第10話 縦穴の雌鹿
爬虫類の人型種族、ベンシック。皆、低い声で無感情なふうにゆっくりと喋るが、この運転手もそうだった。
「獣人さん……おたくはどっかのシマのもんが私を狙って来たヒットマンか、あるいはタクシーと間違って乗り込んだのか……?」
ガヴィンはどちらでもなく、ドルスス藩主国から転移したのだと答えた。
「ドルスス……それってどこだ?」
帝国にある小国だと答え、突然入り込んですまない、とガヴィンは駐車中の車から外に出ようとするが、相手は引き留める。
「まあ、そう慌てなくていい……客を無下に追い返すのは、ブラニア様の教えに反する。狭い車だけど、ゆっくりしてってくれ……それにしても、帝国か。最近空気が乾燥してると思ったら……この街は今、東に行ってたわけか」
ぶつぶつと呟いた後、彼女は名乗る。「私は〈ピットハインド〉……職業は、便利屋とでも言っておこうか……ああ、妙な名だと思うかも知れないけど、これには由来があるんだ……」
ベンシックは子供のころの習慣や、生まれた時に目撃された天体現象、生物、人物などを由来とした名で呼ばれる。この便利屋が生まれた地区で、からっぽの貯水池にある時、一頭の雌鹿が現れた。深い縦穴の底に、あるいはガヴィンと同じく転移したのかも知れなかった。一人の子供がそれを見下ろし、あれは自分だと口走った。鹿もそうだと思っていたのか、彼女を見つめ返した。それから雌鹿はどこかへ消えてしまい、子供は縦穴の雌鹿と呼ばれるようになった。彼女は成長してから忘れていた名の由来を親に尋ね、この意味不明な話を気に入ったらしかった。
次はおたくが名乗ってくれ、と言われて自己紹介をする、ガヴィン・ラウ・ワーディ、獣人の迷宮守り。そこまで言ってから、話すべきことが少ないと気づいた。自分は記憶を失って迷宮内に現れた。迷宮守りの徒党に助けられて、しばらく指導してもらうと決まったところで、ここに転移してしまった。過去のヒントは、前にロドー家の仕事をして感状をもらっていたということくらいだ。
「そりゃ大したもんだ……ロドーと言えば、九大家の一つだろう? なにせおたくは獣人だし体格もいい、私の右腕に欲しいくらいさ……失った過去ってやつもすぐ取り戻せるだろうし、そうじゃなくても一流の迷宮守りとして食っていけるさ。
しかし、記憶を失って迷宮に現れるなんて、あいつみたいだな……ちょっと前に仕事を頼んだ、〈烏合衆〉にも、そういうエルフの傭兵がいたんだ……あいつもグリモだかどこだかの迷宮に、記憶をなくして転移したって言ってたんだよ。なんでも〈忘却の亜神〉っていう神様に祝福されてて、その代償に記憶をなくしてたらしい。おたくも何か、祝福を受けてるのかもな……ガヴィン」