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平井のエッセイ・歴史系

日本で最初の鳥類図鑑~堀田正敦とかいうガチオタと露寇事件~

作者: 平井敦史

 2023年12月6日放送のNHKBS『英雄たちの選択』。タイトルは「時代をひらいた博物大名たち」ということで、江戸時代中~後期に全国的流行を見た博物学にハマった大名たちを取り上げていました。


博物(はくぶつ)大名(だいみょう)」とは何ぞや? 西洋から導入された科学的思考に触発され、自然の事物――動物、植物、鉱物等々さまざまなものに興味を持ち、その対象を詳細に研究した大名たちです。

 もちろん、博物学にハマったのは大名だけではなかったのですが、何しろ彼らには財力もあればある程度自由になる時間もあり、さらには大名間のネットワークまであるということで、非常にディープな研究成果を残す人たちが多数現れました。


 最初に取り上げられたのは、讃岐(さぬき)高松(たかまつ)藩主・松平(まつだいら)頼恭(よりたか)(1711~1771)。

 彼は本草学(ほんぞうがく)に造詣が深く、さまざまな動植物を観察することに情熱を傾けました。しまいには、城の堀に海水を引き込んで魚類の観察を行いました。

 その成果をまとめたものが、『衆鱗図(しゅうりんず)』という図譜。ありとあらゆる技法を駆使して作られたその魚類図鑑は、番組でも紹介されていましたが、いやもう、オタクに金と時間をふんだんに与えたらこういうものが出来上がる、という好例といっていいでしょう。

 衆鱗図(しゅうりんず)は香川県立ミュージアムさんが所蔵しており、過去に特別展などを開催されたこともあるようなので、機会があればぜひ一度実際に見てみたいものです。


 ちなみに、先ほど「本草学(ほんぞうがく)」という言葉が出てきましたが、これは、中国の秦漢(しんかん)から六朝(りくちょう)の時代にかけて、神仙思想に基づく方術(ほうじゅつ)の中から、実際に漢方薬の材料として使える植物などを研究する学問として発達してきたものです。

 日本においても、奈良時代にはすでに伝わり、発展を()げてきました。


 これと博物学の違いは、実用性に重きを置いた本草学に対し、実用性を軽視するわけではないものの、知的好奇心を満たすこと自体に意味を見出(みいだ)したものが博物学、というふうに考えていいでしょう。


 先ほど全国的に流行と書いたとおり、博物学に傾倒した大名はもちろん頼恭(よりたか)だけではありません。

 主要なところでは、越中(えっちゅう)富山(とやま)藩主・前田(まえだ) 利保(としやす)(1800~1859)や、筑前(ちくぜん)福岡(ふくおか)藩主・黒田(くろだ) 斉清(なりきよ)(1795~1851)といった人たちの名前が挙げられます。

 彼らは、旗本らも巻き込んで、赭鞭会(しゃべんかい)という博物学の同好会を結成して活動、お互いの研究成果を持ち寄ったりしていました。

 ちょっと当時のお殿様というものに対する見方が変わりますね。


 そして、こうした潮流の中から登場するのが、番組の主題となる人物。江戸幕府の若年寄(わかどしより)の重職を四十年以上にわたり勤め上げた、堀田(ほった)正敦(まさあつ)(1755~1832)というお人です。


 正敦(まさあつ)は、元々は仙台(せんだい)伊達(だて)家の生まれで、第六代藩主・伊達(だて) 宗村(むねむら)(1718~1756)の八男(第十七子)として生まれました。

 当初は中村姓を与えられ、中村(なかむら)村由(むらよし)と名乗っていました。

 1786年、数え年三十二歳の時に、近江(おうみ)堅田(かただ)藩主・堀田(ほった)正富(まさとみ)(1750~1791)の婿養子となり、翌年、正富(まさとみ)の隠居に伴い堅田藩一万石の藩主となります。堀田姓で呼ばれるのはこのためです。


 その後、寛政(かんせい)の改革で知られる老中(ろうじゅう)松平(まつだいら)定信(さだのぶ)(1759~1829)に見出(みいだ)され、1790年に若年寄(わかどしより)に就任。以来、四十二年の長きにわたり、重職を勤め上げることとなります。

 そのことからもわかるように、政治家としても非常に優秀な人物だったのですが、その一方で、博物学、特に鳥の研究に情熱を注ぐ一面も持っていたのでした。


 彼は若い頃から鷹狩りを好み、鷹や狩りの獲物となる鳥たちに対し、強い興味関心を(いだ)いていました。そして、関根(せきね)雲停(うんてい)(1804~1877)をはじめとする絵師たちに鳥類の絵図を描かせて『禽譜(きんぷ)』という図鑑を作成。併せて、その解説書である『観文(かんぶん)禽譜(きんぷ)』も書き上げました。

 これは、鳥の生態等に関する記述のみならず、その鳥が古典文学や和歌、漢詩のなかでどのように取り上げられているかといったことまで記述されています。

 すさまじいまでの鳥オタクっぷりですね。


 さて、この鳥オタク正敦が若年寄を務めた時代、外交上の重要な課題が生じていました。

 ロシア帝国との接触です。


 拙作『女帝のお茶会』で主人公を務めてもらった大黒屋(だいこくや)光太夫(こうだゆう)(1751~1828)。海難事故でアリューシャン列島に漂着し、そこからロシアに渡って女帝エカチェリーナ二世(1729~1796)に謁見、そして日本への帰還を果たすという数奇な人生を辿った人物です。

 日本に帰国した彼に対し、幕府の役人たちがさまざまな事柄を聴取した記録が残されているのですが、ロシアの政治体制等に関する質問が並ぶ中、「ロシアに(がん)はいるか」というような、突飛(とっぴ)な質問が混ざっています。

 これは、ご想像のとおり、正敦が役人に質問させたものであろうと言われています。

 まあ、そんな質問にもきちんと答える光太夫の観察力・記憶力チートっぷりにも驚かされるのですが(笑)。


 また、この質問から、正敦が単にロシアの珍奇な鳥を追い求めるのではなく、冬場日本に飛来する(がん)は、ロシアから渡って来ているのではないか、というような関心の持ち方をしていたことも読み取れます。


 このように、外交問題に取り組みつつ、北方の鳥への興味関心も(つの)らせていた正敦ですが、やがて大事件が勃発します。

 それが、「露寇(ろこう)事件」、あるいは事件当時の年号から「文化(ぶんか)露寇(ろこう)」と呼ばれる事件です。


 光太夫を日本に送り届けると同時に、通商交渉も求めてきたアダム=ラクスマン(1766~1806以降)一行に対し、松平(まつだいら)定信(さだのぶ)は、いきなりロシアと国交を開くようなことは認めなかったものの、長崎(ながさき)限定でなら門戸を開いてもいいとの方針を定め、信牌(しんぱい)(入港許可証)を発行します。

 これを受け取ったラクスマンは、長崎に向かうことはせず、ロシアに帰国します。自分の役目はここまで、と考えたのでしょうかね。


 その後、エカチェリーナ二世は崩御し、女帝の孫のアレクサンドル一世(1777~1825)の時代、この信牌(しんぱい)を携えて、二度目の外交使節が送り出されます。

 使者となったのは、『女帝のお茶会』の中で、みんな大好きズーボフ君(笑)が推薦していたニコライ=レザノフ(1764~1807)という人物。

 1804年(文化(ぶんか)元年)、レザノフは信牌を持って長崎に来航し、通商交渉を行おうと試みたのですが、通商に対して比較的積極的だった定信が失脚してしまっていたこともあり、幕府の役人たちはけんもほろろな態度に出ます。

 これに業を煮やしたレザノフは、1806年(文化3年)から1807年(文化4年)にかけて、樺太(からふと)択捉(えとろふ)の日本人居留地を襲撃、幾人もの日本人を連れ去るという暴挙を行います。


 この緊急事態に際し、正敦は若年寄の任にありながら自ら蝦夷地(えぞち)(現在の北海道)に赴き、1807年の6月から10月まで、四ヶ月間にわたり現地の視察を行うのですが……。その一方で、ちゃっかり北方の生物の記録も採集して帰って来ます。

 いや、ちゃんと仕事もしているわけですし、自ら危険な最前線に赴いて陣頭指揮を執るというのは、中々出来ることではないのですけどね。やっぱり、この人骨の髄まで鳥オタクなんだなあという思いは否めません。


 こうして、危険を冒してまで採集した北方の鳥たちに関する情報ですが、これらは資源としての意味合いもあることから、いわば軍事機密でもあったわけです。

 これを禽譜(きんぷ)に載せるか載せないか、というところが、番組の(きも)である選択でした。

 で、鳥オタクの正敦はどうしたかというと、もちろん期待を裏切らず、北方の鳥の情報も余さず禽譜(きんぷ)に載せました。

 まあ、彼なりに葛藤はあったのかも知れませんけどね。


 さて、北方の鳥の情報も掲載された禽譜(きんぷ)および観文(かんぶん)禽譜(きんぷ)には、美しい(くちばし)で知られるエトピリカも載っているのですが、この鳥の解説部分に、ある人物の名が記されています。

 その人物とは、高橋(たかはし)景保(かげやす)(1785~1829)。フィリップ=フランツ=フォン=シーボルト(1796~1866)に日本地図を渡した(とが)で投獄され、獄死したところをさらに斬首されるという厳罰に処された人物です。


 このことから、シーボルト事件には正敦も一枚噛んでいたのだはないかと考えられ、幕府に目を付けられる危険を冒してでも景保の名を記したのは、正敦なりの贖罪の意味合いがあったのではないかと考えられています。



 最後に、番組には出てきませんでしたが、今回本稿を(あらわ)すにあたってWikiで調べていて知った知識を一つ記しておくことにします。


 露寇(ろこう)事件に際し、択捉(えとろふ)島の漁場の番人を務めていた中川(なかがわ)五郎治(ごろうじ)(1768~1848)という人物がロシアに拉致され、シベリアに送られました。

 元々は廻船(かいせん)問屋の子として生まれ、松前(まつまえ)の商家に奉公していたのですが、ある程度の教養を身に着けていたようで、オホーツクで医師の助手となり、種痘法(しゅとうほう)を習得します。

 その後、1811年に起きたゴローニン事件に際し、ロシアとの捕虜交換で日本に帰国。種痘法を広め、日本における種痘法の祖と呼ばれることとなりました。

 こんな人物がいたんですね。全然知らんかった。



 本当、歴史って面白いですね。

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『女帝のお茶会』
― 新着の感想 ―
[良い点]  なるほど~。  とっても分かりやすい説明で、楽しく拝読しました。江戸時代って史料がいっぱい残っていますので、調べれば調べるほど、いろんな事が発見できて、本当に興味深いですよね。  そし…
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