。その声に、かすかな熱が混じっているのが分かった。
魂が、強い。
それは、褒め言葉のようでいて、この家では決して良い意味で使われない。
私が幼いころ、いじめられて泣きながらも立ち上がったとき、父はこう言った。
「無駄にしぶとい子だ」
強さは、自分で守るためのものではなく、都合よく使い捨てられるためのもの。少なくとも、この家では。
私は白い布の裾を握りしめ、そっと息を潜めた。
「一年も動けば十分でしょう。黒鷲辺境伯殿には、『一年後には止まる』と最初から伝えてあります。それでも構わないと、おっしゃっている」
「辺境伯が、わざわざ死に損ないを?」
「跡継ぎのためには、正式な後妻が必要なのでしょう。血が繋がるかどうかは、そこまで問題ではないのです」
男の笑い声が短く響く。
「……王都は魔獣が増えて、兵をかき集めている。死に損ないでも戦えるなら価値があるって話も聞くがね。あんたの術、そっちの方が高く売れたんじゃないか?」
「兵は、自分で払った分だけ戻ってきますが、娘は一人しかおりません。うちの家計には、これくらいが妥当ですよ」
父の言葉は、あまりにもあっさりしていた。
娘は一人しかおりません、と言いながら、その声に迷いはない。伯爵としての計算だけが、そこにはある。
私は笑いそうになって、やめた。
笑うと、きっと胸が苦しくなる。今はまだ、これ以上鼓動を乱したくなかった。
一年だけ動く娘として、私は売られる。
売られる先は、黒鷲辺境伯エルドール。戦場で名を馳せた、冷酷な英雄。噂話だけは、使用人たちから何度も聞いていた。
魔獣を斬り、敵国の将を討ち、血に染まった黒鷲の旗の下で立つ男。
そんな人の、後妻。
たとえ一年だけでも、その隣に立つのが自分だなんて、どうにも現実感がない。
「一年も、必要なのでしょうか」
思わず、小さな声が漏れた。
納戸の狭い空気がふるえ、戸の向こうの会話が止まる。
「今の声は?」
「目を覚まされたようですね。ちょうどよかった。お見せしましょう」
軋む音を立てて、納戸の扉が開いた。
薄暗い部屋に、廊下の明かりが差し込む。埃が光の中で舞っている。父と、黒い上着の男が立っていた。
父は私を見下ろし、口元だけで笑った。
「起きなさい、ラウラ。ご挨拶をしなさい。君は今日から、この方の商品になるのだから」
商品。
言い換えれば、借金のカタ。
私はゆっくりと立ち上がり、死装束の裾を整える。膝は少し震えていたが、倒れるほどではない。むしろ、倒れてしまえば、また何か術を施されるかもしれない。
それだけは、もうごめんだった。
「伯爵令嬢ラウラと申します」
かすれた声で頭を下げると、男は私をじろりと眺めた。鋭い目つきではあったが、軽蔑も恐れも浮かんでいない。ただ、値踏みするような視線。
「本当に、動いているな」
「ええ。この通りです」
父は満足げにうなずき、私の肩に手を置いた。その手は、私の肌よりはるかに温かい。
私は、その熱から逃げたくて、ほんの少し身をひいた。
「一年間だけ、呼吸をし、歩き、話すことができます。心臓の鼓動は遅く、体温も低いですが、日常生活には支障ありません。ただし、強い感情を抱くと、時折止まりかけることがあるので、静かな環境を整えていただく必要はありますが」
「取扱説明までついてくるのかよ」
男は鼻を鳴らし、私に一歩近づいた。
ぐっと顔を寄せられ、私は思わず息を止める。
彼は私の目の前で、指を鳴らした。
「驚いたりしないのか」
「……するほどの元気が、残っていないだけです」
正直に答えると、男は一瞬だけ目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「肝が据わってる。いや、もう肝どころか、体の中身がどうなってるか分かったもんじゃないがな」
「魂が強い娘ですから」
父が、また同じ言葉を口にする。
強い魂。利用しやすい魂。
そのたびに、私の中で何かが少しずつ削れていくのを感じた。
私の人生は、最初から、父の都合のためにあった。
幼いころから、勉強よりも礼儀よりも、「静かにしていること」を求められてきた。存在を消すことで、この家に置いてもらっていた。
だから、こうして「死体として使える」と判断されたのなら、それはきっと、最初から決まっていた行き先なのだろう。
「一年、ねえ」
借金取りは父の差し出した書類に目を通しながら、低くうなる。
「一年もあれば、借金も利子ごと返してもらう。……本当に、それでいいんだな?」
「もちろんです。うちの家名を守るためなら、娘一人で十分ですから」
父の言葉は、あまりにも軽い。
でも、私の中には、不思議と怒りは湧かなかった。
怒りを燃やすほどの熱が、もう残っていないだけかもしれない。
「私は」
言葉を探して、胸の中でひとつ飲み込む。
生きていたころ、私は何度も自分の居場所を探した。家族の食卓の端、使用人たちの影、本棚の隅。どこに座っても、私はそこにいないことにされてきた。
だったら、せめて。
「私の人生が、誰かの役に立てるのなら。たとえ死体としてでも。……それで構いません」
そう告げた声は、自分でも驚くほど静かだった。
父は「聞いたでしょう」とばかりに肩をすくめ、書類を差し出す。
男が署名し、金貨が入った袋が父の手に渡る。
金の音が、納戸の湿った空気にやけに大きく響いた。
私の胸の奥で、遅い鼓動がまたひとつ刻まれる。
一年だけ、動く心臓。
一年が過ぎれば、私はもう一度止まる。今度こそ、誰も呼び戻したりしないだろう。
それなら、それまでの時間くらい、誰かの役に立ちたい。
そうすれば、少しは、私がここに生まれてきた意味になる気がした。
「では、準備を」
父が手を叩くと、使用人たちが慌ただしく動き出した。
棺が運び込まれてくる。見慣れない、黒光りする木の箱。蓋には銀色の装飾が施され、その線の合間に、小さな古代文字のような刻印が刻まれている。
私はその文字の意味を知らない。ただ、指先でなぞると、ひやりとした感触が返ってきた。
「ラウラ。君は、その中に入る」
「はい」
棺の中には、薄い布が敷かれているだけだった。
ベッドより少し固くて、冷たい。でも、不思議と、嫌ではなかった。
私は死装束の裾をたくし上げ、棺に足を入れる。冷気がふくらはぎから膝へ、膝から腰へと這い上がってくる。
横たわると、全身がしんと静まった。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが聞こえる。遅くて、頼りない音。それでも、確かに生きている証だった。
「一年だけですよ」
父が棺の縁に手を置き、私を覗き込む。
「一年が過ぎたら、君は止まる。そのつもりで、黙って従いなさい」
「分かっています、お父様」
分かっているからこそ、私は今ここにいる。
借金のため、家名のため。理由は何でもいい。
どうせ、いつかは終わる命だ。
一度、終わった命だ。
ならば、その終わりまでの時間を、ただ与えられるがままに過ごすのではなく、誰かのために差し出す方が、私には似合っている。
そんなふうに思ってしまうくらいには、私はもう、自分に期待していなかった。
「行け」
父の短い声とともに、棺の蓋が閉じられる。
視界が暗くなり、木の匂いが強くなる。外から、縄の軋む音と、男たちの掛け声が聞こえた。
棺ごと持ち上げられ、傾く。体がふわりと浮き、すぐにまたどしんと揺れる。どうやら、馬車の荷台に積まれたらしい。
小さな隙間から、わずかに光が差し込んでいる。
私はその線を見つめるように、視線を上に向けた。
青とも灰色ともつかない、薄い空が、そこにあった。
揺れる棺の中で、胸に手を当てる。
遅い鼓動が、ひとつ。またひとつ。
これから一年、その音に付き合うのだと思うと、どこか他人事のように感じられる。
「……一年だけの空、ですか」
かすかな息でそうつぶやき、私は目を閉じた。
棺の中の暗闇は、思ったよりも静かで、優しかった。




