其ノ七 ― 黄靴無力
坤斧の夜襲失敗後も、なんとか壘渋の坦陸城は耐えている。
しかし連合軍の総攻撃や、家臣の庵貞による暗殺未遂等、5月を迎えて壘渋の周りは内憂外患が極まっていた。
以下はそんな頃合いの話。
謫徒は23歳、壘魍は12歳になっている。
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謫徒は、慌ただしく自室に駆け込むと、手探りで燭燈を点けて石椅子に腰を下ろす。上気した頰が灯火に照らされる。
「まったく、こんな折に壘渋様もお元気なことだ」
男の唇は紅を引いたように赤く、そこからのぞく歯は少年の頃と変わらず、雪のように真っ白だった。
その口から、はあはあ、と吐息が漏れている。この房室に走ってきたから― だけではない。白い首筋に何点も、口で吸われたような赤い班がある。
しかし荒い息のまま、謫徒の表情は引き締まっている。
「さて。今夜こそ送らねばならない。」
卓の抽斗から筆硯、紙を取り出し、節のない長く柔らかな指を躍らせて、書をしたため始めた。はあ、と吐息を漏らしながら。
「野に臥す猛獣よ。我が坦陸に来たれ。貴殿の武は黄土に埋もれるべき蛮勇ではなく、後閔の勇将、壘洗将軍の末裔がため、発揮されたい。斐界全域の耳目集中せる、この坦陸攻防に参戦し、渤因秦三ヶ国連合を貴殿の猛勇で跳ね除けて、歴史に名を刻まれよ。そしてその暁には、名家壘家の閣僚として加わらんことをここに約す。
坡東太守 壘渋」
一枚書き終えると、燭燈に照らし、ぶつぶつと音読する。幾度かそれを繰り返したあと、
「よし」
と言って、宛所を追記した。
謫徒は壘渋の史官として、公文書を代筆する役を担っていたから、主に成り代わって書簡を認めているのだろうか。
彼はすぐ新たな紙を取り出して、同じ文章を書いていく。長い前髪はさらさらと揺れ、ニヤついた朱唇からは真っ白な歯がのぞいている。
深更までかかり、30枚の書簡を完成させた。
空は白み、日付は眞暦1807年5月10日になっている。
「ふうう。朝までやってしまったか。」
口に手も当てずに大きなあくびを一つ、石椅子で両腕を伸ばしてから、やにわに書簡30枚をひっ掴み、立ち上がった。
そして、
「婆さんの相手さえしなけりゃ、少しは寝れたのになあ。」
そう言いながら、荒々しく自室を出て行った。
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庭園に小雨が舞う。
5月18日、15時。
坡州坦陸の城主、壘渋邸の庭は、初夏の緑が薄灰の奇岩たちを彩り、小雨でその色彩は濃さを増していた。淡く紗のかかったような空を見やれば、坦陸の象徴である十黄旗塔が屹立している。塔から生える黄の旗たちは、雨天の下、ひどく鮮やかであった。
「うう、寒いな。しかしどなたかおらぬかのう。どんなに荒くれ者でもよい。ただ兎に角、武勇の士が。」
軍議が終わって混み合う中講堂で、体の小さい壘魍は埋もれるように立っていた。二、三人挟んで向こうで語る文官二人の話を聞くともなく聞く。初夏なのに堂内は冷えている。
「軍事務官の貴殿がそんなこと言ってはいかぬだろう。」
「しかし『一字閃』将軍がもはや、いないのだから」
壘魍は、まだ少女と言っていい丸顔に、あからさまな険を浮かべて、小さく舌打ちした。この文官の発言で一瞬講堂内が静まったが、誰もこちらに気づかなかったから、彼女の舌打ちは聞こえずに済んだようだ。
(軽率な。まだ生死が不明なのに、将軍に対して無礼でもある。)
壘家の重要人物が集まっている場での、こんな士気を下げる発言の悪影響は計り知れない。一瞬静まった堂内は再び、ざわめき始めたが、どこか薄ら寒い空気が漂っている。そう、壘魍は感じていた。
実際、すうっ、と堂内に涼しい風が吹き込んだ。
この中講堂は床続きで回廊と繋がり、柱列の向こうは奇岩の庭園である。霧雨降る外気は、5月とは思えぬ冷たさであった。
「お。おお、壘魍様ではないですか。これは気が付きませず、失礼いたしました。」
すぐ隣の肥った文官が、壘魍を見下ろして目を丸くしていた。壘魍は12歳になるが、黄色い尖った木靴を履いた足元から、紅い螺鈿の髪飾りを刺した頭の先まで、130cmに満たない。かなり小さい方だ。気づかないのも無理はない。
「塲岺殿。お気になさらずに。それにしても、昨日はお疲れでございました。」
「あ、これは。た、大変恥ずかしい話で。」
「いえ、見事な処断だったんじゃないかしら。私は子供でよく分かりませんが、身内のことが一番難しいですものね。」
塲岺は恰幅の良い初老の男で、坦陸西街区の治安総監だが、孫ほど違う小娘相手に、脂汗浮かべてたじろいでいる。
それは、坡東の雄・壘渋の孫娘という、壘魍の身分を恐れてのことではない。
壘魍は白面に頰は薄桃、その上に切れ長の一重眼を載せているが、瞳が薄茶で、彼女に見つめられると心の内が見透かされるように感じる、と家臣達は恐れていた。
壘魍も、そういう評判は知悉していた。
だからわざと塲岺を見つめたものである。動揺した時、人は内緒事を無用意に洩らしやすい。昨日、この男の管轄下で美獣軍に情報を売っていた官吏が摘発された。西街区は即日磔刑を執行した。美獣に対する籠城戦中だから当然ではあるが、素早い対処だった。しかし、坦陸の病巣は根深い。この総監級の何人かが、美獣に通じている、と壘魍は感じていた。庵貞、埼執、詭月納、蘭政丕、といった者たちだ。
でも。
(悲しいかな、私はまだまだ子供。摘発するにも良い実行案が湧かない。)
一人一人睨みを利かせて、心の内を探る。ひどく場当たり的である。しかもそんなことをして何になるのか。実際は読心など出来ない。くさい、と感じることはあったがその程度のことで、しょっぴくことも出来ない。庵貞は、予感が当たったが、なんの予防策も講じられなかった。
「壘魍様。ご安心ください。もう謀反人は出ますまい。きっと美獣を追えましょう。」
「左様。美軍も一枚岩ではありません。穂泉煎とうまく行ってない、という話もあります。」
(さっきの軍議で言ってた話じゃない。私も聞いてたわよ。)
訳知り顏の重臣二人をあからさまに無視すると、壘魍は堂内を見回した。
混んでいた。
軍議が終わってしばらく経つのに、まだ多く官僚がとどまっている。嫌な気分に襲われた。
(過日の短弓騒ぎに似ている。)
壘魍の胸が騒ぎ始めた。
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七日前。
壘渋は親衛隊に守られながら、坦陸城市内を歩き、武備廠を慰問に訪れた。武備廠は壘軍の武装を制作したり、補修する工場で、籠城が長期化するにつれて剣や甲冑の修理が膨大な量となり、工員達に非常な負荷がかかっていた。壘渋は齢60を越えた老女であったから、ただでさえ膝など痛む箇所は数知れず、しかも君主とはいえ籠城戦の最中、栄養も不足気味であったが、そこを押して縁の下の力持ちたちを慰めに来たのだった。
工員たちは、坦陸の女城主の訪問を感激し、工員以外にも多くの閣僚が出席していて、壘渋の慈愛を口々に賞賛した。「さすが後閔の名将・壘洗の正統なり!」と叫んだのは財務官の埼執であった。壘魍も場内にいたが、その幼い心にはこの発言は刺激的で、つい涙ぐんだものである。埼執も案外、いい奴だな、とも思った。
万雷の如き拍手湧く武備廠には、騒ぎを聞いて続々と下吏や非番の兵卒、市民が押しかけ、建物の内外が賑やかになった。お祖母様は?と壘魍が探せば、20mほど向こうの壇上で、親衛隊に取り巻かれながら立っていたが、すでに立錐の余地なく、もし将棋倒しになったら大変だ、そうでなくても御体にかなりの負担が、と心配になった。だが当の壘渋は笑い皺を際立たせて、ひどく機嫌が良いようだった。
カサッという音がした。
そちらを見たら庵貞が居た。すぐ右隣にいた。彼は背中に背負った短弓を取り外していた。その音だった。
庵貞は坦陸の兵糧管理官で、文官である。この場に短弓を保持しているのは不自然だ。
いや、そもそも壘魍は前々から庵貞を怪しいと疑っていたのである。
大声だった。
「庵貞!その短弓で何をするの?」
武備廠内の耳目が一斉に、庵貞へ集まった。庵貞は驚き、急いで箙から矢を摘み出した。
壘魍は素早く間合いを詰め、左脚で飛び蹴りをした。
黄色い木靴の尖った靴先が、庵貞の股間に下から突き刺さった。
「ぐえっ」
庵貞は白眼をむいて、弓矢を取り落とす。
即座に周囲の大人達が、庵貞を取り押さえた。
庵貞はすぐ拷問にかけられ、二時間後には美獣に籠絡されたことを吐き、その後坦陸内での同調者について更に責められたが、本当に知らないようだった。この点には何も言及せぬまま、翌日、拷問が行き過ぎた為に死亡している。
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「壘魍様は本当に坦陸の力になっておられます。」
そう言われて、壘魍はふと我に返った。名前も知らぬ年寄りの官僚に声をかけられているようである。そして目の先に何かを捉えた。
「まだお小さくてらっしゃるのに、お祖母様の危機を救われ、また美獣を追い返す様々な策を立てられる。『一字閃』将軍がおられぬ今、我ら坦陸の人間にとっては希望の光。。。、おっと、どうされた、壘魍様?」
閣僚達の群れの向こう、何か光ったのだ。
15mほど先だ。
走った。
驚く堂中の閣僚達を無視し、跳ね除けて、彼らの足元を脱兎の如く走る。その先には祖母、壘渋がいるはずだ。
そして…
「詭月納!」
壘魍は叫びながら、小さな体で突っ込んだ。
光るモノ目掛けて。
短刀が転がる。
「何してる、取り押さえよ!」
詭月納と呼ぼれた男は、壘魍に突っ込まれ、体勢を崩し、ぐらついていた。すぐそばには顔面蒼白となった壘渋が、親衛隊に囲まれて立ち尽くしていた。
周囲の大人達が慌てて、詭月納を押し潰す。堂内は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
詭月納は、籠城軍の一角を指揮する武官である。短刀を持っているのは不思議じゃないが、至近の壘渋へその刃先を向けるというのは、尋常ではない。
「お嬢ちゃん!そうそう、あんただ。」
床に顔を押し付けられた詭月納は、醜い顔で言う。
「坤斧が戦死し、もう壘家はお終いよ。嬢ちゃんが婆さんを半端に助けてるせいで、坦陸の民がこれから酷い目に遭うんだぜ。早く気づきな。」
「あっ。皆んな口を押さえてっ。」
壘魍は金切声を上げたが、間に合わなかった。
詭月納の口から鮮血が流れ出た。舌先を噛み切ったのである。馬乗りになっていた者たちが慌てて、詭月納の口に手を突っ込んでいる。
回廊の外を眺めれば、小雨がまだ煙っている。
幼い壘魍の心に、裏切り者の言葉は重く響いた。今の心境で、祖母の顔は見れない。
大騒ぎの中講堂、右往左往する大人達越しに、止まない雨を呆然と見つめるのみであった。
雨の向こう、十黄旗塔が孤独に立ち尽くし、力なく黄地の旗をぶら下げているのが、うっすらとうかがえた。




