其ノ六 ― 闇夜、坦陸に危懼す
眞暦1807年4月。
美獣の外交官である奉忙が都州帝城に参内し、妖天から壘渋征伐の勅を拝領して、美獣は再び穣河を渡った。
今度の渡河は前年とは異なり、穣南の地を征服する為の出兵である。
再び大渤帝国の援軍と秦州軍を糾合した三国連合軍は、号して12万。すなわち坦陸に攻め寄せた。
迎え撃つ壘渋は、堪比巷等の支城を放棄し、坦陸に籠城した。
以下は、籠城開始から10日程経過した、坦陸城内の一点景である。
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坤斧の小さな声もよく聞こえる。
「出撃っ」
夜陰、大城市の中で不思議なほど静かだった黒い軍団、その数1000。
坤斧の一声で、ととと、とこれまた静かに動き出した。しかし速い。
(ふう。しかし我ながら、良い馬たちだ。そしてまた、坤斧様に使われるなら、本望であろう。)
馬に枚を含ませた黒色の騎馬隊は、篝火一つ無い坦陸の街なかを、静かに走っていく。
墻西も息が乱れるのを必死に堪えながら、足音を立てぬよう気を付けて歩き、坤斧率いる騎馬隊の勇壮な後ろ姿を見送った。
400m先、騎馬隊は城外に駆け出し、正門である坦下門が閉まるのがおぼろげに見える。月も星もない曇った春の夜、坦陸からならどこからでも見えるはずの十黄旗塔も、さすがに見定めることは出来なかった。
「間に合ってよかったな。」
隣を歩く先輩の訴模比がつぶやく。
「本当に。」
手巾を貸してやると、訴模比は遠慮せず額の汗を拭いた。4月になって夜の気温も少し緩み、走り回ればすぐに汗が出る。
「坦下門まで、歩きましょう。」
追加で将校用の変え馬を届けたが、間に合って良かった。戦時下の夜の坦陸を歩けるのは、壘家直属の厩舎兵だからだ。春の夜道で汗をひかせる。
「急でしたね。」
「ああ。まあ… 。こういうのはな。そういうもんだ。」
戒厳令下の本拠地でも、言葉に慎重である。この坦陸にも因州方の諜者が入り込んでおり、事実1人、見せしめに殺された。一昨日のことだ。そうでなくても奇襲作戦の進行中だから、誰かに聞かれるのを恐れ、訴模比が言葉を控えるのは当然である。
墻西もつい、愚痴が出そうになるのを我慢する。
軍厩舎で宿直していた2人は夜半起こされ、奇襲部隊の不足する騎馬を工面した。気性が荒く軍務から外していた馬や、いつもなら準備に時間がかかる馬なども動員した。当然、馬たちも最初は機嫌が悪く、何度か蹴飛ばされた。しかしそこは熟練の厩舎兵、2人してなだめてすかして、最後の最後、変え馬まで何とか整えたのである。
だが墻西としては、ぐっすり眠っていた所を、急に起きて動き回ったので身体中がだるい。
ふと、ガランとなった厩舎を思い出した。
いや、坤斧隊が全ての馬に乗っていった訳ではない。病気やケガ、体調の悪い馬は残っている。ただ逆に言えば、主力の馬はほぼ出払ったと思って良い。ふと胸に当てた手が服の上から、いざという時に馬に与える安楽死用の劇薬に触れた。
ぐちぐちと墻西は思いを巡らせているが、此度の奇襲を発案した坤斧が嫌いな訳でもない。壘渋の家中や組織、領民の多くが、穣界にその武勇が鳴り響く「一字閃」坤斧を英雄視しており、それは墻西も同じである。
(嫌いなどころか、一字閃将軍がいなかったら、この坡東の豪族はもう、もたんぞ。)
眉間に皺を寄せている墻西の顔を覗き込んで、訴模比が心配した。
「どうした墻西。眠いか。」
「いや。美獣は皺馬丘におるらしいですが、敵いましょうか。」
坤斧将軍は。と、その名を口に出すのを一瞬ためらった。
訴模比は、うーん、と唸る。
「坤斧様でも大変じゃろ。渤因連合め、10万は下らんらしいしな。」
「そこを坤斧様はあえて行ったわけですね。」
「ま、去年の降伏が悔しかったんじゃろうけど。将軍に何かあったら壘家は終わりなんだから、大事にしてほしい。」
やはり訴模比も同じことを考えている。
「もし城門を破られてみろ。この坦陸が略奪の巷になるんだ。俺らの家族も犯され、殺され、連れ去られるぞ。」
「ぐ。」
若い妻と乳飲み子の顔が浮かび、墻西は鉛でも飲み込んだような気になった。戦争とは負ければそういうものだが、いざ先輩からそう言われると絶望的になる。咄嗟に胸の劇薬を、触った。
「だ、大事にしてほしいですね。坤斧将軍。」
顔は真っ青だが、この深夜では分からない筈だ。それでも訴模比は察したらしい。踏んだ小石がジャリッと音を出し、静かな深夜の街路に意外に大きな音を響かせたが、その為か、少し足の歩みがゆっくり、慎重になった。
「すまん。しかし現実だ。家族といざという時の打合せをしておけ。俺は何をされても生きろ、と言ってある。奴隷に落ちても。そして自動的に離婚となり、その後は互いにそれぞれ好きに生きる、とな。」
「なんと。それで奥さんはなんと言ってますか。」
いつしか道の左右にゴテゴテした看板が並びはじめた。
服飾問屋街である。豪壮な店構えが並び、普段なら穣界中から商人が買付に集まって大にぎわいだが、今は夜中なので当然誰もおらず、店の灯も消え、闇に沈んでいる。いや、坦陸の城市まるごと籠城戦中なのだから、現在は昼でも人影がまばらだが。
訴模比の声はしゃがれていた。
「カミさんか?なるべく階級の高い武将に襲われるようにして、上手いこと妾に収まるってよ。子供はまだ小さいから食べ物と一緒に地下に置いておき、時が来たら迎えに行くんだと。まあ、俺の方は厩舎兵とはいえ、一応戦闘して死ぬだろうけどな。」
「随分… 。具体的というか、現実的な計画ですね。」
だが、墻西は地下室には魅力を感じた。今日は帰宅したらこのまま寝ずに、地下を掘ろう。
訴模比がまた顔を覗き込む。墻西が思い詰めていると思ったか、声を一層低めて、色々言い始めた。
「そうだったな墻西、お前の家はまだ生まれたばかりだったな。だが、そんなに思い詰めるな。美獣の奴、10日間ぶっ通しで徹夜の戒厳状態だったからな。今夜は警戒が弛緩した、という間諜の報告があったらしい。だから『一字閃』将軍の夜襲は成功するかもしれんぞ。」
「渤因の前線は『方鬼娘』|困士甜ですよね。あの女が警戒を緩めることなんてあるんですかね。いや、それよりも。」
墻西は眉間に皺を寄せながら、口を尖らせる。
折角、訴模比が気にしてくれたが、いま墻西が思い詰めているのは、もう家族のことではない。家族はとにかく地下室だ、と考えをまとめ、そっちは少し気が楽になり、思考は次に行っている。それは、そもそもの穣界の現状であり、彼らが仕える坡州東部の独立豪族、壘渋のことであり、家族という小単位から大戦略論へ、意識は急に飛躍していた。
この、眞暦1807年4月時点で… 何故?
「模比さん。そもそも何故、我が壘家は、こんなに孤立したんでしょうか。」
興奮しているが、さすがに声はかすかに聞き取れる程度にした。
それでも、訴模比はびくっと肩を揺すった。
構わず墻西は続ける。
「坡州王の培梅は、遜州王逓操を引き込んだ。ちゃんとした軍事同盟らしいですね。そして美獣は渤方だけでなく、秦州と定州を抑えとる。その一方でウチは、せいぜい尼竺さんくらい… 。」
声量は最小限に抑えていたが、それでも興奮していたのだろう、いつしか2人は坦下門に差し掛かっていたが、気付くのが遅れた。墻西は慌てて話を止める。
4人の門衛が2人を見て、同時に敬礼した。
ザッ、と一糸乱れず揃っていて、このような所にも「一字閃」坤斧の軍律が行き届いている。そこに感情は見えなかったが、班長と思しき1人がにわかに顔を曇らせて、熱っぽく問いかけてきた。
「変え馬が間に合って良かったです。将軍に何かあったら、私は… 」
墻西の言葉が、門衛に聞かれたかどうかは分からない。だが、この門衛も墻西と同じ気持ちなんだ、と思う。
訴模比が、閉じられた坦下門に触れている。
「ご武運を。」
小さな声だが、城外に出て行った可愛い馬と、将軍たち夜襲隊へ向けた言葉であろう。
墻西はふと、夜の闇に沈んだ城市へ目を向け、その方角は若妻と赤ん坊の眠る我が家に向いていた。
そして。横に立っている、規律正しい門衛たちもまた、坦陸の街を見ているのである。
(気になるわな。)
曇天の闇夜に坦陸の市街、いよいよ黒く、ズラリと並ぶ甍が何か魔物の群れに見え、墻西は再び暗澹たる物思いに沈んだ。
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1807年4月27日夜陰、坦陸の柱石たる「一字閃」坤斧は連合軍へ夜襲を仕掛けた。だがこれは、美獣軍の困士甜に迎撃され、夜襲隊は壊滅した。
坤斧将軍は行方不明、坪蓋往・坪欽の二人が討ち死にする等、壘渋軍にとっては致命的な敗戦であった。
墻西が抱いていた悪い予感は的中したのである。
眞暦1807年4月(連合軍渡河前)時点 穣界勢力図




