第89話 朔月騎士の警句
上層には行くな、とその騎士は口にした。纏っているのは、肩や肘など各所に禍々しい棘のような意匠が配置されている漆黒の鎧で、表面は薬品か何かで溶かされたかのように崩れ、歪み、爛れている。胸元には、上部が開いた細い円形が描かれている――彼ら〈朔月騎士団〉の証だ。
例によって顔色の悪いエルフだった。名前は前に出会った迷宮守りと同じくティタニア、エルフの女性名として極めてありふれたものだ。
新たな大部屋に入るためにやって来たが、門前で足止めされていた。ブロウが思うよりも部屋間を移動する人々は多かった。隊商の荷車が横転し、前方で荷物が散乱していた。そのためにしばらく待たされるようだ。道端の木の下に腰掛けて待っていると、同じく手持ち無沙汰らしい騎士が話しかけてきたのだ。
「知っての通り、このエノーウェンは異なる世界の断片が、いくつも組み合わさって出来ている。フォルディアの上層は、中下層とは異なる領域の断片が癒着した、異質なる場所なのだ。
きらびやかで豪奢な宮殿などを想像しているのなら、それは正しくない。祝福のための装置で埋め尽くされた悍ましき暗がりだ。特に王都オブスキュラシオなどは、その極みだ。赤子の時分から薬液を流し込まれ、浸され、生きながらに腑分けされ、また繋ぎ合わされる――構造を規定しなおすための大いなる作業だ。
屍術師のねぐらも、我が騎士団の呪詛迷宮も、上層に比べれば安全で健全だ。我が国の支配層の祖先は、魔術大国アルカの異端的・急進的勢力の寄り合いだから当然だがな。思うに、スコルは――あの大狼は、こうなることが分かっていたのだろう、だから全てを壊そうとしたのだ」
自分は上層に向かう予定はない、とブロウは答えた。少し目を離すと、朔月騎士ティタニアは姿を消していた。怪談じみた話だったが、あの警句を発することが彼女の役割だったのだろうか。坂道のラマスーと同じく。
そしてフォルディアの王侯貴族たちの役割は、より良い存在へと自分たちを作り替えることなのだ。子々孫々に渡りそれを続け、建国より千年が過ぎてもまだ不足らしい。彼らの理想とは一体どのような姿なのだろうか。自分が、それを目にすることはないだろう。ブロウはそう思いながら、ようやく動き始めた列に再び並んだ。




