王子は真実の愛のために婚約解消を申し出る
心地よい風が吹いている。木々はさわめき、小鳥の歌声が遠くに響いている。柔らかい日差しが木漏れ日となって降り注ぎ、花々が咲き誇る庭園に設えられたガゼボに置かれたテーブルの上では焼き上がって間もない菓子と淹れたての紅茶、そして薔薇の香りが仄かに流れている。
そのテーブルを囲むのはまだうら若き男女。
太陽の様に輝く金の髪に深い海のような紺碧の瞳、若木のように伸びた上背に程よく筋肉の乗った体躯を持つ少年はこの国の王太子であるセオドア・オレオール。
夜のような黒の巻き毛に鮮やかな春の森のような緑の瞳、瑞々しい白い肌が目映いばかりの少女は侯爵令嬢にして王太子の婚約者でもあるリリアーナ・テルアナイト。
月に一度の王宮での二人のお茶会。和やかに過ぎるはずの時間だったが、今日はいつもと違った。
セオドアは持て余すような長い足を揃えて腿に置いた手を固く握りしめている。なにか言いかけては逡巡し、リリアーナと目が合うとまるで苦痛を感じるかの様に顔を伏せてしまう。
こんなに緊張して苦しそうなセオドアをリリアーナは初めて見た。彼は比較的おおらかで人当たりが良く、政略で定められた婚約者であるリリアーナにもいつも笑顔を向けてくれる人だった。だから驚くより先に何かあると感じたのだ。
「セオドア殿下。わたくしに何か仰りたいことがございますのね?」
びくり、と大きく身体を揺らしたセオドアは、ゴクリと喉を鳴らすと覚悟を決めたように面を上げた。そしてリリアーナの目を見ながらはっきりと告げたのだ。
「リリアーナ・テルアナイト嬢。どうか私との婚約を解消して欲しい」
◇◆◇
セオドアがリリアーナと婚約したのは10歳になったばかりの頃だ。その頃リリアーナは9歳。誰の目にも明らかな政略結婚の縁組みだったが、セオドアはリリアーナを一目見た瞬間に雷に打たれたかのような気持ちになった。それは紛れもなく恋だった。
黒曜石の様に艶やかな黒髪はクルクルとカールを巻いてリリアーナの肩や背中で踊っている。リリアーナ自身は存在感のありすぎる巻き毛よりも儚げに見える直毛に憧れているようだが、セオドアはその存在感こそがリリアーナに似合っていると思っている。
緑の瞳は大ぶりのエメラルドのように輝いていて美しい。ちょっと眦がつり上がっているところがまた良い。リリアーナはその目に似合いの意志の強さを持って、セオドアが迷う時は共に道を拓こうと寄り添ってくれるのだ。
惚れたのは見目の麗しさだけではない。将来の王太子妃としての義務や責務に潰れることなく常に努力を欠かさない負けず嫌いなところも、時にはセオドアを叱咤し諌めるところも、そのくせ男女の関わりにはとても初心なところもまた全て好ましい。セオドア自身が紳士たるべしと教わって来た手前、節度ある関係を保っているから、まだ手の甲への口づけ以上のことはしてないが、それですら頬を上気させ微笑むリリアーナを見れば、尊敬を伴う愛情は心身の成長に負けず劣らず育つばかりだ。
こんな素晴らしい令嬢を妃に迎えられる自分は何という幸せ者かと日々の感謝を欠かさないくらいにはセオドアはリリアーナにメロメロだったし、早くリリアーナが学園を卒業して婚礼の日が来ないかと思っていた。
そう、先週馬から落ちて前世を思い出すまでは。
あの時は怪我もないのに熱を出して丸一日寝込んでしまい、随分と周囲に心配をかけた。
しかし考えてもみて欲しい、17年間王子として育った記憶はそのままに、日本というここにはない国の平凡な青年男子の記憶が一気に飛び込んでくれば、子供でなくても知恵熱くらい出てもおかしくないではないか。
一日が過ぎ、二日が過ぎて落ち着いてみればそれは現実味を持った記憶だった。
そしてその記憶の中でも鮮やかなのはやはりリリアーナなのだ。
青年──つまり自分の前世と思われる──の妹が遊んでた所謂乙女ゲームというやつに出てるめちゃくちゃ好みの美少女キャラ、それが侯爵令嬢リリアーナだった。転生しても好みのブレない自分にセオドア自身感動すら覚える。
その美少女を鑑賞したいがために生まれて初めて乙女ゲームに手を出した。
しかし悲しいかな、リリアーナはヒロインを引き立てるための悪役令嬢だったのだ。
妹は逆ハーレムエンドを目指していた。王子と結婚して、他の攻略キャラに支えられながら平和な国を作るというパターンだ。健全なゲームなので、トゥルーエンドと呼ぶのがが正しいのだが。
リリアーナは王子の婚約者だから、そのルートでのみ悪役令嬢として活躍する。他の攻略者ルートではまた異なる様々な試練が起きるのだ。リリアーナ目当てだったから仕方なく自分もそのルートを選んだ。
トゥルーエンドというだけあって、難易度は高い。特にこのルートは悪役令嬢の妨害が容赦なく、王子の好感度が上がりにくい上に、王子に集中しすぎると他の攻略キャラが離れていってしまう。
そりゃそうだ、とセオドアは思う。王子、つまりセオドア自身がこんなにもリリアーナに惹かれている。ちょっとやそっとの事で籠絡されてたまるものか。
ゲームという仮初めの世界ですら、リリアーナを追い詰めるのは辛かった。スチルが美麗であればあるほど、ヒロインではなくリリアーナを抱きしめて愛してるのは君だと伝えられるルートがあれば良いのにと夢想した。
──だが、適正な経験を積み上げれば必ず攻略できる。出来てしまうのだ。ゲームだから。
セオドアは途端に恐ろしくなった。
自分は確かにこの世界で生きている。それは前世と変わらず上手くいかないことに泣く日があったり、思い切り笑う日も凪のように穏やかな日もある、人の暮らしだ。
現実ならば己とリリアーナの運命を変えることもできるのではないか、と思ったのは一瞬だった。
もしもこの世界がゲームと同じように回るなら、神の手によって運命が動かされてしまうかもしれないのだ。事実ゲームと同じようにセオドアは王子であり、リリアーナは侯爵令嬢で婚約者だ。
今疑いようもなく抱いているこの愛も、一人の女性の出現によって歪んでしまうかもしれない。
ゲームのスチルの様にヒロインを抱き寄せて愛を誓い、リリアーナに罪を犯させ断罪することになるのかもしれない。
そんなことは全く望んでいない。愛を誓うならリリアーナが良い。けれど、望まずとも歪められてしまったら。抗えなかったら。断罪された令嬢の未来など明るいはずも無い。セオドアが攻略されてしまったらリリアーナが幸福になる道を己こそが閉ざしてしまうのだ。
そんなことはしたくない。どんな事になっても愛するリリアーナを幸せにする道を探さなければ。
三日三晩考えて、最後に一晩泣きはらした挙げ句、セオドアは決心した。
愛するリリアーナの為に、愛する人に幸福になってほしいからこそ、彼女を手放そうと。
◇◆◇
「リリアーナ・テルアナイト嬢。どうか私との婚約を解消して欲しい」
セオドアの言葉を聞いた瞬間、ひゅっと息を飲んだリリアーナはそのまま一言も発しなかった。しかしその目は雄弁だった。
最初は驚愕、次は悲しみ、それから怒りに変わり、今は疑念が浮かんでいる。
……沈黙が重い。
セオドアはこれが最後の機会かもしれないと思うとリリアーナから視線を逸らしたくなかった。愛する人の姿を瞳に焼き付けたかった。
だが見つめている内に己の失策に気づいてしまった。
(ヤバい……。そうだ、ゲームのリリアーナは王子とヒロインの行いに徐々に心を壊して理性が働かなくなって愚かなことをしたんだった……。つまり、平常時のリリアーナなら)
リリアーナは一度大きく深呼吸をした上でセオドアに問いかけた。
「婚約を解消……でございますか? これは政略を伴ったお約束ですので、わたくしの一存ではお返事することは出来ませんが、宜しければその理由をお教えいただけますかしら? わたくしに至らぬ事があるのでしたら」
「至らぬ事など何も無い! こ、これは私の事情なのだ」
「まあ……一体如何様な事情がお有りになりますの?」
リリアーナはそっと立ち上がり、テーブルを回ってセオドアに近づいてくる。表情は悲しげなのに、瞳は強い意思を隠せずにいる。
(冷静に追い詰めてくるのだ! 私がリリアーナに隠し事が出来ないのを承知の上で!)
リリアーナはセオドアの傍らに来ると、跪きセオドアの手に触れた。太腿の上で固く握りしめたその手に。細い指が手の甲を撫でて、時折柔らかな掌が太腿をかすめてゆく。
更にはそっと身を寄せて上目遣いにセオドアの顔を覗き込むものだから、ふんわりと胸まで腿に当たって来て、潤んだ緑の瞳と紅い唇のその向こうに胸の谷間まで見えてしまう。
これが偶然なのか意図してのものなのかセオドアには分からなかったが、少なくともセオドアの思考がぶっ飛ぶには十分な視覚と触覚の暴力だった。
「リ、リリアーナ……膝をついたらドレスが汚れてしまう」
どうすれば婚約解消が出来るのか考えなければいけないというのに、口に出たのはそんな言葉だった。
「ドレスなど……! セオドア殿下のお心より勝るものなどございません。お教えくださいませ。もしやわたくしの事がお嫌いに……? 政略ではございましたが、お心を寄せて下さっていると思っていたのはわたくしの自惚れでしたの……?」
視線は逸らせず、耳は愛しい声を拾い、触れる指先にどっどっと心臓は高鳴っていく。
「リリアーナ、聞かないでくれ」
「わたくしは初めてお会いしたその日からずっと、セオドア殿下をお慕いしております」
敢えて告白などしなくても互いの好意は伝わっていると思っていた。逆に好意が無くても政略結婚というのは成立してしまうものなので、告白をする必要などなかったのは事実だ。しかし女性にここまで言わせて黙っていられるほどセオドアは卑怯者にはなれなかった。
「私だって……! 私こそリリアーナを生まれる前から愛している!! 真実愛しているからこそ今手放さねばならぬと決意したのだ!」
感情に流されるまま胸の痛みを絞り出すように真実を告げてしまったセオドアの叫びを聞くと、リリアーナは背筋を伸ばして立ち上がりセオドアを見下ろした。
「では、わたくしに全てお話しくださいませ。セオドア殿下は愛する者の願いを拒むような方では無いと存じておりますわ。……そうでございましょう?」
まだ16歳の少女でありながら、笑顔を湛えて上から見下ろすその姿は高潔な女王のようだ。
圧倒されながらリリアーナをうっとりと見上げるセオドアはもうダメだった。
◇◆◇
「わたくし、以前から薄々感じていながら敢えて申し上げずにいた事、今は少々後悔しておりますわ」
曰く、セオドアは人が良すぎること。
曰く、そのくせ自分で全て解決しようと考えること。
曰く、臣下を使いこなせていないこと。
曰く、それこそが臣下への侮辱になることに気づいていないこと。
セオドアが前世の話から全てを白状させられた後は、リリアーナの説教大会と変わった。
驚いたことに、リリアーナは奇抜なことを言うセオドアの事を全て信じてくれた。気でも狂ったかと離れていってくれれば、それはそれで良いとセオドアは思っていたというのに。
「宜しいですか? 両陛下がお選びになって、幼い頃から気心が知れている『友人』たちが本当にただのお友達とお思いですか? わたくしも含め、次代の王となるセオドア殿下をお支えし、時には剣に、時には盾となる臣下でもあるのです」
「そうは言うが、大切な友人であることも否定できない。私は皆に迷惑を掛けてはいけないと思って」
「そ・こ・です! そこなのですわセオドア殿下。そうやって黙って行動されることこそが迷惑ですのよ」
「えっ」
「知り得ない事は対策のしようがありませんのよ。私的なことまで全てお話しくださいとは申しませんわ。ですが情報の共有なくては最適解は得られないのです。大切に思うならば、知っていることを伝え共に対策を練ることが信頼関係というものではございませんか? その殿下の信頼こそが臣下の心を支えるのですわ」
「……そうか……私が一人でやればというのは驕りであったのか」
「お気づきいただけましたかしら」
リリアーナの優しい笑顔にセオドアは恥じらいながら頷いた。身体が育って文武両道と賞賛されていてもまだまだ自分には足りない部分があると実感する。
リリアーナは実際にはセオドアの欠点は反面好ましさであることも知っている。素直さは甘さでもあるが、己の非を認めより良くなろうとする誠実さでもある。だからこそ側で支えたいと思える愛しい婚約者なのだ。
「そのゲームとやらの世界のわたくしたちは、何も知らなかった故に皆ヒロインの虜になってしまったのではありませんこと? 普通に考えれば皆さん女性の好みはバラバラですのに、みんながみんな同じ女性に恋愛感情を抱くというのは不思議な話ですわ。作り話であれば通ることも現実では不自然です。もしそれが現実であり得ると言うのならば、魔法か呪いかお薬か……或いは言葉巧みに洗脳されたか……真っ当な手段では無いことが想像できますわ……」
それからのリリアーナの行動は早かった。
セオドアの『友人』達を召集し、あらゆる対策を練った。
恥ずかしながらセオドアの前世は全て共有された。友人達は呆れ半分納得半分だったが、リリアーナと同じようにセオドアを信じて受け入れてくれた。その信頼が暖かく嬉しくて、セオドアは改めてリリアーナの言葉を噛みしめ、信じるべき臣下としても彼らを大切にしていこうと心に刻んだ。
友人達は即ち攻略対象者だ。確かに知識を共有し対策を練ることは、この友人達が何者にも惑わされずにあるべき縁を結ぶことを守る為でもあるのだから、己の前世からの恋を知られて生暖かい目で見られる事くらい大したことはない……ないと思うことにした。
攻略対象者の中にはセオドアの友人ではない学園の教師もいた。流石に彼にまで話して協力を得ることは無理だと思って諦めていたのに、いつの間にかリリアーナの侍女である伯爵令嬢と恋仲になり婚約していたのには驚いた。
セオドアが何気ない振りをして教師が付けていたカフスを褒めると、婚約者からの贈り物だとそれは幸せそうに話してくれた。記憶に間違いがなければ、あれは魔法や呪いを弾く魔道具として準備したものの一つだ。
どうやら随分と溺愛している様子で、周囲の女性からの誘いや贈り物は全て丁寧に断っていると言う話だから、一介の学生が彼と恋に落ちるような接点を持つのは難しいだろう。
「彼女には長く勤めて欲しかったので、王都に居を構えていて領地を持たず、それでいて生活に困らない貴族令息と良い縁組が出来ればと思っていたところでしたの。まさかこんなに条件に合う方が身近にいらっしゃるなんて、セオドア殿下のお話をお伺いしていなければ気づかないところでしたわ」
にっこりと微笑むリリアーナに、セオドアは「役に立って良かった」と笑顔で返した。転んでもタダでは起きない強かさも、掌で人を動かすような知略も、セオドアにとってはリリアーナの魅力でしかないのだから。
そうして万全の構えを以てセオドア達の通う学園はヒロインの編入を迎えた。
ストロベリーブロンドに水色の瞳の彼女の名前はフローラ。ゲームのデフォルトネームと同じだった。
◇◆◇
「フローラさん、まだお分かりにならないのかしら。わたくしは侯爵令嬢にしてセオドア殿下の婚約者で、貴女の家格よりずっと上ですのよ。そのわたくしの言うことが聞けないと仰るの?」
学び舎の中に限っては身分の上下は問わず、皆等しく教育を受ける学徒であるというのがこの学園の信条だ。だというのにリリアーナはその身分をひけらかすように言いつのってフローラに正面から圧をかけた。
「はい、こればかりはリリアーナ様の仰ることであっても聞けません」
セオドアの隣に座るフローラはリリアーナに臆する事無くきっぱりはっきりと告げる。
「リリアーナ、もういい加減に諦めた方がいい」
「セオドア殿下までそんな事を仰るのですか!?」
リリアーナは悔しそうに唇を噛み目を潤ませる。
「ああ、リリアーナ、そんな顔も愛らしいけれど、唇に傷がついてしまうよ」
セオドアが堪えきれずに立ち上がり、書類が山と積まれた執務机を後にしてリリアーナを抱きしめる。可哀想な時ですら可愛く美しいのはゲームで見たので知っているが、やはり彼女には自分の腕の中で幸せでいて欲しいのだ。
「だって……お願いしても、命令しても、身分を笠に着ても、フローラさんが頷いてくださらないんですもの……。折角お友達になれたというのに」
はーっ、という大きなため息とともに、フローラはペンを握っていた手を置いて、書類の山から顔を上げてリリアーナを仰ぎ見る。
「お友達だから遠慮無くお断りしているのではありませんか」
「……そうなの?」
リリアーナがセオドアの腕に囚われたまま、驚くように目を見開いて大きく瞬きをすると、その長い睫が涙を散らした。
フローラが途方に暮れた顔をしながら、それでも説明をする。
「卒業式後の送別パーティーで、侯爵令嬢とお揃いのドレスなんていくらなんでも無理です……! 何も無くても無理なのに、今年は殿下が卒業されるんですよ!? リリアーナ様はパートナーとしてお色や雰囲気を合わせたドレスを誂えねばならないというのに、それとお揃いなんて無謀な事出来るわけがありません!!」
「だって一番近いパーティがそれなんですもの。普段は制服でしか過ごせないし、お友達とお揃いって憧れでしたのに」
普段のリリアーナではあり得ない可愛らしい我儘ぶりに、セオドアは苦笑しながらもフローラへ助け船を出した。
「リリアーナ、私とリリアーナがコーディネイトを合わせてるのに、それとそっくりなドレスをフローラ嬢が着て来たら、まるで私が二人を天秤に掛けてでもいるように思われてしまうよ? 私にもフローラ嬢にも不名誉な噂が立ってもいいのかな?」
「まあ! まあ……! そ、そうですわね。わたくしとしたことが……何故それに思い至らなかったのでしょう。浮かれていて恥ずかしいですわ……。申し訳ありません」
羞恥で頬を染めるリリアーナが可愛い。賢く優雅なリリアーナも大好きだが、年相応に可愛らしい事を言うリリアーナも大好きだとセオドアはこの一年で実感している。
手へのキスだけではなくこうして抱きしめても誰にも咎められないようになったのもセオドアにとっては大きな進展だ。リリアーナはセオドアの愛を疑わない。だから安心して身を委ねてくれる。これも己の恋心を明らかにした効果であるならばむしろ幸いだ。
結論から言うと、フローラは誰一人として『攻略』しようとはしなかった。
これはセオドア達の推論に過ぎないが、おそらくフローラに自我があることがシナリオを無効にさせたのではないだろうか。
ゲーム世界のフローラはフローラであってフローラではない。プレイヤーはあくまでシナリオに用意された選択肢でしか思考も行動も出来ないのだ。それこそ前世のセオドアがリリアーナではなく王子を攻略するしかなかったように。
フローラが編入してから一年が経つが、子爵令嬢として領地の為に勉学に勤しむ姿は、むしろ他の学生の規範となるべき存在だった。
突如白魔法の才に目覚めたことからこの学園に編入することになったが、学べればどこでも良かったらしい。
高位貴族もいるのだから交流を広めてはどうだと話しても、遠方の領地に帰ればそう影響はないので、気の合う人と仲良く過ごせればそれでいいと笑う。聞けば領地を接する伯爵家とも交流が続いており、三つ年上の子息とも良い雰囲気らしく、よく手紙のやりとりをしているという。
色々と警戒し身構えていたセオドア達だったが、そんなフローラに接すると真摯に向き合わざるを得なかった。日々を重ねていつしか彼女とリリアーナは仲良くなっていて、セオドアとしてもこれは嬉しい誤算だった。
リリアーナは警戒するために、それはそれは注意深くフローラを見ていた。そして見れば見るほど善良で真面目な少女だというのが分かって、すっかり気に入ってしまったのだ。そして、フローラの自由闊達さと相まって、気づけば二人は「友人」としての立場を確立していた。
侯爵令嬢で王太子の婚約者という立場上、リリアーナには同性の友人が少ない。側に居る女性は数多いが、大半が身分の絡む間柄だ。高位貴族同士であれば、政略によっていつか敵対する可能性もゼロでは無い。そんなリリアーナに気の置けない友人が出来たのならば喜ぶべき事だった。
「普段使いも出来るような髪飾りをお揃いで作ったらどうだい? それくらいなら私も困らないよ」
「いいですわね! それに致しましょう! ねえ、フローラさん、どのようなデザインがお好み?」
「この書類の山が片付くまでそのお話は保留です。さ、殿下もリリアーナ様もお席に戻ってください」
ここは学園の自治生徒会室。生徒の自治を重要視するのは将来の国政を担う者達がここで学び人脈を育むためだ。役員は成績順に決められることが多く、会長はセオドアが担っていたが、次期会長も決まり今は引き継ぎで忙しくしていた。
成績優秀なフローラは次期会長で、その引き継ぎの為に沢山の書類と格闘しているところであった。次期も引き続き生徒会役員となるリリアーナも、もちろん成績優秀である。ただし王太子妃教育もあることから業務量の少ない役職となっている。
するりとセオドアの腕から抜け出してフローラに笑顔を向けるリリアーナを見るとちょっとだけ嫉妬心が湧くものの、それでも楽しそうなリリアーナが見られるならば些細な事だ。
セオドアが執務机に戻るとフローラとは反対隣にリリアーナも腰掛けてペンを握る。
「私もリリアーナと揃いのアクセサリーを作りたいな。あとで相談に乗ってくれるかい?」
微笑みかけると頬を染めて微笑み返してくれるリリアーナが可愛い。
「勿論ですわ……! 早くご相談できるよう、わたくしも頑張って書類を片付けますわね」
(ずっとこうして永遠にリリアーナの笑顔を守っていこう)
前世から抱く真実の愛のために、セオドアは心に強く誓うのだった。