第六話
22時。
運程跌は長身を樹間に潜ませながら、林道を歩く女を見ている。
(回酩自ら?そしてなぜこっちの方角を?)
回酩 ― 連合軍の諜報長である。
運程跌らが諜報方の主力級を幾人か暗殺したので、人手不足なのかもしれないが、それにしても明朝に総攻撃を控えている連合軍の諜報長が、攻撃に無関係なこの方角をふらついているのはおかしい。まだ壘渋軍が元気だった頃なら兎も角、皺馬丘を北から夜襲するような余力が残っていないのは、子供でも分かる情勢である。
運程跌は穏やかな垂れ目のまま、心中では、
(売士谷の誰かがタレ込んだか?)
と感情が激した。売士谷を出発した塊協半の匪賊軍は、もう半時間すればこの増習林を通過するのである。
(いや。さすが大連合軍の諜報長というべきか。わが夜襲の侵攻路に現れるとは、鼻が利くことだ。)
思い直して、気を落ち着けた。
丁度その時、回酩が急に運程跌の潜む方向に首を捻った。彼は慌てて思念を消す。しかし、次の瞬間彼の左頬を鋭利な刃がかすめ、背後の樹に突き立った。
小刀であった。鋭く磨がれた刃が鈍く光っている。運程跌は左頬から血を流しながらも、呼吸音ひとつ立てずに思念を消し続けた。
(?気配がしたが、気のせいだったか)
回酩は小首を傾げた。
紺の長袍は、月下の叢林に溶け込んで保護色になっていて、林道の真ん中を堂々と歩いていても、彼女は目立たない。
(明朝落城が必至の坦陸で、この辺りに諜者を放つ筈はない。ましてまともな諜者は辰留躊しか残っていない。坡州王培梅にも特に動きは伝わってないから、この方角からの襲来はない。庇州王尼竺は定州王窶房長に攻められて壘渋を援けるどころではない。)
ではこの方角に感じた胸騒ぎは、何だったのか。長年戦場に往来した諜者として感じた悪い予感、殺気であった。
回酩は辺りを見回す。深夜の鬱蒼とした樹林が三日月に青く照らされ、妖魔の群れに見えた。つい懐の小刀に手が伸びるが、よく眺めれば幻想的な美しい風景であって、思わず
「無粋よね」
と、声に出した。それまで押し黙っていたが、声を出しても状況が変わるでもなく、自分を勇気づけるためにも再び声を発した。
「うーん。あたしの取り越し苦労かもなあ」
言い終わらないうちに、左前方から、
「回酩さぁん。」
と呼ぶ声がした。咄嗟に、
「辰留躊か?」
と叫ぶ。同じ辺りからコツン、と石のぶつかる音がして、
(しまった、陽動か。声を樹に反射させたんだ、だから敵の本体は)
そう思った時には背後から白刃が回り込み、喉笛を掻っ切られた。
「がっ」
「辰留躊じゃないよ。塊協半の手の者さ。」
回酩は首から鮮血を噴き出しながらも、懐刀を抜き、背後の暗殺者に突き立てようとしたが、
「おっと」
と、素早く逃げられた。
「カイキョウハン?それは何者?何者なの?」
彼女はそう叫んだつもりだが、唇をパクパクさせ、咽喉から隙間風のような音を鳴らしただけで、実際には言葉を為していなかった。
回酩の反撃を避けた運程跌は、少し離れた所から、彼女の身体がどう、と倒れるのを見ている。
(ふふ。回酩さん、惜しかったなあ。あとちょっと生きながらえてりゃ、予感的中を確認できたのに。)
静寂の中、叢林の外から寄せてくる殺気は、諜者である運程跌にとっては煩すぎる程に感じられる。
売士谷を出た塊協半の集団が、増習林に到着したのだった。
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23時になった。
「回酩はいかがした。」
美獣に問われ、吐紹握が答える。
「はっ。諜報長は単独で、北方を確認しに行きました。」
美獣・美萊峩兄弟はいまだ就寝せず、皺馬丘の本営にて、明日坦陸を征服した後の処置について細かな確認をしていた。そこで坦陸周辺の最新情報をとる為に回酩を呼んだのだが、本営に顔を出したのは吐紹握だった。
「北?」
美萊峩は素っ頓狂な声で聞き返した。
「明日には坦陸を陥すのに、なぜ皺馬丘の北なんぞを調べに行ったのかな。回酩は勘の鋭い女だ、北に余程のことでも嗅ぎつけたか。何だ?まさか」
いつもなら美萊峩の眼元は涼しげであるが、今は険があり、鈴の音の如きその声も早口でまくしたてて、何かの警報のようだった。
そして唐突に、
「まさか坤斧が生きているとでも?」
と発言した。
吐紹握は、さすがにそれは無い、と否定しようとしたが、
「気味の悪いことを言うな!」
先に、美獣が取り乱す弟を制した。いや制しはしたが、美獣はその端正で女性的な顔を、鉛でも呑み込んだかのように歪め、弟以上に動揺しているようである。
(坤斧は死んだわ。)
吐紹握は驚いている。
(坤斧が死んだのは間違いない。遺体は見つかってないけど、もし生きていればとっくに前線に立ってるだろうし、ここまで壘渋が追い込まれることもない。そんなこと因州王も弟君も分かってる筈なのに、咄嗟にこんな反応が出るなんて。昨年10月の迎坦門で見せた「一字閃」の振舞いが、心中に余程深く沈澱してるのね。)
彼女は為政者の案外気弱な一面に驚いたのである。
その時。
幕営の外に喚声がした。
「何だ?」
美獣と美萊峩は同時に立ち上がった。この時、吐紹握ですらも反射的に、
(坤斧の夜襲か?)
と動転したものである。
しかしこの騒ぎを起こしている張本人は、坤斧なんぞは比較にならぬ程、歴史上で重要な存在である。
今、そのことを予期している者は当然皆無。絶対安全な筈の己れの本陣に場違いな騒ぎが出来して、驚いているだけに過ぎない。
「何の騒ぎだ?」




