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東狩獲城  〜『斐界群史』詳伝  作者: 適当館 剛
第参章  雌伏売士谷
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第参話

 6月15日。

 曇りが続き、昼もあたりは薄暗い。


「虎なんていねえじゃねえか。」

 旅商人が背負子(しょいこ)を揺すりながら窪地の真ん中に立ち、周囲の丘陵を見上げていた。薄い唇から独り言が漏れる。

「この売士谷に伏兵を置けば、うちらの連合軍も背中を突かれてやばかったかもな。平地に降りてからも7〜8kmあるから捕捉できるだろうけど、坤斧とか欄三秀とか、手練(てだ)れの武将が夜襲しかけたら分からん。唯一の兵力が城内に閉じ込められている今、坦陸の奴らには最早無理な話だが、万一培梅あたりが電撃参戦したら?西からここに兵を入れる危険性もなくは無い。回酩に報せるべきだな。」


 姓は大、名は暸。

 因州美家の諜者だ。独り言の多い男ではある。背負子をガタガタ揺らしながら、相手もいないのに語る。

「どうせ攻城戦もあと数日だ。ここには数百も兵を置いて用心すれば良かろう」

「良く気づいた。」

 大暸は咄嗟に振り向いた。だが同時に彼の首は掻っ切られており、首を捻ったが為に傷口は拡大し、噴水の如く鮮血が噴き出した。

 大暸が倒れる。

「だが、死んでもらう。」

 その後ろに立っていたのは、痩身の男。

 運程跌であった。垂れた眼が殺人の後とは思えない程穏やかである。小刀の刃についた血糊を大暸の上衣で(ぬぐ)うと懐に仕舞い、ガサガサの掌を擦り合わせた。


 夜。

 運程跌は7km程東、坦水の西岸に移動している。星の無い夜陰、影法師が動くが彼一人にしては大きい。

 運程跌は柿渋の頭陀袋(ずたぶくろ)を背負っていた。その中には大暸の遺体が入っている。この為、影が大きく見えていたのである。

 闇の中、運程跌は渡り易い浅瀬の増嶼渡(ぞうしょと)という場所を目掛けて歩いている。

 ふと、運程跌は耳を澄ます。そして頭陀袋ごとゆっくり黄濁した河水の中に身を沈めて行った。目から上だけ水面の上に出し、(あし)の間から見張る。

 数十秒後、別の人影が河原に現れた。

(回酩か。)

 運程跌は夜目を利かす。紺の袍を着ており、欠けてさらに尖った八重歯も確認できた。

(ついでにこいつも殺すか)


(誰かの気配がしたんだけどねえ。)

 一方の回酩は、紺の長袍をさらりと着こなし、夜の河原に立って(いぶか)しげである。

(しかし大暸の奴、どこに行ったのか。)

 朝、平原縁辺を広く警邏し夕方には戻ると言って営所を出たのだが、帰って来ない。

(まさか辰留躊の奴に消されたか。)

 右手を腰刀にかけたまま、坦水の岸を歩き始める。


(無理だ、隙はない)

 慌てて運程跌は頭も沈める。頭陀袋の浮力で浮き上がりそうなのを、水中の葦を掴んで必死に堪える。


 闇の中、回酩は目を凝らす。岸辺の疎林(そりん)、湿った黄土、川面を覆う葦原、その狭間を縫うように流れる河水。注意深く観察し、忙しなく歩き回り、感じた気配の源を探索する。

(気のせいか)

 回酩は諦め、沓を止める。


 その沓から3m程川に入った辺りに、運程跌は沈んでいた。

 月夜なれば見つかって、あの腰刀に貫かれていたろう。こちらから殺すなど到底無理で、

(あの女、相当手練れだ。)

 水中で運程跌は震えた。回酩には隙が全くなく、さすが今回の連合軍諜報を総括しているだけある。

 回酩が遠ざかっていくのが分かる。しばらくして、運程跌は頭を出した。静かに、しかし大きく息をして空気を取り込みつつ、遠く回酩が増嶼渡を踏んで坦水の東岸に渡り終えるのを見届けた。

 大暸の遺体が入った頭陀袋ごと川から上がると、増嶼渡を通って渡河し、東へ2km走る。重荷を負ってるとは思えぬ速度で、健脚は飛ぶが如く、程なく叢林(そうりん)に着いた。

 夜の闇に、木々の群れが黒々と広がっている。

(ふふ、この増習林(ぞうしゅうりん)が丁度いい。)

 ここは坦陸城から北東へ約5km、その中間地点には美獣が本営を置く皺馬丘がある。

 運程跌は増習林に分け入った。今は夜だから無人だが、林の中には幾筋か道もできていて、昼なればそこそこ人通りもある場所である。

(この辺にするか。)

 運程跌は頭陀袋を重々しく地に下ろし、林の中に切り開かれた道の端に中身を転がした。

 中身は言うまでもなく、因州美家の諜者、大暸の遺体である。先程河水に沈めたために髪はずぶ濡れで、薄い唇が紫色になっている。

(回酩め、壘渋の手の者に殺られたと思うだろう。ふふ、混乱するがよい。)

 運程跌は、垂れ目の目尻を更に下げて穏やかに笑う。そしてゆっくり掌を擦り合わせてから、細く締まった身体を(ひるがえ)し、木立の中に消えた。


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