第七話
23時50分。
壘魍は東城壁の上から見える驚愕の風景を見ている。火の山と化した皺馬丘、そしてその炎熱に背中を焦がされながら、這う這うの態で東へ逃げ落ちる12万の敵軍。
「お話ししていた『褐剣髯』塊協半が奇襲に成功しました。ほれほれ、この通り美獣も号炸蹉蹉も敗走しております。」
(どこに2万の援軍がいるのよ。数百程度じゃない。)
壘魍は心中に悪態をついた。だが今は野盗どもの人数等どうでもいい。いや、少人数ならばこそ偉大であろう。賤むべき賊が成し遂げた偉業を目の当たりにして、幼い壘魍は目眩をおぼえている。
そして、
「塊協半一党を城内に招待し、祝宴で迎えようと思います。」
「野盗に祝宴を?」
謫徒の一言で危うく卒倒しかけたが、背後に控える延業禦がそっと壘魍の背中を支える。壘魍は落ちそうになった紅い螺鈿の髪飾りに手を添えつつ、気を取り直して反対しようとしたが、
「我らの恩人ですよ、魍。人の道として当たり前でしょう。」
と壘渋に嗜められて、黙った。
(お祖母様。これだけの夜襲を成功させた軍団、ただの盗賊ではない。この城を連合軍ではなく賊軍に盗られるだけだわ!)
壘魍の心の叫びはしかし、深く結びつく眼前の主従には到底届かない。
「壘渋様、安心しました。塊協半に何の労いも無しですと、私の面子が丸潰れになるところでした。では早速城主府の料理人と食材を総動員して、山海の珍味を塊協半の前に積み上げます。大急ぎで!」
では、と言って謫徒は城壁を駆け下りていく。壘渋はその後姿を見送り、
「謫徒は智謀一つでこの城を救ってくれた。多くの将が裏切っていった中で、彼だけが残ってくれた。此度の戦役で第一の大功と言えるわね。」
青い目袋の上に乗った瞳がゾッとする程、艶っぽかった。壘魍は我が祖母との間に絶望的な距離を感じ、再び目眩をおぼえて足元がふらついた。
そんな孫娘の様子には気づかず、
「良かった。これで壘家は滅亡せずに済むのね。」
壘渋は何故か背後の延業禦に言う。壘魍の白面は怒りで真っ赤になっていたが、深夜の暗闇であり、また老婆の目でもあるから壘渋が気づかぬのも仕方ないか。従者に手を引かれ城壁をゆっくり降りていく。良かった、良かったという老婆の声が遠くなりながらも続いた。
「良くなんかない。お祖母様、一つも良くなんかないわ。」
壘魍は拳を握りしめ、祖母が消えた方を向いて呼び掛けた。その小さな背中を延業禦がずっと支えていた。
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「州王の仰せだ。穂泉煎の秦州軍を置き去りにするぞ。」
磐周挿は諸将を集め、伝えた。
撤退途中、因州及び渤軍の武将を見かけたら手当たり次第に声をかけ、また部下に命じて集合させたのである。因州王美獣の指示を伝えるためだった。
この指示に、
「へえ。」
と、嗷号なぞは薄ら笑いを浮かべており、皆何となく「さもありなん」という体である。若い帆愚恵繋淹なぞは、長い顎髭をブンブン振って同意を示した。
諸将の背後を、自軍の兵卒がザワザワと東へ落ちていく。負傷者も多く、皆後ろを振り向き、左右をキョロキョロ見回して、精強な渤因軍とは俄かには信じがたい、憔悴した落武者の群れにしか見えなかった。
磐周挿はその様子を見て、語気を強めた。
「だから赤處山の下山を待つ必要はない。東方へ迅速に撤兵めされい!」
「御意!」
これに困士甜が威勢よく返答し、
「皆の者疾く疾く、東方へ!遅れる者は死ね!」
兵卒たちにはっぱをかけた。
他の諸将も次々に兵卒たちの波に入って、声高に彼らを急かした。
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赤處山の秦州軍は、龍牙代の税命が手早く下山準備を整え、号令一下、全隊陣を払った。
24時15分。
赤處山から下山完了、山麓に展開する。
「これは」
税命は我が眼を疑った。
そこには、異常な渤因軍がいたのである。
赤處山の麓から東へ、なだらかな丘陵が連なっているが、そこを渤因の歩兵たちが尋常ではない速度で移動しているのである。
「走れ!走れぬ者は、おいていくからそこで死ね。嫌なら走れっ。」
三日月の下で燃える皺馬丘を背景に、隊長格とおぼしき人間が何人か、同じように絶叫している。隊列もなく、皆個々にバラバラで、足を引き摺っていたり、手足が無かったり、明らかに負傷している歩兵たちが、隊長格の先導に引き摺られ必死に走っていた。そして何割かは走れなくなって倒れ、誰にも助けられず、言われた通りにおいて行かれた。片足で跳びながら必死に付いて来ていた兵卒が倒れ、後ろから来た者に勢いよく踏まれている。うああー、と言葉にならぬうめき声をあげながら走る兵も幾人もいた。
(夜襲を受けての敗走だから当然だ。しかし、かの坤斧将軍を撃破した美獣軍がここまで損傷し、そしてここまでの大混乱を来すだろうか。壘渋にそれほどの力が残っていただろうか。まさか坤斧がまだ死んでなかったか?)
税命は、精鋭として名高い渤因軍の惨状が信じられず、茫然と馬上にたたずんでいたが、
「走れっ。すぐ奴等は追って来るぞ。背中を襲われるぞっ。」
と、奔流のように敗走する渤因兵の中で、ひときわ大声を上げながら引率する小柄な武将を見つけた。税命は馬を降りて近習に預け、その武将に走り寄った。
「待たれよ。わしは秦州軍の税命じゃ。貴殿は磐周挿殿ではないか?」
武将は足を緩めず、全速力で走りながら税命を見た。
「ん。税命龍牙代ですか?これは。穎邑ではありがとうございました。」
この現場で咄嗟に丁重な対応をするとは、さすが因州美家の武将だが、その目付きは悪鬼の如く鋭いままで、税命も気圧された。近づいて分かったが、磐周挿は左手を潰されたらしく、肘から下が反対方向に曲がっていた。税命も走りながら問う。
「磐周挿殿。この度は大変なことになった。美獣殿や号炸蹉蹉殿はいかがされた。」
「ご心配、恐縮。二人とも無事で、先に東方へ落ちました。」
「夜襲は、後ろからだったか?北からか?壘渋の軍でしたか。」
「敵は不明。間違いなきは、当軍の大敗。申し訳ないが、ご覧の通りの状況。渤因とも混乱の極にあり。かく言う私も今、問答に応じる余裕なし。」
少し足が遅くなったのに気付いたのだろう、先に東方へ走る同胞たちの背中を確認した。
「今は、我が主、美獣からの撤退作戦指示を遂行中です。失礼ながら、任務に戻らせて頂く。」
磐周挿は再び足を速め、怒涛の敗軍を声を枯らして東方へ追い立てて行った。
秦州も連合軍の一つである。
しかし、今の磐周挿の言葉から、美獣がそう認めていないのが分かった。大渤帝国と因州美家の蜜月の歴史は長く、とても敵わない。それは仕方ないが、といって同盟国である秦州軍に対する配慮が全く無いのは明らかにおかしい。撤退開始にあたっては、秦州軍に使いを派してその旨を伝えなければならない。
税命は首をかしげて戸惑いながら、
「ひ、東へ!」
大声で秦州軍に伝えた。
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赤處山から東へ3km。
「よおし、皆殺しだ。」
崖上に土考の巨躯がある。
はるか眼下には、址細径の隘路。細い蛇の如く、人一人が通行できる程度の地峡が、うねうねと横たわっている。
彼と、その隣に立つ閂滔登は足下を見下ろしながら、ニヤニヤ笑っていた。




