第149話 邪竜の見下ろす街、メサ
ラップローヴ保有者シエラ・キャスクボトムが次に訪れる街は〈メサ〉という名の迷宮都市だった。彼女がやって来る十年ほど前、この都市をある怪現象が襲った。
白昼の蒼穹が何の前触れもなく翳り、黒雲が渦を巻き、赤い稲妻が轟いた。あたかも、恐ろしき怪物が降臨する前触れの様であり、住民たちは一様に不安そうな眼差しで、不気味な空を見上げる。
そしてついに、それが姿を現した。この世のものとは思えぬ、恐ろしき竜の巨大なる顔が。それに続き、両の腕と胴、黒き両翼が形作られ、邪竜が吠えた。メサ全土を震わせる咆哮に、民草は絶望、絶叫、落涙、失禁。都市を恐怖が包んだ。次に邪竜が、都市を破壊しつくすであろうことは火を見るより明らかだった。
ところが、何らかの間違いが生じたのか、巨竜は都市を睥睨したまま、黙して動かなかった。とはいえ、いつ動き出し、恐ろしき息吹や破壊的魔術、その巨体でメサを修羅の巷と化すことかと、人々は戦慄したままだった。やがて人々は城塞や地下に避難し、警備隊や迷宮守りが魔術や大砲で攻撃を開始するも、邪竜を滅ぼすには至らなかった。いかに傷つけようとも、即座に再生してしまうのだ。
効果の無い攻撃の手が緩んだ頃、奇妙な一団が街の中心部に現れた。黒いローブで身を覆った彼らは自らを〈ナグムズ教〉の信徒であると名乗った。
彼らは宣言する――この都市に崇拝対象である巨竜ナグムズを呼び寄せるため、秘密裏に儀式を行い、それは成されたのだと。あの化け物を召喚するのに、いったいどれほどの生け贄を捧げたのか、と詰め寄る警備隊長に、信徒たちは一切誰かを傷つけることはしていないと断言。また、ナグムズがこの先都市を攻撃することはおろか、何人たりとも掠り傷一つ付けることはない、との太鼓判。
そう言われても、上空には相変わらず渦巻く黒雲と赤き稲妻、そして恐ろしき竜の大顔面が鎮座している。あれがそこにあるだけで人々は安心して市民生活を送ることはできない、さっさと送り返してくれ、そう警備隊が言うが、信徒たちは「二度とナグムズ様が消えることはない。かの不滅なる竜を見上げながら生活するのだ」と宣言。
埒が明かないと判断したメサ当局は代表者である教主コンフリーを召致し、魔術的処置により虚偽を封じた上で尋問を開始した。
「なぜあのような化け物を呼び寄せたのだ!? 何の断りもなく!」
「だって、言ったら反対されると思って」せっかくの聖なる御業を無碍にされた怒りか、この陰鬱な顔のエルフは不満げだった。それが領主キルロイを逆なでした。
「当然であろうが、馬鹿者が! あのような不気味な――」コンフリーが舌打ちをする。「おい、貴様なんだその態度は!? 我が都市の民に対して一体どれほどの恐怖を及ぼしたのか、自覚というものが――」
「まあまあ閣下、ここはわたくしが」領主をなだめつつ、魔術師団の長エゲリアが柔らかな声で質問する。
「コンフリー殿、あなた方の崇めしナグムズ様、まことに立派な容貌であります。しかし、今の状態はいささか不完全で、痛々しいものではありませんか? まるで半身を千切られ、苦しんでいるかのような姿、送り返すのが慈悲ではありませんか」
この言葉も対しコンフリーは、分かっていないな、と言わんばかりに溜め息を一つ、
「あの不完全な姿こそ、ナグムズの十全なる形態、完成系。混沌の最高なる表現なんだ。既に我らが竜はこの地と完全に結合し、切り離すことは叶わない。このメサこそ、我らが聖地となる」
教主の言ったとおり、都市当局がいかなる手を尽くそうと、ナグムズと陰鬱な空模様を除くことはできなかった。ナグムズ教団には景観を損ねた罪で賠償金が課せられた。住民たちは最初、いつあの怪物が降りて来て破壊の限りを尽くすのかと怯えていたが、ひと月が過ぎる頃には誰もが見慣れ、恐ろしい竜の顔も、渦巻く雲と赤い稲妻も、日常の風景と化していた。