第弐話
谷奥から迫る整然とした足音はひどく高速で、間も無く美獣の元へ到達する。
「最早これまで」
観念した美獣の前に巴雷麝絞冤が幼い両手を目一杯広げ、来たる敵の鋭鋒から主君を守らんとし、
「州王、まだ諦めてはいけません!」
毛皮の長靴で強く足元を踏みしめた。
1時10分。
谷底を巻く炎に照らされ、前方から来る旗幟が鮮明になっていく。
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崖上の土考は舌打ちした。
「糞。獲れなかったか。」
「もう一度、斉射できないか?」
閂滔登が問う。運程跌が脇にいて、崖下を覗き込み、夜目を効かしている。
「姐姐、間に合っちまったな。」
土考はその細い狐目に殺気を血走らせた。
「や。『扼温』?」
「え?美扼温姐姐ですか?」
美獣、巴雷麝絞冤の主従が、じりじりと火熱を鎧に感じながら、旗幟を読んでいた。
足音はあっという間に屈強の兵士として具現化し、彼等は手に手に持った木桶で水をぶちまけた。美獣たちはずぶ濡れとなり、隊長格が絶叫した。
「州王御無事、確認!」
崖上の土考が叫んだのは、それとほぼ同時であった。
「三歩後退!」
その時には美扼温がいつものようにおっとりとした振る舞いで美獣に歩み寄り、華奢な白い手を差し伸べて、地に伏している主君を助け起こしていたが、穏やかな垂れ眼の奥に灯る光は、猛将のそれであった。
「上空斉射ーぁぁ」
いつの間にか美扼温隊は火炎渦巻く地峡深くへ展開し、全員が強弓を仰角に引き絞っており、美扼温の歌うように伸びやかな高音の号令と同時に、弦を解き放った。
火の谷底から、急角度で発射された矢は無数の小竜の如く空間をつん裂き、崖上の賊軍を襲った。
「あぶねえ!」
土考の後退命令に全員が反応できた訳ではない。美扼温の上空斉射は神速だったから致し方なく、何人もの豪傑どもが谷底からの矢に射抜かれた。
土考隊は負傷者を手早く助け起こしたが、僅かなその時間に、
「あっ。奴ら、もういない。」
美扼温隊は音もなく、谷底から消え去っていた。置いていかれた何頭もの馬が火炎の間に悲しげにいなないている。閂滔登は地団駄踏んで悔しがった。
「ふん。」
対して、土考は笑っている。
「悪運の強い王様だ。」
「墳上河の渡しまで追わないか。」
「いや。」
閂滔登は一度は手中にした美獣の命を諦めきれないようだったが、土考はただ笑っている。
「美扼温に抜かりはあるまい。我らは寡兵、下に降りたら負ける。惜しいがな。」
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1時20分。
「あっはは!ほらほら坤斧様だよ、お前らの大嫌いな『一字閃』坤斧様の御出ましだよ」
ボロボロの革鎧を返り血に染め、戦場で大笑いする土哭は馬上から鈍ら刀を振り下ろす。ひいいー、と連合軍の兵士たちは悲鳴をあげ、豪奢な飾り兜を叩き割られて絶命した。
「しかし弱ええな。」
「こいつらは秦州軍だよ。弱くて当然さ。」
そこへ揆朋楓が馬を並べた。
「この負け戦じゃ穣界最強と言われた因州軍でさえあのザマだ。ましてや穂泉煎の秦州軍じゃあねえ。それよりあんた、『青光麗弟』と渡りあったらしいじゃないか。」
「そうなんだよ。美獣をぶち殺そうと思ったのによ。」
揆朋楓の称賛に対して、土哭は悔恨の体で眉根を寄せ、その狐目を吊り上げた。
「弟の方だったんだ。戦って損した。」
「はっは!大したもんだねえ。あの兄にして、この弟ありか。」
そうこう話す間にも土哭の鈍ら刀と揆朋楓の鞭は回転し、唸りをあげ、二人の後に屍山血河が築かれていく。
「なに?どっちの兄弟の話だ。」
「どっちもだよ。美獣・美萊峩兄弟も、土考・土哭兄弟も。大したもんだ。」
「へん。見てろよ。因州王家の貴公子兄弟と坡州塡保の破落戸兄弟と、どっちが強いか、いずれはっきりさせてやるわ!」
土哭は真っ赤に口を開き、眼前の隊長格と思しき秦州軍の武将に喚きかかっていった。
址細径の入口付近。
秦州軍の多くが渋滞で地峡に入れず、愚図愚図していた。
「穂泉煎様や税命様は無事落ちのびられたであろうか。」
秦州軍の将、和群乏はそのふっくらした頬を血だらけにして、馬上に槍を振るっている。
彼は殿軍を引き受け、謎の奇襲団の猛攻を受けていた。秦州の軍兵は風の前の塵の如くその命を吹き飛ばされ、無惨に身を散らしていく。彼の穏やかな眼差しも、今はさすがに決死の凄絶な色彩を帯びていた。
彼の耳に死神のような喚き声が聞こえた。
「さあさあ!お前らの大嫌いな『一字閃』坤斧様だよぉ」
眼前に現れた騎馬の大兵が放っている言葉だ。坤斧とは似ても似つかない、貧弱な装備で下卑た賊兵なのは一目瞭然だが、いや、坤斧よりも恐ろしい武将であるのが、和群乏の本能が告げていた。その狐目の大兵が鈍ら刀を振り下ろし、和群乏は鉄剣でガッキと受け止めたが、その筋骨隆々とした双腕からのしかかってくる余りの圧力で、鞍上に押し潰されそうになった。すぐ脇の兵卒に対し、早口でまくしたてた。
「穂泉煎様、税命様に伝えよ。我が殿軍大敗、敵数200程度なれど精強なり。址細径とその周辺の杣道を伝い、早々にお味方を襲撃せん。杣道へ展開せる数は不明。壘渋でも、培梅でもなく、所属不明!」
兵卒が東に走り出すのと同時に、和群乏は鈍ら刀に両断された。頭を割られる刹那、
―ご苦労―
困士甜の言葉を思い出して、微笑みを浮かべながら戦死した。
塊案は幅広の鼻を膨らませ、ひぃひぃと息を切らしている。
「た、助けてくれ」
いつの間にか兄塊協半の本隊からはぐれ、敗走している筈の秦州兵3人に取り囲まれていた。
「この通りだ」
土下座し、黄土に額を擦りつけ、命乞いをする。兵卒らは血だらけの顔を顰め、
「糞、何と下賎な賊兵か。秦渤因の大連合軍が何故かような賊徒に追われねばならんのだ。」
心底残念そうである。
「どうせこの先の址細径は抜けられまい。せめて敵を討ち取ってから死にたい。」
「そうだな。賊に一太刀だけでも報いよう。」
「こんな奴だけどな。」
3人はそう言って刀を振り上げた。塊案は頭を手で覆い、
「な、何だよ。美獣の腰巾着どもめ!ああ、金をかき集めたかった。女を抱きたかった!」
などと叫び、俯いてきつく目を閉じた。
直後。
打撃音と人の倒れる音がそれぞれ3つして、ものの数秒で辺りは静かになった。
(誰かが助けてくれたな。)
打って変わって今度は薄笑みを浮かべ、塊案はゆっくり頭をもたげる。
「ん?螂廈か?」
小さな身体である。暗闇で分かりにくいが、
「そうよ。大丈夫だったかい?」
声を聞けば確かに螂廈だった。
目をつぶってたから分からないが、一瞬にしてどうやって3人も倒したのか、この小さな身体で見事なものだ。すぐ脇には的確に喉笛を掻っ切られた秦州兵3人が、いずれもどす黒い舌を出して絶命し、転がっていた。
塊案は膝を払いながら立ちあがり、
「ああ、大丈夫だ。」
と、だらし無い腹を突き出して見せた。
「すまんな。お前の活躍は兄者によく言っておくよ。」
そして螂廈の頭を無遠慮に撫でくり回し、本隊はあっちかな?と呟いて、口笛吹き吹き歩いていく。
螂廈はそんな塊案の背中を見送っているが、広い額の真ん中に皺を寄せて地面に唾を吐いた。




