第七話
戦いは終わりに近づいている。
(ふふ。褐剣髯め、やりおった。)
揆朋楓は、断続的に聞こえる悲鳴を耳に流しながら、昨晩からのことを思い返す。
(たった500で、12万の美獣を、号炸を破った。そして壘渋のお人好しに突け込んで、坦陸を獲ってしまったんだわ。)
4時45分。
腰に手を置き、その拍子にぶら下げている橙色の鞭が弾力ある尻に当たって何度か跳ねる。そのまま揆朋楓は、殺戮の現場で物思いに沈み、城主府の庭園から、白みだした早暁の空を見あげていた。
彼女のすぐ上、城主府大回廊の甍の上に、人影がある。小柄で150cmくらいだろうか、膝を抱いてちんまり座り、早暁の薄明かりでは誰も気づくまい。
(まさか、あいつらがここまでやるなんてなあ。)
壘家の諜者、辰留躊である。
いよいよその頬はこけていた。急速に衰退していく主家の為に影働きをしてきたが、諜報方の人手不足で激務が続いていたのである。
(大したもんだ。)
事が成った場合、謫徒は塊協半たちを壘家の家中に厚く迎えようと計画し、辰留躊はそれに立腹した。野盗ずれを幕僚に就ける節操の無さが信じられなかったし、またそのように激したのは辰留躊が主家を愛する故である。
眼前でその野盗ずれが裏切って、主家に引導を渡している。しかし、辰留躊にはこの賊徒に対する怒りが湧かず、むしろ感嘆していた。壘家は坤斧という優れた武将のおかげで、坡州東部に数年ほど勢力を張れただけの地方豪族だ。12万の巨大な穣北連合の前ではいずれにしても淘汰されていた筈であり、それこそ野盗に立腹するのは筋違いだ。この斐界に生きる者として今考えるべきなのは、壘家の興亡ではない。その野盗の群れが12万の連合軍に勝ってしまった、という事実の方である。
(すごい奴がいたもんだ。)
塢宜で塊協半に面会できたのが今、誇らしくすらある。
辰留躊は、甍の上から愛した主家の滅亡を眺めている。
彼は諜者だ。足元の邸内で野盗による殺戮が行われ、棟梁の壘渋や閣僚の塲岺が死んだことも知っている。延業禦が壘魍とともに城から脱出できたことも把握している。
以前の忠誠心からすれば、壘魍に合流して壘家の血筋を守ろうとしただろう。
だがそれも小さなことに思えた。この乱世に、名将壘洗将軍の末裔という血統にどれ程意味があろうか。以前は壘家に対する義理もあったが、この籠城に入ってからはほぼ無給で滅私奉公しており、十二分に果たしたろう。
「ならば」
辰留躊は甍の上に立ち上がった。
「ならばこの城を去ろう。」
はっきりと発声したが、眼下の揆朋楓には聞こえなかったようである。いや、彼女が聞きとがめて振り返ったとしても、辰留躊はそこにいなかった筈である。
己れの進む道を決めた諜者は、甍の上を跳ぶように走っている。
薄明かりが空に広がっていき、西方に坦陸の象徴たる十黄旗塔の輪郭も黒く浮き出ていたが、辰留躊は感傷に浸るでもなく、彼が愛した巨城の朝の風景を一瞥したのみで、さっさと姿を消していた。
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「へえ、戦は勝ったんだねえ。」
辰留躊よりも、もう一回り身体は小さいか。丸顔に笑顔を浮かべ、身体に合った小さな馬の上に揺られている一人の若い女がある。
隣の大馬に乗る巨躯の男は土考である。
「おう。勝ったぞ、昱右。」
女は昱右だった。
愛嬌ある丸顔だが、その目は鋭く吊り上がり、倍もあろうかという巨体を誇る猛将・土考は、彼女の視線に射竦められて思わず仰け反った。
「な、何で睨む?」
「あんたら、まさか坦陸で略奪しなかっただろうね?」
昱右の言葉が錐のように土考の胸を刺す。
「そりゃ、大丈夫な筈だ。」
「あんたは知らないか。址細径方面の担当だものね。いいよ、揆朋楓に直接聞くから。」
4時50分。
二人が轡を並べて進むのは、皺馬丘の南西。5時間程前に塊協半軍が渤因の主力を撃破した地帯であり、二人の馬は渤因兵の骸を避けて蹄を進めている。早朝の光明は薄く、馬は歩きにくそうだが、二人の声は弾んでいた。
「今、揆朋楓が城を制圧し終えている頃だ。確かにあいつに直接聞くのがいいだろう。」
「そうさせてもらうよ。土考、あんた今、ほっ、と一息ついてないでしょうね。」
歴史的な夜襲を成功させたばかりの当事者に対し、またも昱右の言葉は無慈悲な程に鋭い。
「あたしらが大事なのはここからなんだからね。」
「おうよ。分かってら。」
土考は白い歯を見せた。無愛想なこの盗賊には珍しい笑顔だ。彼にとっては、昱右の言葉は無慈悲でも何でもなく、同意の言だったようで、にこやかに返した。
「民衆の為の政をやってくれ。」
夜が明け始めた。
暁の中、荒野の向こうに巨城坦陸がその姿を表す。途端に二人は示し合わせたように、馬の尻に鞭打って早駆けした。




