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東狩獲城  〜『斐界群史』詳伝  作者: 適当館 剛
第六章  夜行址細径
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第四話

 1時40分。

 水面に三日月の月光を(きら)めかせた大河が、眼前に横たわっている。

「墳上河に、ございます。」

 美扼温はゆったりと美獣に告げた。

 横では巴雷麝絞冤が喜色満面、(すす)だらけの真っ黒な顔をくしゃくしゃにして、

「やった。州王、これで助かりましたよ!」

 ぴょんぴょんと喜びの舞を踊っている。美扼温の垂れた眼はにっこりと笑っているが、

「うふふ。まだまだ分かりませんよ、麝絞冤。今背中を襲われたら川に追い落とされ、全滅です。」

「うぐ」

 その一言はひどく現実的で巴雷麝絞冤は思わず声を飲んだ。しかし少女はめげず、

「でもでも、川にはこんなにたくさんの舟が準備して、向こう岸に運んでくれてるじゃないですか!」

 川面を指さした。

 確かに墳上河には無数の舟が浮き、止め()なく往復して、兵士達を輸送している。

 と、そこへ鈴の鳴るような声がした。

「巴雷麝絞冤の言う通りだ。美扼温、いたいけな少女をいじめるもんじゃない。」

 美萊峩だった。

 笑顔は煤だらけ、自慢の青外套は焼け千切れているが、「青光麗弟」はそれでも落武者には見えぬから不思議である。

「ふふ。でもね、麗弟様も肌身に感じたでしょうけど、謎の賊軍はなかなか手強(てごわ)そうよ。」

「ああ、隊長格と一騎討ちしたよ。」

「え!」

 これに巴雷麝絞冤が反応し、美獣も眼を見開いた。

「ぶっ殺してやったんですか?」

 美萊峩は今しがた気にかけてやった巴雷麝絞冤に背中を向け、兄の美獣に正対した。

「粗末な形をした狐目の豪傑でした。恐らく今の穣界で最強でしょう。十数合斬り結びましたが、あのまま戦ったら私はやられていました。」

「そんな、麗弟様でも?嗷号よりも強いんですか」

「坤斧よりも、か?」

 巴雷麝絞冤にかぶせるように美獣が聞いた。

「はい。恐らく。」

 美萊峩は躊躇(ためら)わず即答した。

 美獣の表情に複雑な影がさした。


 強敵の登場は今後の事業にとって障害となり、当然望ましくはないから、美獣の眉間には幾本もの皺が寄っている。だが、美萊峩の見間違いかもしれないが、兄の口には微笑が浮かんでいた。

 武勇の士自体が重要なのではない。それ程の者を召抱えている頭目こそ、只者ではないだろう。この豪胆な夜襲を計画し、成功させた者。

(兄上は強敵の登場が嬉しいのだ。)

 だがそれは一瞬だった。次の瞬間に美獣は口をキッと結び、少し遅れて川に着いた渤軍を振り返り、

「美扼温、この渤軍を一兵たりとも損なわずに渡してさしあげろ。そして」

 名鐘の如き声で言い放った。


「秦州の残軍が着く前に全ての船を庇州側に乗り捨て、我らを追え!」


――――――――――――――――――――


 1時50分。


 秦州軍はだらだらと址細径を歩いている。謎の奇襲団に背中を斬られ、或る者は傷口を手で抑え、或る者は足を引き摺り、生き残った兵卒達は何かしら負傷していて歩みが遅い。ただでさえ、2名程度しか横に並べない隘路である。そして、輜重はだいぶ赤處山に捨ててきたものの、これからの逃避行に備えて多少は牽いてきており、これがまた行軍を遅滞させていた。


(すまぬ、和群乏)

 秦州龍牙代・税命は唇を噛みしめながら、歩いている。先程西方から上がった喚声は、和群乏の殿軍が壊滅したことを示しているのであろう。彼は若き龍牙府副参謀の戦死を思い、自責の念に駆られていた。


 頭上でざっ、と気配がした。仰ぎ見ると黒い影が崖上に並んでいた。


「うわああっ。」


 人の頭大の石や、松明が無数に降ってきた。

 立錐の余地なく渋滞する、崖下の隘路である。

 蛇尾の如く伸びきった秦州軍は、突如現れた影の軍団にとっては動かない的でしかない。輜重に松明が延焼し、火の手が上がる。馬たちが怯え、竿立ちになる。


 その直後、崖上の軍団はまたざっと音を立てた。


「火矢だっ。」


 税命のそんな叫びはむなしく、秦州兵たちの悲鳴に掻き消された。


 夜空はにわかに昼間の如く、飛来する数多の火矢で明るくなり、小径は引火した兵たちであふれた。死地にあって秦州の大軍はなすすべなく、ばたばたと数を減らしていく。


 址細径の先、東方には渤因の敗軍がまだ詰まっているのだろうか。

 そして址細径の入口、西方ではまだ和群乏たちが謎の夜襲軍と戦っているだろうか。

 もはや前後のことは何も分からぬ。ただ阿鼻叫喚の隘路を進むしかなかった。



 美扼温の斉射を受けた土考隊は、再び士気を高めている。

「渤軍は地峡を通り抜けたから、今度は秦州軍ですな。」

 閂滔登は華奢な短躯を乗り出して、目も眩むばかりの崖下を覗き、言った。

「あぶねえぞ、閂滔登。落ちるぜ。」

 そう言う土考は巨躯を乗り出し、足元の土塊が崩れてバラバラと崖を落ちゆくのも構わず、弦を絞ってヒョウ、と射る。


「ぐあっ」

 土考の矢は過たず、崖下を行く秦州王・穂泉煎の右大腿を射抜いた。堪らず穂泉煎は仰向けにひっくり返る。土考は閂滔登に対して、いたずらっぽく右眼を瞑って見せた。


「あっ、ずるい!わしも!」

 土考に抜け駆けされた閂滔登もまた、転落しそうな程崖に身を乗り出して強弓を射た。


 秦州兵が慌てて穂泉煎に駆け寄るが、それより先に閂滔登の二の矢が襲い、再び右脚、今度は脛当てを貫通し、突き立った。

「ぎゃっ」

 穂泉煎はまた叫んだが、この時既に、火矢の雨が秦州軍の頭上に降り注ぎ、火炎に満ちた谷は騒然としていたから、州王の小さな叫び声は完全に掻き消された。駆けつけた雑兵がぼろ布を裂いて穂泉煎の傷を応急処置している。


「気持ちいいぜ。」

「気持ちいいな。」

 土考と閂滔登は同時に呟くと、顔を見合わせ、また同時に右眼を瞑った。


――――――――――――――――――――


 2時。


 長らく戒厳令が布かれてきた坦陸の城市が、今は深夜でありながらも騒々しい。


「急げ急げ!義軍が機嫌を損ねたら俺の面目が丸潰れなんだぞ!」

 謫徒は艶かしい唇をいつもより紅く染め、真っ白な歯を剥き出して怒鳴り散らしている。

「ひぃっ。すみません。」

「急ぎます。そりゃもう、最速で。」

 訳も分からず、ただ怒られるのが嫌な下吏どもがそこら中を走り回り、手に手に持った紙幕を壁という壁に貼りつける。喚声、足音、紙が舞い、平手が壁面に打ちつけられる音。籠城中の街もこれでは(やかま)しい筈である。


 そして、謫徒の計画も円滑ではない。彼は今、坦帖西路に立っている。

「何故、坦帖西路が薄い?東路にはもっと貼ってあったぞっ」

 ろくな指示も出してないから、早く仕事を終わらせたい下吏達は加減もせず、最初に回った坦帖東路にたくさん貼りつけてしまったのだ。

「阿呆か。義軍は坦帖東路も西路も通るのだ。どっちも通るのだ。貼れっ、西路にも貼れえ!」

 ひええっ、と下吏達は、謫徒の余りの剣幕に震え上がり、脱兎の如く城主府に走って、紙幕の在庫を取りに帰った。


 薄い、と言われた坦帖西路にはしかし、壁面にびっしりと紙幕が貼りつけられていた。「義軍歓迎」と殴り書きされ、殆どがひん曲がって貼られ、いかにも急拵(きゅうごしら)えな「歓迎」ぶりが伝わってくる。


 謫徒は紅い唇をへの字に曲げていたが、

「さて城主府の饗膳は整ったか?」

 と言うなり、坦帖西路を北に駆けていった。


――――――――――――――――――――


 墳上河の河畔に、渤軍が続々と着いていた。火事場から焼け出されているかのように、址細径の出口から転び出てくる。

 美扼温はゆったりと川沿いを歩きながら、そんな渤兵に「大変でした」と優しい声をかけて回り、舟に誘っていく。

 彼女は1人の武将が谷口から出てくるのを見つけ、

「これは渤龍牙!」

 と、駆け寄った。 

 甲冑を着込んでいても分かる細くしなやかな肢体、煤だらけになった顔でも篝火に照らされてかえって目立つ、すっと通った鼻筋。

 大渤帝国の若き龍牙、号炸蹉蹉であった。

「お待ちしておりました!」

 美扼温は満面の笑みを向けたが、号炸蹉蹉はまったく落武者のていで、真っ黒な顔面を渋くしかめた。

「情けない。賊軍に背中を襲われ、このざまだ。因州王に何の力添えも出来なんだ。」

 憔悴して気弱な発言ばかりだが、しかしさすが醸し出す威厳は、美扼温の背筋を伸ばさせるに十分である。

「とんでもございません。ここまで優位に攻城戦を展開できましたのも貴国の合力あってのこと。美獣からも、貴軍を一兵たりとも損じずに大渤帝国へ送り届けるよう、重々申しつかっております。」

 美扼温はそう言って号炸蹉蹉の手をとると、自ら船縁まで引っ張って行き、

「もう大丈夫です。どうか御国で捲土重来(けんどちょうらい)を期してください。」

 垂れた眼で優しい笑顔を振りまいた。

「ありがたい。どうか扼温殿もお気をつけて。」

 号炸蹉蹉の顔色は黒灰でよく分からないが、煤の下にその若い頬が赤らんでるのが、美扼温には分かった。


 号炸蹉蹉は船上の人となり、墳上河を渡っていく。


――――――――――――――――――――


 塊協半の一団は、坦陸城目指して深夜の坦蔵平原を行軍しており、

「へっへ。殺殺。」

 堕叉等は、残酷な微笑を馬上に浮かべている。


 三日月は煌々、この坡州東部の戦場を、無惨に照らし出す。

 堕叉の馬が、連合軍兵士の遺体を馬蹄で踏みつけて通り、後に続く荒くれどもが蹴飛ばしていく。


 三日月は残酷な結末を喜ぶように、あくまで明るい。

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