其ノ八 ― 柱石倒壊
9日後の5月27日朝。
墳翳丘陵の南東、土地の者も容易に近づかない深い森の中に、断崖が屹立している。途中に生える灌木の間に、朝日に照らされた崖肌が白々とのぞく。側を悠々と鷹が飛んでいる。
見上げると首も折れそうな、崖の遥か上に、人がいた。
「将軍様」
甘ったるい女の声。
いや、はるか崖上にいるか弱い女の声なぞ聞き取れないし、何より女のいる場所は崖が深く抉れて、口を開いた穴の周りから幾本かの灌木が伸びているから、崖下からは中の様子はまったく見えない。
しかし、そこには確かに人がいるのである。
女の名は蕊巴嬉といった。
彼女は坤斧軍配属の軍人であった。ただ、今は襦袢一つで鎧も脱いでいて庶民にしか見えぬ。また、人界から隔絶した寂しい場所にいる割に、表情が満ち足りて微笑んでいる。
岩の上に座る彼女は、下を向いて何者かに聞く。
「喉が渇きましたか?」
彼女の膝上に頭を乗せ、寝ている者がいた。2mはあろうかという大男 ― 額に真一文字の傷 ― 壘家の柱石、坤斧将軍である。
蕊巴嬉は軍人にしては細い指を滑らかに躍らせながら、坤斧の身体を愛おしそうに撫でる。
一方の坤斧は苦しげに顔をしかめた。額に走る傷が歪む。
それもその筈、坤斧の腹には汚い布が幾重にも巻かれ、血で大部分が赤黒く染まっていた。余程の重傷と見える。以前の坤斧を知っているなら、その変わりように驚くであろう。身体は痩せ、頰はこけ、髭も髪も伸び放題であった。2mの巨体と、額を横切る真一文字の傷で何とか彼と判別できるのである。鎧は当然脱がされ、袍一枚になっており、腰に佩いていた豪奢な短剣も外されて蕊巴嬉の手元にある。彼が一流の武人であることを示すものは、今消え失せている。
蕊巴嬉は傍らにある竹筒を取り、中の水を口に含んで屈みこみ、意識朦朧の坤斧に口づけした。坤斧に口移しで水を与えたのである。彼は眉をしかめながらも、誤嚥もせずに喉を鳴らした。
蕊巴嬉はにっこり笑い、
「愛する将軍様とこうして暮らせるなら、私にとってこの洞穴は楽園だわ。」
そういってまた、坤斧の身体を撫でた。
丁度1ヶ月前の4月27日、味方が大敗して、蕊巴嬉はこの武人を引きずって森をさまよい、崖を這い登り、この場所を見つけた時は快哉を叫んだ。
――――――――――――――――――――
4月27日の夜だった。
壘渋を支える猛将、「一字閃」坤斧は、精鋭1000騎を率いて坦陸城を出、皺馬丘に陣取る美獣軍を目指した。手前に陣取る渤軍は寝静まり、坤斧軍1000騎は皺馬丘まで到達した。美獣軍も篝火なく、皺馬丘は暗く沈んでいた。
だが、丘の南麓に進んだ時、暗闇から急に鬨の声が上がった。
「やっと来たか、『一字閃』!待ちくたびれたぞ!」
女の声が、夜の皺馬丘を劈く。
次の瞬間、坤斧軍は側面から強烈な打突を受け、一気に隊列を崩した。闇の中に「困」と染め抜いた旗幟がそれこそ無数にひるがえった。
美獣軍が誇る女将軍、「方鬼娘」困士甜の部隊だった。彼女は夜襲に備え、迎撃したのである。
坤斧の夜襲作戦は、失敗した。困士甜は坤斧の1000騎を闇夜の中で包囲、殲滅した。坤斧の麾下で「圭粒参虎」とその武勇をうたわれた坪欽、坪蓋往は討死し、欄三秀は乱戦の中で行方不明となった。
戦さが終わり夜が明けた。
夜襲側の戦死体が、皺馬丘の南麓に累々と横たわっていた。困士甜は坤斧の遺体を探した。腹部にかなりの深傷を負わせたことは兵士達の証言で分かっていた。もはやまともに動けまい、戦場付近でこと切れている筈と血眼になって探したが、結局見つからなかった。
坦陸側も状況は把握していた。戦死は確認できないが、かといって坦陸に帰還もしていない。
坤斧、行方不明。
死んだも同然である。壘渋にとって、柱石である坤斧が消えたことは致命的な痛手であり、前話で取り上げたような動揺が、家中を一気に覆ったのである。
――――――――――――――――――――
「本当、戦が負けで良かったわあ。」
蕊巴嬉は恍惚として、己れの膝元で生死の境を彷徨う大男を覗き込む。
戦場に坤斧が見つからない筈である。
戦場から約8km離れた深山で、延命させられているのだから。
「もし勝っていたら」
大将軍と一女騎兵のまま、面と向かって話すことも叶わず、二人の間には大海のような距離が開いていたことであろう。
しかし今、憧れだった大将軍の生命は蕊巴嬉の掌中にあるのである。
それは戦に負けたからだ ―
彼女がにやりと笑った時、膝上で坤斧がかっ、と目を見開いた。
「負けで良かったとは、なんだ!」
そして叫んだ。己れの顔を覗き込む若い女、こいつが言った台詞か。
「ようやく目が、口が開いたわ。」
まったく意識がなかったわけでは無さそうである。
蕊巴嬉は驚きながらも、笑顔を見せた。
「坤斧様、意識が戻りましたか?」
「お前、何者だ?」
しかし、坤斧が己れの顔を覚えておらず、一気に顔がこわばった。膨大な自軍にいる若い一女兵士を、彼は知らなかったのである。
蕊巴嬉の頰に朱が走り、負けずに大声をあげた。
「坤斧第七騎馬隊所属騎兵、姓は蕊、名は巴嬉と申しますっ。戦の後、坤斧様をお助けし、今日までお命を守ってまいりました!」
「ん?今日は何日だ。」
「はっ。5月27日です」
「なに?あれから1ヶ月経ったのか、ぐっ。」
坤斧は興奮の度を上げるにつれ、感覚が戻り、傷の激痛に髭面を歪めた。そして腹部を抑え、己れの負った戦傷が致命的であることを悟る。
「なぜ助けた。なぜ、1ヶ月も長らえさせた!」
頭を蕊巴嬉の膝上に乗せたまま、坤斧は部下を叱責した。
「恥をかかせよったな!」
「なんですって?」
神妙に叱責を受け入れていた蕊巴嬉も、ここで急に激怒した。
「誰のおかげでここまで生きれたと思ってるのよ!」
彼女は傍らに置いた短剣を、咄嗟に抜いて、坤斧の首目掛けて振り下ろした。
「私が、戦場から救い出して、この崖に担ぎ込み、1ヶ月世話し続けたのよ?」
蕊巴嬉は短剣に力を込める。その力で坤斧の首は切断されていった。瀕死の重傷を負い、1ヶ月の延命で力も入らず、最早抵抗すら出来なかった。
「それを!何よ!」
坤斧は死んだ。
壘渋を陰に陽に支え、他の巨大勢力からこの坦陸周辺の坡東を守護し、穣界中にその武勇を称えられた大将軍、「一字閃」坤斧は、世に知られぬまま、幽境で絶命してしまったのである。
鷹が一羽、空を舞っている。
「ねえ、これを喰ってくれない?」
放心した蕊巴嬉が、鷹に声をかけている。
********************
序章として八篇を語らせて頂いた。次回より本編を始める。




