第六話
雲厚く、夜空には月も星も無い。
(土考の奴、うまくやってるかな)
深夜、揆朋楓は売士谷を抜け出て、広大な平原を歩いた。もう10km近く南に歩いている。
日付が変わって6月17日の1時。
(堕叉曰く、確かこの辺は坦蔵平原の中でも域陽原って区域らしいわね。)
坦陸の城市はここより4kmほど北になる。さすがの連合軍の監視も、この域陽原までは及んでいまい。
灌木がまばらに生え、まとまった村も無く、あばら家が点在するだけで茫漠とした荒野だ。昼なれば見通しが利き、潜行するのは困難な地形である。さらに揆朋楓は178cmの上背があり、女性としてはかなりの大柄でひどく目立つ。だが、今は月なき闇夜だ。深夜、女の独り歩きを見咎められる心配はない。
(ましてや、連合軍の諜報には ―)
と、その大きな口を全開にして、揆朋楓があくびをしたその時。
「おい」
金属質な声が闇を裂くように彼女の耳に飛び込んできた。
目を凝らすと黒装束の男が一人、立っていた。
「でけえ女だな。深夜にこんなとこで何してやがる。」
値踏みするようにキョロキョロと揆朋楓を眺めている。
(夜目も利くし、この格好。こいつ諜者ね。)
連合軍の網にはかかるまい、と鷹を括った己れを呪った。
(連合軍の諜者相手に勝てるかしら。あれ以上寄ったら殺る。)
間合いは3m程か。この時点で揆朋楓の両手はだらし無く垂れている。
だが、相手が爪先を少し進めた瞬間。
シュッ
という蛇の息のような摩擦音が闇に鳴り、揆朋楓の右手から橙色の閃光が走った。
星のない曇天下、正確には橙の色が見えた訳ではない。だが、揆朋楓が腰から抜いて前方に突き伸ばした鞭が橙色なのであり、もしかすると黒装束の男は視認したかもしれない。
死の直前に。
男は突如間合いを詰めてきた直線的な鞭の攻撃をまともに眉間へ受け、頭蓋を破壊されて絶命した。
その時、拍手が鳴った。
「姐さん、見事な鞭さばきだ。」
そして闇の中から、か細い人影がふらりと現れた。
「運程跌っ」
彼は驚く揆朋楓に片方の垂れ目を瞑って笑い、しゃがんで遺体を検分し始める。
「即死だな。ありがとうございやす。殺る手間が省けました。」
「尾けてたのかい。こいつ、誰なの?」
「姓は坑、名は幼。秦州王穂泉煎の諜者ですよ。一昨日、私も因州の諜者を一人消しましたが、諜報方は少なければ少ないほうがいい。」
猛禽の如きギョロ目を剥いて、揆朋楓は破顔した。
「ふふ。あの谷のこともバレないってわけね。」
「谷の場所だけじゃありません。諜報方が弱って連合軍の警戒網が狭まれば、お味方の動きも察知できなくなります。」
闇の中で見えはしないが、揆朋楓には運程跌も破顔したのが分かった。きっとその垂れ目を更に下げて笑っているのだろう。闇の中にガサガサの掌を擦る音が聞こえる。
その1時間後。
(こんな夜中に。何者?)
域陽原に偵察に出た吐紹握は、闇の中に何者かの背中を認め、後を尾けようとした。
(ん?速い)
人影はゆったり歩いているように見えたが、吐紹握が全速力で走るよりも速かった。そんな芸当は諜者しかやらない。
(しかし、辰留躊にこんな芸当できるかしら。)
闇の中に眼を凝らし、しばらく域陽原をさまよっていると、遺体を見つけた。
坑幼の遺体である。
(まったく、遺体処理の担当じゃないのよ、あたしは。)
言いながら軽々と右肩に抱え上げると、周囲に眼を配りながら吐紹握は丸太の如き太腿を躍動させて、闇の中を疾走する。
程なく本拠の皺馬丘に着くと、すぐに本営に呼ばれた。深夜ながらそこには困士甜が座っており、
「申せ。」
吐紹握の報告を促した。
一部始終を聞くと、困士甜はエラを張って身を乗り出した。
「ここまで追い込まれても、牙を剥いてくるとはね。1日の間に二人か、さすが坤斧に鍛えられた連中だよ。壘渋め、まだまだ油断はできないわね。」
困士甜はそう言ってエラをさすった。
雲間から、中天に昇った日がうっすら射し、狭い谷の中を照らす。
売士谷は静寂の中にある。野盗の群れが谷に着いて丸一日過ぎたが、200kmの道程を歩き通したのだ。疲れはまだまだ抜けぬ。
「こないだ籠城側が一太刀浴びせたようだが、所詮は蟷螂の斧、連合軍12万による包囲はそのまま続いているじゃないか。」
だが壜係重は一人元気で、眠たげな塊協半を捕まえて絡んでいた。
「この売士谷も早々に発見されるにちげえねえ。」
「分かりはせぬ。」
塊協半はあくびを抑えながら、言う。緊張感無く見えるが、彼には確証があった。彼が使っている諜者、運程跌は、昨日因州の諜者を暗殺し、この隠れ谷の秘密を守った。
(なかなかあいつは役に立つ。)
塊協半はジャラジャラと硬い髯を鳴らし、満足気に寝惚け眼を薄めている。しかし壜係重にはそんな気の抜けた塊協半が歯がゆくてならぬらしく、
「どうだか」
唾を地に吐いた後、まくし立てた。
「塡保三巨熊も閂滔登も我らの味方になってくれんのだろう。穣界は美獣のものになるんだ、早く我らも彼に降った方がよい。何度も言うが我らに残された道は投降しかないのだ。」
「美獣は己れの覇道しか考えていない。我ら民衆のことを一顧だにせん。」
塊協半は口を抑えていた手を外し、ふいに冴えた眼差しを見せた。壜係重には訳が分からぬ。塢宜を出発する時といい、民衆の為、などという夢物語を塊協半はちょくちょく説く。
「どうだかなあ。」
壜係重はひどく不機嫌そうに唸る。
日光はいつのまにか雲に隠れていた。
日が落ち、日付が変わって2時になんなんとする頃。
昼寝した為か、塊協半は粗末な幔幕の中で寝つけずにいた。彼は人の気配を察し、次の瞬間、
(お頭)
耳元で甘ったるく呼びかけられた。
(阯駒か。)
この若い女諜者の好色を知っているから、塊協半は襲われたらたまらん、と即座に飛び起きた。
(勝手に入りやがって。)
(いえいえ諜者失格です。だってお頭には直前で察されてしまいましたから。)
(直前?)
(ああ、いえいえ。それよりも)
阯駒はぽってりとした唇をふいに引き締め、珍しく真面目な眼差しで塊協半を見つめた。
(土考様、閂滔登との交渉成功。坂外窟の賊団100は坂隷を発ち、20日の19時には売士谷に着くとのこと。)
(大義。ゆっくり休め。)
塊協半はそう言って阯駒を幕から追い出すと喜色満面、
「土考め、やりよったわ!」
と小さく拳を握った。そして、褐色の髯をジャラリと鳴らした。
「よし、されば… 」




