Chapter9 「チョコミント VS 闇バイト」
土曜日の午後1時。ミントはいつも通りに犬を散歩させるために近所の加賀家を訪ね、呼び鈴を押した。ミントが楽しみにしている時間だ。加賀家の犬の散歩はもう1年になる。腰の悪い老婆の代わりに犬の散歩させているのだ。しばらく待ったがドアは開かなかった。家の前にはグレーのワゴン車が停まっていた。年式はかなり古く、塗装も所々剥げていた。車体後部に電気工事会社『ビリビリ感電電工』のステッカーが貼ってあった。いつもなら加賀好子がゴールデンレドリバーの『チョコ』を連れて現れる。ミントは門から入り、直接ドアをノックした。
「こんにちは~、ミントです」
返事が無い。
「好子さん、ミントです、チョコの散歩に来ました」
ミントは不思議に思ったと同時にイヤな予感がした。加賀好子は77歳で腰を悪くしている。夫の加賀広志は会社の役員なので土曜日に出社することが多かった。ミントは好子夫人が体を悪くして倒れているのかもしれないと思ってドアノブを掴んだ。
『ワン! ワン! ワン!』 『ワン! ワン! ワン! ワン!』
チョコの鳴き声が聞こえた。かなり大きな声だった。ミントは異変を感じた。チョコは良く躾けられているので無駄吠えすることは無かった。ミントはチョコが吠える声を聞いた事が無かったのだ。
「おじゃましまーす」
ミントはドアを手前に引いて開けた。チョコの鳴き声が大きくなった。ミントは靴を脱いで家に上がった。廊下を静かに進む。ミントは一度だけ加賀家に上がった事があった。チョコの散歩の後、好子夫人にお茶をご馳走になったのである。居間を覗くと人が倒れていた。好子夫人だ。ミントは駆け寄ってしゃがんだ。好子夫人の口にガムテープが貼られ、手首は結束バンドで縛られていた。腕には何カ所もアザになりかけの打撲痕があった。頭から血も流れているが傷は浅そうだった。ミントはガムテープをゆっくり剥がした。
「好子さん、大丈夫ですか!? どうしたんですか!?」
好子夫人が目を開けた。
「強盗なの。強盗が入ったの」
好子夫人が力なく言った。チョコの鳴き声が家の奥から聞こえる。
「好子さん、待っててください。救急車を呼びます」
「ミントちゃん、無理しないでね」
ミントは廊下に出ると奥へ向かった。奥の部屋のドアは開いていた。チョコが吠えている姿が見えた。ミントは注意深く部屋を覗いた。
「おい、早くしろよ」
「この番号合ってませんよ」
「なに? 聞き間違えか。もう一回ババアに聞くか。開かなかったら金庫ごと運ぶぞ」
「あっ、開きそうです。カチッて音がしました」
「はやくしろよ!」
リーダー格の男が声上げる。チョコが激しく吠える。
「うるせえ犬だな。犬がいるなんて聞いてないぜ」
部屋には男達が3人いた。3人ともグレーの作業着を着ている。1人は四つん這いになって押入れの中に顔を突っ込んでいる。金庫を開けているようだ。2人はその男の後ろに立っていた。リーダー格の男はバールを、隣の眼鏡を掛けた男はナイフを持っている。ミントは足音をさせないように歩いてキッチンに向かった。キッチンテーブルの上に食べかけのソーメンが置いてあった。好子夫人は食事中を襲われたようだ。ミントは流し台の下の収納の扉を引いた。扉の内側に包丁が4本収納してある。ミントは全部の包丁を抜いて、柳葉包丁を選んで右手に持った。ミントは奥の部屋に向かった。拳銃を携帯しなかった事を後悔した。せめて武器として長い棒が欲しかったが柳葉包丁で戦う事にした。ナイフ格闘は訓練所で習った事があった。何度も反復訓練をしたので体が思い出すと思った。
「あんた達何やってるの!」
ミントが部屋の入り口立って叫んだ。チョコがミント見る。
「誰だおまえ! この家の人間か?」
リーダー格の男が言った。20代後半くらいだった。四つん這いだった男が振り返る。
「悪いけどあんた達は帰れないよ」
「うるせえ!」
眼鏡の男が右手に持ったナイフを構えた。ナイフの位置は低い。20代前半くらいの男で顔が白かった。震えている。ミントは投げるように素早く柳葉包丁を左手に持ち替えた。相手の右手を攻撃する為だ。ミントの体はナイフ格闘を思い出した。チョコが吠える。ミントは勢いよく踏み出して柳葉包丁を内側から斜め下に振り下ろした。柳葉包丁の刃が眼鏡の男の右腕の前腕を深く切り裂いた。刃は神経と腱を切断し、骨まで達した。
「うわっ!」
眼鏡の男は声を上げた。ミントはそのまま柳葉包を眼鏡の男の腹の真ん中に深く突き刺して両手で力を込めて下に押し切った後に引き抜いた。柳葉包丁の刃は腸を切り裂いた。眼鏡の男が両膝を床に着けた後、前に倒れた。部屋の中に血と腸から流れ出た大便の臭いが広がった。訓練所の暗殺コースで教えるナイフ術は確実に相手を殺すためのものだった。四つん這いだった男が腰を抜かしたように座り込んでいる。リーダー格の男がバールを振り上げる。ミントは男に抱き着くように密着した。バールが空を切る。チョコが飛び出してリーダー格の男の足首に噛みついた。本気で噛んでいる。性格が優しいとされるゴールデンレドリバーには珍しい行動だった。それだけミントに愛を感じ、懐いているのだ。
「痛てーー!」
男の動きが止まった。ミントは左手の先の柳葉包丁を回して逆手に持ち替えてリーダー格の男の右脇腹を斜め後から深く刺して3回捻った。チョコも噛みついたまま首を左右に捻っている。
「あぐっ!」
リーダー格の男はミントに抱き着きながらズルズルと崩れ落ちた。
座っていた男がミントを見上げる。男は小太りで20代前半に見えた。
「やめて下さい、許して」
男の声は震えていた。
「警察と救急車呼ぶから大人しくしててね」
ミントはスマートフォンを取り出すと110番に掛けた。
『はい、こちら110番です。どうされましたか?』
『強盗です。取り押さえました。住所は文京区小石川5丁目X―XX加賀さんの家です。怪我人がいます、救急車をお願いします』
『わかりました。すぐに向かいます、救急車を手配します。あなたの名前を教えて下さい』
『高梨ミントです。高は高い低いの高、梨は果物の梨、ミントはハーブのミントでカタカナです。近所に住んでる者です』
ミントはしゃがんで、座った男と目線を合わせた。柳葉包丁を男に向けた。
「ねえ、あなた達は何なの?」
「あっ、僕はバイトに申し込んだだけです。脅されたんです」
男は震えながら言った。
「バイト? 誰に脅されたの?」
「指示役の人です。免許証の写メ送ったんで住所とか知られてるんです。親の住所も」
「今流行の『闇バイト』?」
「はっ、はい。そうです。こんな事するなんて思ってませんでした」
「あなた何歳?」
「21歳です」
「普段は何をやってるの?」
「学生です。大学に行ってます」
「大学生か。大学行きたいけど、こんなの見ると考えちゃうね。もうすぐ警察が来るから動くと刺すよ。見てたよね?」
「はい、動きません」
男は怯えて戦意の欠片もない。元から戦意は無かったのかもしれない。チョコがすり寄るようにミントに隣に来た。
「チョコちゃん偉いね。私を助けてくれたんだね。美味しいご飯をご馳走してあげるよ。本当にいい子だね」
ミントはチョコの顔に右頬を押し付けて右手でチョコの頭と首を撫でた。チョコは嬉しそうにしっぽをブンブン振っている。ミントはスマートフォンで木崎に電話を掛けた。
『木崎だ』
『ミントです。近所の家で偶然強盗と戦いました。2人を包丁で刺して1人は確保しました。刺した2人は多分死んでます。警察を呼びました。もうすぐ来ます』
『そうか。警官にIDカードを見せろ。事情聴取は拒否しろ。渉外チームが対処する。怪我はないか?』
『大丈夫だよ』
『そうか、よかった。月曜日に詳しく聞く』
『わかった、朝一で事務所に行くよ』
警察と救急が来て確保した男は逮捕された。好子夫人は病院に搬送された。
「詳しく状況を聞かせて下さい」
メモ帳を持った警官がミントに訊いた。
「内閣情報統括室の渉外部に連絡して下さい。私は何も話せません」
ミントは財布から『車両運転特別許可証』を取り出して警官に見せた。警官は驚いた顔をしながらカードに書かれたID番号をメモした。
「初めて見ました。確認してきますので待ってて下さい」
警官は立ち上がって姿を消した。照会センターに確認を取るためにパトカーの無線を使いに行ったのだ。ミントは居間のソファーに座って警官を待った。さっきの警官がスーツを着た男と一緒に戻って来た。スーツを着た男は刑事のようだ。
「確認が取れました」
警官が言った。
「私は第一機動捜査隊の鈴屋です。あなたが国の工作員である事を確認しました。帰って結構です」
スーツの男が言った。
「お疲れ様です。じゃあ帰ります。好子さんの怪我はどうですか?」
「被害者と知り合いでしたか。被害者は腕と頭部の打撲ですが命に別状はありません」
「良かったよ。犯人は闇バイトですよね? 元締めの逮捕をお願いします」
「全力で捜査します。しかしあなたは強いですね。犯人を2人も返り討ちにしました。過剰防衛ですがね。渋谷の立てこもり事件もあなた方が対応したそうですね。女子高だったとか」
「私も女子高生です。今回は任務じゃありません。プライベートでたまたま居合わせただけです。私、この家の犬を散歩させてるんです」
「そうですか。しかし興味深い。まあこれ以上は訊きません。内閣情報統括室は我々の上位の組織だ。私の首くらい平気で飛ばす事が出来る」
ミントは新宿の事務所で渉外部に提出する報告書を作成していた。長期休暇中の米子も拳銃の貸与延長申請を出すために事務所に顔を出していた。
「大変だったな」
木崎が言った。
「そうでもないよ。あいつら素人だったよ」
ミントが応える。
「闇バイトの実行犯だ。高額の報酬に惹かれて申し込んだんだろう。強盗をやらされるとは思ってなかったのかもしれないな」
「そんなの断れないの?」
「住所を知られているから断ったら襲撃される。場合よっては殺される」
「可哀想だけど自業自得だよ、いくら脅されてても、おばあさんをバールで叩くなんて普通は出来ないよ、許せないよ!」
「指示役やそのバックにいる人間を逮捕しないとこの犯罪は無くならない。いくら実行犯を逮捕しても実行犯は簡単に集まる。所詮使い捨てだ」
「日本人のモラルは低下したね。真面目なのが日本人のいいところだったのに簡単に犯罪に手を染めるようになったね。しかもこんな卑劣な犯罪」
「いろんな意味で日本が貧しくなったのかもな」
「木崎さん、闇バイトの指示役や元締めを暗殺する仕事は無いの?」
「ミントも勘が良くなったな。まさにその指令が来ているんだ」
「へえ、じゃあ元締めを殲滅できるんだね」
「違う。実行犯を暗殺するんだ。指示役の逮捕は警察に任せる。ファイルがあるから目を通してくれ」
「実行犯?」
「警察は基本的に囮捜査ができない。だから内閣情報統括室に依頼が来たんだ。企画課と作戦指導部が作戦を考えた。諜報課の工作員が囮となって闇バイトに潜り込む作戦だ。そして俺達が実行犯を排除する」
「どういう作戦ですか?」
話を聞いていた米子が言った。
「囮の潜入員が実行犯になり、強盗の犯行現場と日時が分かったら俺達に連絡が来るんだ。潜入員は犯行の直前に抜け出す。俺達が犯行現場で実行犯を排除する」
「強盗の被害者に見られたら排除対象者として排除するんですか?」
「排除はしない。目撃情報は全て警察が握り潰す」
「でも指示役を殺らないと意味が無いよ」
ミントが言った。
「闇バイトに申し込もうと思ってる人間に恐怖心を与える為の見せしめですよね? 指示役も焦ってボロをだす」
米子が言った。
「さすが米子だな。実行犯の死体は掃除屋が回収するが、その死体を川や空き地に捨てるんだ。もちろん報道される。そいつらが闇バイトの実行犯だった事を警察が発表するんだ。闇バイトの実行犯は謎の死を遂げるというストーリーを作って、闇バイトへの応募を躊躇させるのが狙いだ。今回の指令には警察も深く関与している」
「警察が暗殺を認めるんですね?」
「そうだ。警察は闇バイトによる強盗に手を焼いている。いくら実行犯を逮捕しても犯行が一向に減らない。非常事態だ。国民は治安の悪化に不安を感じ、警察への不信感が強くなっている」
「でも実行犯を排除しても応募は減らないんじゃないですか? 騙されて犯行に及ぶ人もいるでしょうし」
「5人や6人を排除したくらいじゃ効果は薄い。だが何十人、何百人を排除すれば闇バイトへの応募は減る。怪しいバイトへの応募は控えるようになる」
「何百人ですか? 警察がそれを許すんですか? 世論も黙ってないですよ。いくら実行犯が犯罪者でも殺人ですよ?」
米子が疑問を口する。
「マスコミを利用する。暗殺集団を正義のヒーローに祀り上げるんだ。大手広告代理店も絡んでいる。これは国家的プロジェクトだ」
「そんなの無茶苦茶だよ。暗殺が正義のヒーローなんておかしいよ。実行犯だって素人みたいなもんだよ。学生もいるんだよ。借金で首が回らなくなった社会人とかさ。許せないけど殺すほどの罪じゃないよ。まあ、中には強盗殺人もあるけど。それにしても、どう考えても私達の仕事じゃないよ」
「ミント、俺達は仕事選べる立場じゃないんだ!」
「わかったよ。気乗りしないけどね」
「銃を使ってもいいんですよね? 素人といっても犯行時の実行犯は興奮状態にあるはずです。素手やナイフで殺るのはリスクがあります」
米子が訊いた。
「構わん。普段使ってる銃を使え」
「麻酔銃とかじゃダメなの? 捕まえて晒しものにするとかさ」
ミントが言った。
「今回の作戦は恐怖を生み出すのが目的だ」