第八話
24時20分。
土考、閂滔登率いる200が、址細径の崖上に到着した。三日月の下、足元の切り立った断崖を皆見下ろしている。
「そうさな。この隘路で火矢の雨を受けたら、全滅とはいかぬまでも焼死は万を超えるだろうよ。」
閂滔登はニヤニヤ笑う。下がった目尻を更に下げ、灰色がかった瞳を酷く残虐に光らせる。
「ああ。」
土考は、筋肉で鎧われた太い首で振り向く。そこには夥しい数の矢と灯油が積まれている。
「皆殺しは無理にしても、万は焼きてえな。」
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24時25分。
「秦州も連合軍の端くれだろう!退き際こそ美しく、慌てず、粛々と撤退せられいっ。」
啓潔は、赤鋲打ち白銀の鉄製甲冑を三日月に鈍く光らせながら、声を張り上げる。
相手は州王穂泉煎が率いる秦州軍である。ひどく混乱している。
それは致し方ない。
圧倒的有利な12万の連合軍が突如焼け出され、自分たちはその撤退戦に乗り遅れたのだから、取り乱して当然である。
しかし哀れな秦州軍を見る啓潔の棗型の眼は、極北の氷の如く冷たかった。
(國朶鎮でも坦陸でも啓家の評判を下げよって)
そして唇を噛む。
因州王美家の譜代家臣の中でも啓家は、喋家や斐家、巴雷家等と並ぶ家格を誇る名家である。
しかし昨年の9月、國朶鎮攻城戦で、龍牙経験者である当主、啓殉覚が討死し、その際脇に付いていた弟の啓懲鞍が姉の屍を置いて逃亡した。啓潔は啓殉覚の長男であり、啓懲鞍は彼にとって伯父にあたる。
その啓懲鞍が、今度は大敗の因となり、無様に戦死したのだ。
啓潔は、王弟の美萊峩と同年であり、明日の因州を背負う期待の武将であって、普段は温和で冷静沈着、取り乱した所など誰も見たことが無かった。
しかし、今。
「ええい!何と見苦しい行軍か、生き恥を晒し、穣北武士の気概は無いのか!」
と喚いている。若き貴公子は、家の不名誉に耐えきれず、腹いせに秦州軍の撤退行を妨害しているのだ。
「止まり給え、今一度整列し直しだ。」
整然たる撤退等不要、我先に落ちねば、背後から迫り来る謎の軍団に屠られてしまう。
啓潔は秦州軍を暫く邪魔し、そろそろ不審に思った税命あたりが中軍から馬を飛ばしてくるな、と踏んで、
「付き合ってられんわ!」
と一言吐き捨てて、馬の尻を打ち打ち東へ駆け去った。
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「ん?」
運程跌は夜目を利かせた。
「本軍の急が伝わったか?」
24時30分。
彼は址細径の崖上にいた。地峡の東方で、昼なれば北流する大河、墳上河も望める位置だから、坦蔵平原から見れば址細径の出口に近い。
美獣は万一の備えとして、この「出口」付近に一族の美扼温を配置し、彼女が墳上河に舟を並べて遅怠なく川沿いに展開しているのを、運程跌は今夕、堕叉とともに確認している。
そして今。川沿いの陣地で急速に篝火が灯り、その内の多数が一糸乱れず動き始め、二列の筋となって址細径に吸い込まれていく。
篝火に照らされ、『扼温』と染め抜かれた旗幟が続々と地峡を西進し始めたのだ。
「否。回酩が死に、連合軍の諜報は今、一時的に麻痺しているから、1時間前の皺馬丘炎上は伝わってない筈だ。」
運程跌は後方を振り返った。崖上の灌木がおどろおどろしく梢を月夜に浮かばせているだけである。
「河畔からは、山の炎で空が染まるのが見えたのかもしれぬ。しかし」
明朝、楽勝確定の総攻撃を控えて寝静まっている大軍の、しかも後詰部隊で、己れの勘のみを根拠に自隊を叩き起こし、深夜の死地に踊り込んでいく。
「大したもんだ、扼温姐姐。」
運程跌は独り賞賛した後、小さく舌打ちをして、崖上を西に駆ける。
崖下を1、2列で進む美扼温の行軍は、夜陰とは思えぬ程、速い。




