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③旅は道連れ

こんばんは。

最後までぜひお楽しみください。

 翌日。午前十一時半。わたしはベッドの上で寝転がっていた。昨日のことが忘れられない。忘れたくもない。

 寝返りをうつ。目線の先には母がくれたコートとお気に入りの鞄があった。

「…………」

 目を閉じて考える。わたしはこの先、どんな人生を歩むのだろう。どんな最後を迎えるのだろう。あと三十分。ここに留まれば、わたしは。

 立ち上がり、扉をわずかに開ける。母が家事をする音が聞こえた。

「わたしは……」

 ここで生きていくべきか、それとも。

 胸の中に渦巻く迷いの理由が幸福であることを、わたしはもう知っている。それならば――。

 一階へ下りると、母が棚を漁っていた。何かを探しているようだった。わたしに気づき、静かに微笑む。

「決めたのね」

「うん」

 母の視線の先には、コートを着て、鞄を持ったわたしがいた。

「これも持って行きなさい」

 手渡されたのは、小さな箱だった。中身を見ようとして止められる。

「あとのお楽しみよ」

「中身くらい教えてくれてもいいのに」

「必ず役に立つ。それだけ言っておくわ」

 頑なに教えようとしないので、仕方なく鞄に仕舞った。

「気をつけてね」

「うん」

 言うべきことは、昨日のうちに言ってある。やるべきことは残っているけれど、母がそれを拒んだ。あとはもう、出発するだけ。

 母と向き合い、まっすぐに見る。

「行ってらっしゃい、エレノア」

「行ってきます、お母さん」

 どこにでもある親と子の挨拶。でも、二度と会うことのない別れの言葉。お互いにわかっていながら、いつものように手を振った。

「元気でね」

 娘の幸せを祈る母の胸元には、青い青い液体が揺れていた。


 〇


 市場は大きく、行き交う人々に遮られてなかなか進まない。広場の中央に立つ時計の針が遠くで見える。十二時まで、あと五分もなかった。

 わたしは走る。旅に出ると決めたのだから、もう迷っている暇はない。人の間を通り過ぎる度に、胸元で透明な液体が揺れた。急げ、急げと言われているようだった。

 あと二分。そういえば、広場はかなり広い。集合場所の詳しいことを何も聞いていなかった。探しているうちに行ってしまったらどうしよう。

 あと一分。広場が見えた。たくさんの人がいる。彼女の青い髪はどこ?

 十二時の鐘が鳴った。走ったことが理由ではない呼吸の乱れが激しい。ああ、見つからない。約束の時間になったのに、わたしはあの青色を見つけられない。

 わたしも一緒に行きたい。一晩かけて考えたあなたの名前を伝えたい。でも、わたしひとりではどちらも意味がないというのに、あなたがいない。

 ここで名前を呼んでも、彼女は知らないのだから応えてはくれないだろう。探しても探しても見つからない青に、わたしは足を止めた。

 もう行ってしまったのだろうか。それとも、最初から待ってはいなかったのだろうか。彼女はとても強い意志を持っていたから、壁の中で燻っていたわたしは相応しくないだろうか。

 わたしは再び足を動かした。

 諦めきれない。まだ、諦めたくなかった。

 人の波をかきわけ、走り続ける。広場を巡り、やがて大きな木の陰になっているところにやってきた。人口の太陽が届かない、薄暗い場所。喧騒から逃げるように小鳥が鳴く。

 ここにもいない。でも、まだ諦めたくない。もう十二時はとっくに過ぎていることはわかっている。みっともなくてもいい。わたしは精一杯に叫んだ。

「カナタっ‼」

 風が吹く。わたしの声をさらい、どこか遠くまで運んでいくらしい。小鳥の声も聴こえなくなった静かな空間。間隔が短くなった呼吸が、次第にゆっくりになっていく。

 やるべきことはやった。鉛のように重くなった体を動かそうとした時、背後で音がした。いや、正確には声がした。わたしに空を見せてくれた彼女の、小さな笑い声が。

「物語の主人公かと思っちゃった」

「あ…………」

 木の向こうから出てきたのは、紛れもなく彼女だった。その顔には、年相応の笑顔が浮かんでいる。

「いまの、私の名前?」

「そう。昨日、考えたんだ」

「由来を訊いてもいい?」

 わたしは空を見上げる。遠くには壁も見える。この世界を覆う絶対的な象徴。向こう側に行くことは決してできないけれど、わたしはここで空を見た。それは、きっと本当の空よりも美しいと思ったのだ。

「空の向こうから来たから」

「なるほど。じゃあ、その名前をつけてもらえるのは、世界で唯一、私だけということだね」

「犯罪者は来るけど」

「エレノア、こういう時は空気を読むものだよ」

「そっか。やり直させて」

「どうぞ」

 わたしは息を吸う。彼女の瞳をまっすぐ見て、主人公のように口を開く。

「あなたの名前はカナタ。世界にひとりだけの、空の向こうから来た旅人の名前だよ」

「ありがとう。すごく気に入った」

 少女――カナタはわたしの隣に歩いてきた。横顔を並べて広場を見る。

「集合に遅れてごめんね」

「いいよ。どうせ、いつまでも待つつもりだったから」

「えっ、ほんと?」

「君は来ると思ったんだ」

 カナタは口元を隠すように、くすりと笑う。「必ずね」

「もういいの?」

「もういいよ。昨日、パーティーをしたから」

「いいね。何パーティー?」

「魚パーティー」

「聞いたことないや。でも、楽しそう」

「魚はお母さんの好物なの」

「素敵だね」

 ゆっくり頷いたカナタは、鞄を持ち直す。

「じゃあ、行こうか」

「行先は決まってるの?」

「とりあえず、右の国の観光地に行ってみたいな。案内お願いね」

 カナタは手帳を広げ、「ここ」と示す。かなり遠い。というか、手帳にびっしりと書かれた内容……。

「調べたの?」

「せっかくの旅だもの。楽しまないとね」

「わたし、ほとんどこの町から出たことないよ」

 だから、案内はできない。その意味で言ったのだが、カナタはむしろ嬉しそうだった。

「じゃあ、手探りで進んでいこう。幸い、手は増えたことだし」

 彼女は手を差し出した。

 この手を取った時、すべては始まった。わたしが彼女の手を取って逃げた時も、彼女が名前を教えてと差し出した時も、いまこの時も。

 わたしは手を握った。こうして物語は進んでいく。ページがめくられ、次の章へ。

 理想が叶わぬこの世界に生まれたことを後悔したのは事実だけれど、理想がないからこそ得られたものもある。こんな世界も悪くないと、諦念と前進を抱く胸は紛れもない事実なのだ。

 隣を歩く彼女の瞳が私を見つめていた。

「うん。やっぱり綺麗だね」

「この色が好きなの?」

「とっても。どれだけ暗闇だろうと見つけられる自信があるよ」

「わたしの目は猫みたいに光らないけど」

「それはどうかな」

 彼女の青い髪が揺れる。呼応するように、わたしの髪も風にさらわれた。視界の端できらりと輝く。

「誇るべきだよ。君の髪と瞳の色をね」

 母譲りの金色が彼女の空色の中に映っている。生まれて初めて、自分の色を美しいと思えた。

「ありがとう。嬉しいよ」

「どういたしまして」

 カナタの歩みが遅くなる。

「どうしたの?」

「お腹すいちゃって……」

 空腹具合を表すように、彼女のお腹が派手に鳴った。

「ご飯は?」

「左の国を出発する前に食べたきり」

「いつの話なの。ご飯なんて、その辺の店で食べられるのに。もしかして、お金ない?」

「お金はあるんだけど、売ってくれなくて」

 カナタはわたしの胸元を見た。それは、彼女が持っていない物。

「この世界では、私はどうやら異端らしい」

「…………」

「いずれ仲間入りをする予定だけれどね」

「……最近出てきた説では、感染者と隔離した環境で暮らすと発症する時間を遅らせることができるかもって」

「そうなんだ」

「わたしと旅をしたら、ひとりで旅をするよりも早く病気になるかもしれないよ」

「それがどうかした?」

 わたしは足を止めた。彼女が不思議そうに顔を見る。綺麗な空色はどこまでも澄み、晴れ渡る朝のように清々しい。

「怖くないの?」

「怖いよ」

 当然のように答えるので、驚いて次の言葉を飲み込んでしまった。代わりに彼女が口を開く。

「ひとりだったらね」

「…………」

「エレノアがいるから怖くないよ」

「カナタ……」

「それに、愛してもらった思い出がある。親不孝たちへの餞別が」

「餞別?」

「そう。君ももらったはずだよ」

 そう言うと、彼女は出店へと向かって行く。慌てて財布を取り出そうとした時、手が何かに当たった。母からもらった箱だった。止められたことを思い出しつつも、蓋を開ける。

「…………お母さん」

 絵本の中でしか見たことのない宝石が輝いていた。一体どれほどの価値があるのか見当もつかない。

 旅にはお金がかかる。それくらいわかっていた。その日暮らしで生きていく覚悟をして出てきたつもりだったが、母はそれを許さないらしい。

 これを売ったら、何年、お金の心配をしなくていいだろう。こんなものをもらってしまっては、病気で死んでいる暇もないではないか。

 生きていかなければ。不安は多いけれど、幸いにもわたしはひとりじゃない。

 瞬くように思い出が蘇る。幼い頃の記憶はすべてがいいものではないけれど、今のわたしを形作る大切なもの。

 わたしを優しく見つめる母の顔が鮮明に浮かんだ。その顔は、まだ青い模様に侵されていない。

「ね?」

 穏やかな微笑みのカナタが手を差し出していた。わたしは頷くことをわずかに躊躇った。少しでも動けば、彼女が好きな金色の雫がこぼれるとわかっていたから。

 しかし、手を取らねば始まらない。箱を強く握り、わたしは頷いた。

「さあ、知らない世界を見に行こう。ここじゃないどこかへ飛び出そう」

「うん」

 手を握る少女たち。わたしたちの旅はここから始まる。

「楽しみだね、エレノア」

「そうだね、カナタ」

 わたしたちの顔に浮かぶ晴れやかな笑顔は、きっとどんな空よりも美しいだろう。

『でぃすとぴあ』をお読みいただきありがとうございました。

これから二人の旅は始まりますが、作品はここで完結です。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。


天目の他作品もぜひ見てみてくださいませ。

それでは、ご縁がありましたら、またお会いしましょう。

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