第161話 代理進行
シエラはカリグラに、自分はテセウスではなくシエラ・キャスクボトムだ、と告げる。その瞬間、元の風生まれの身に戻り、カリグラは目線を下げて全て分かってるという口調で話す。
「ああ、もちろんそうだろうさ。ラップローヴの力で、テセウスの記憶から再現されたものだ。本を読むってことは、書かれた誰かの人生を物語として追体験するってことだ。その体験もまた、新たな物語だ。
初めてで戸惑ってるだろうが、この力を使えば、ギョールに向かってより近づくこともできるんじゃあないのか? 考えろ、お前が――お前たちがこれまでラップローヴに刻んだ中で、一番北に行ったことのある奴は誰だ?」
しばらく思案して思い浮かんだのは、〈名も無き者〉が路上である日討伐した通り魔、ピトフーイというエルフだった。彼女はラフィアンズミルに流れ着いたときには既に半ば正気を失い、その秘めた力も喪失していたが、ラップローヴに刻まれたその人生の前半では、優れた迷宮守りとして北方に生きた。彼女はイーグロン大陸とギョールの境目、厳冬海峡まで到達したことがあったはずだ。
瞑目し、本の内容に思いを馳せると、まず最初に灰色の空だけが見えた。次に、帝国の熱い空気が消え失せ、北の冷たい風を感じることができた。厳冬海峡の記憶を探るために、さらに彼女の記憶に深く潜ろうとする。帝国とイーグロンを隔てる内海が、二つの異世界のつなぎ目であるのと同じく、あの海峡を越えた先のギョールもまた、異なる世界だ。厳冬海峡の半ばから、凄まじい寒さが襲い、海流もまた暴れ川のように速度を増す。それを越えれば、巨大な魔獣と竜の潜む、迷宮と化した大陸が待っている。
「ああ、来月必ず返すよ。それは約束する――」
シエラは喋っている自分に気づく。簡易な屋根だけがある、道の脇の公衆遠話機で誰かと、借金の返済延期と更なる無心について頼み込んでいた。相手がバカンの盗賊ギルド、その末端の構成員であることを、ピトフーイとなったシエラは思い出す。長身のエルフから小柄な風生まれの肉体になり、受話器は手をすり抜け、空中にぶら下がる。相手はまだ何か喚いているが、シエラは構わず歩き出す。
空は晴れていた。傍らには朔月騎士シグネットがいた。名前からするとエルフのようだが、顔は黒い兜で見えない。雰囲気から、少し背の高い人間なのではないかとピトフーイは思っていた。
『ピトフーイ、あれは出すなよ。わたしの監視下でそのような愚行はないと思いたいが』
シグネットが奇妙に反響する声でそう言った。この騎士は有害な力を有する自分に対して都市当局が付けた監視員だとピトフーイは認識していた。しかし客観的に見ると、この人物は彼女だけが見ている幻覚のように思える。己の力を本能的に忌み嫌う心が発露したのではないだろうか――それは安易に過ぎるだろうか? それ以上大して考えることもせず、シエラは街道を進み始める。