第参話
「静まれ!」
夜の原野に武将の声が響く。
「最早、敵の奇襲隊は帰城した。我々は赤處山上に戻る故、各隊点呼、整列せよっ。」
秦州龍牙代の税命である。声を張って自軍に指示すると背後を振り向き、
「危なかったですな。」
と、主君に声をかけた。彼の主、秦州王の穂泉煎もこの前線に赴いていた。
「うむ。」
穂泉煎は頷いたが、苦々しく口髭を歪め、
「だがな、我が軍まで混乱してはいかんじゃないか。」
と不機嫌そうである。
「はっ。申し訳ございません。」
税命は、齢35ながら州龍牙代であり、秦州における軍部の実質的な長だったから、州王からこのように言われても仕方ない。
(3km先の炎上に動揺しておるようでは― )
税命も奥歯を噛み締め、考え込む他ない。彼は数時間前のことを思い起こしていた。
この攻城戦にあって秦州軍は、坦陸城から東方4km程離れた赤處山に陣取っている。山の防備は堅いものの軍の起動が遅れるので、秦州軍は定期的に山を降りていた。
この日も秦州軍の半数は下山して調練し、夜になっても山を登らず、赤處山の麓に宿営を張って就寝した。そして深夜、見張りが3km先の炎に気付き、税命は叩き起こされた。彼はお抱えの諜者、坑幼が側にいなかったので、適当な斥候に様子を見に行かせた。炎は大渤帝国の帆愚舟蹴淹軍からあがっていたが、同軍は混乱を極めており、上述のように誤報を含む信憑性の低い情報が飛び交っていたのである。
斥候は赤處山麓へ帰陣し、息急き切って報告する。
「城方の奇襲で帆愚舟蹴淹様が討死。火矢を射掛けられたようで、陣営が炎上しています。」
「なんと!して、渤軍は大丈夫なのか?恵繋淹殿は父上を支援できたか?敵はいかほどか、誰が率いておったのか?」
それに対し、税命が矢継ぎ早に質す。
「お味方は大混乱でして、委細不明。恵繋淹様かどうか分かりませんが、援軍は来ているようです。敵数は不明、渤軍の兵士が言うには、敵将は坤斧か、欄三秀か、と。」
「なに?坤斧!」
ここで穂泉煎が目を剥いた。
大声だったので遠巻きにしていた兵達の耳にも入り、騒めいた。
坤斧が?生きていた? ―
「そんな筈はなかろう!」
税命は慌てて叫んだ。
全軍に動揺が伝播するのが分かったからである。主君の不用意な反応も良くなかった。
和群乏を呼び、坤斧は死んだ旨を皆に再確認するよう言い含めると、税命自身が3km先の現場に駆け、状況確認した。
すでに敵兵は引き揚げており、息子の恵繋淹が事態の収拾を図っていること、また来援していた左霧馬酪や、因州軍の困士甜等をつかまえて情報を集め、敵将は欄三秀であり、200前後の歩兵を中心とした小部隊だったこと等を把握した。
税命が帰陣すると、秦州軍は和群乏の抑えが効いておらず、現場に援軍に行こうとする将、赤處山に登ろうとする将、果ては秦州への撤退を主張する極端な将までいて、混乱していた。税命は今度は自軍の中を駆け回り、自分の口で真実を伝え、ようやく混乱を鎮めたのである。
夜空が白みはじめる頃、秦州軍はゆっくりと赤處山を登り始めていた。
「諸将もバラバラになってしもうた。」
山道の途中で、秦州王・穂泉煎が馬上でぼそりと呟く。
「え?」
同じく馬上の税命がそれを聞き、咄嗟に周りを見渡した。幸い周りに人はいない。狭い山道である為、人馬は一列にならねば進めない。税命は州王を先導し、すぐ前にいた。
「大丈夫じゃ、お主にしか聞こえておらん。」
「は。」
「秦州が美獣の傀儡になり、わしの王座の後ろにあの忌まわしい椅子が置かれて、数ヶ月。妖天の玉睨を真似たんだろうが、ともかくあの椅子のせいで、諸将はわしのことがどうでもよくなった。」
穂泉煎の声は小さかったが、税命はひやひやした。軍中に聞こえたらことである。
そして、これに対し税命は
「そ、そんなことはございません。」
と小声で返したものの心中では、
(確かにそうだな)
と思わざるを得ない。
彼は、秦州を襲った昨年からの出来事に頭をめぐらせた。
昨年、つまり眞暦1806年の9月2日、捻州王配下の掟考が秦州禾奔頭に侵攻した。当時因州公子だった美獣は、同盟国である秦州への援軍を名目に出師、9月15日に侵攻反対派の圃韓を因州國朶鎮に撃破し、秦州へ進軍。無人の野を行くが如く、州内各地で奏同啄飯道を蹴散らし、掟考も尻尾を巻いて逃げ出し、早くも9月28日には、合流した大渤帝国援軍とともに西部に位置する州都・穎邑に入城した。当初、秦州王・穂泉煎はこれを熱烈に歓迎したが、すぐ美獣の横暴に苛まれることになる。美獣は歓迎式もそこそこに、自らの拡大戦略に穂泉煎を巻き込み、10月11日には壘渋の牙城、坡州坦陸に侵攻。14日に壘渋の降伏を受け入れてすぐ坦陸から引き揚げると、美獣は一度因州に帰り、11月5日に因州王の後を襲って因州王に就任すると、妹の佑聯を穂泉煎に娶せた。そして妹のあとを追うように秦州都穎邑へと舞い戻り、22日、問題の「椅子」を設置した。
秦州王府の奥深くに穂泉煎の座る王座があり、ここで百官に対していたのだが、美獣は王座の後ろを工事して、もう一個椅子を据えたのである。
そして美獣はこの王座の後ろの椅子に座った。逆に秦州王穂泉煎は、その背後に隣州の州王が座り、常時監視されることになったのである。
(確かにあんな椅子が出来ては、諸将が州王に心服できやしない。佑聯様が秦州と因州の間を取り持ってくれているから、まだいいのだが。)
つい、税命は濃い眉を寄せて馬上に考え込んでしまった。
日付は変わって、6月10日となっている。
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6月10日の早暁。
坦陸の東街区に軍備総監である蘭政丕の邸がある。門番はいるが、朝早いためか大あくびをしているし、すぐ近くの壁をすっ、と飛び越えていく影があってもまったく気づかない。
「いらっしゃい」
邸内の上房では家主の蘭政丕が出迎え、
「こちらに来なさい、吐紹握。」
影 ― つまり美獣の諜者、吐紹握 ― を隠し扉から密室に誘った。
二人の女が対面した。
早朝に忍び込んできた諜者の吐紹握は、薄くはあるが化粧しており、口にも殷紅の紅を引いている。対して蘭政丕はまるで何時間も前から諜者が忍んで来るのを待っていたかのように、脂粉で己れの顔を厚く粧っている。しかし、その顔は長い前髪で半分隠れていた。
吐紹握は小声で切り出した。
「欄三秀、渤軍へ夜襲。」
「らしいわね」
対する蘭政丕もそれに即応する。
「戦果は?」
「城方の兵200。渤軍の帆愚舟蹴淹を討ちました。舟蹴淹軍の損害は討死100、負傷200。」
「ふうん。損害は多くなかった。ただ、『黄焔弓虎』欄三秀が生きていた、ということを喧伝は出来たわね。」
「はっ。」
跪き、頭を垂れている吐紹握に向かって、蘭政丕は謝罪の言葉を吐いた。
「ごめんなさいね。彼奴の奇襲、まったく知らなかったのよ。城内でも極秘だったのね。」
6月10日は曇天で、坦陸の上に重くのしかかる雲によって、朝日は隠されている。




