第56話 夢幻誘引体
波の音がした。目を覚ますと見知らぬ一室で、壁には穴が開いており海が見えた。外に出ると、知らない人々がいた。そのうちの一人の男性が、エルナを見て笑った。
エルナが彼らを覚えていないと告げると、困惑を露わにした。見知らぬ男性はエルナの父を名乗り、他の人々も家族だと答えた。エルナは、父親は既に死んだはずだと言ったが、彼らは一笑に付し、夢でも見ていたんじゃないの、と取り合わなかった。
いや違う。父の死が現実で、これこそが夢だ。自分は復讐者として定義された、ラップローヴの使い手だ。
本を取り出し、自分の記述を確認すると【夢幻誘引体】なる存在によって夢の中に引きずり込まれた状態らしい。この相手はどうやら、幸福な夢に引きずり込むことによって自由を奪う力を持っているようだ。もし実際にエルナが父を殺されて旅に出た過去を持っているなら、この幸福な夢想に縛られたかも知れない。
だが、エルナはラップローヴによって定義された、表層だけの復讐者なので、父親を名乗る人物も知らない小父さんでしかなく、母親が再婚したらこういう気持ちになるんだろうな、と思うだけだった。第八聖堂と思しきこの場所も、今初めて見たので他者の家のような居心地の悪さを覚える。
しかし夢の中で初対面とはいえ、父親と再会したということには変わりはないので、それらしい態度を取らなければいけないと考えた。
父に対し、自分は行かなければならない、復讐を果たすことが今の自分のすべてだ、夢とはいえ、あなたにまた会えてよかった、冥府より見守っていてください、などと神妙に告げると、家族たちも居住まいを正して、辛い道になるが本当にいいのか、ここにいたほうが幸せじゃないのか、と問うた。こんな赤の他人の家で窮屈に過ごすのが幸せなはずがない、壁に穴が開いてるし、という本音は隠し、もとより覚悟の上です、と答えると、世界が崩壊を始めた。ようやく復讐に戻れると分かってほっとした。一方的に与えられた定義とはいえ、それを奪われては堪らない。
現実に帰還したエルナの前で、立ち尽くした巨大なる獣、どこか獏に似たそれは、苦しみの声を上げて倒れた。精神を司る存在自身が、攻撃手段である夢を破壊されたこと、あるいは敗北を認めたことで何らかのダメージを受けたのだろうか。標的の一人が召喚・使役したのではなく、あれが標的そのものだったようだ。エドゥアルトといい、やはりこの敵対者たちは無作為な手段によって選ばれた情報をもとに生成されたらしい。彼らも自分と同じくラップローヴに縛られた存在なのだ。
これで五人目を片付けた。あと四名――復讐劇の中では、血を流し命を奪うことが前に進むことである。復讐者にとっては知らない他者の家で眠りこけるよりも血なまぐさい殺しの方が、よほど有意義で爽快だ。エルナは義務的に嫌々やっている復讐者ではあったが、それでもこの使命を片付けることに喜びを覚え始めていた。




