第弐話
(坤斧様)
曇天の夜空に月も星もない。
その為か、坦下門に重々しい空気が立ち込めている。
いや、欄三秀の壮烈なる気迫に、200名の歩兵達が気圧されているのであった。
(仇は取れますまい。)
この暗闇に、兵達の眼には欄三秀の鎧の鮮やかなる色彩 ― 黄と緋色 ― も、腰まで垂れる長髪も、いずれも見えていない。しかし、巨大な門扉を内側から睨みつけ、じっと馬上で微動だにしない彼の背中から発せられる気を感じぬ者はおらず、その心底は分からぬまでも大いなる決意をもって兵を率い、開門の機を計っているのは痛い程伝わっていた。
欄三秀は4月27日にここ坦下門から飛び出した夜襲のことを思い出している。
(あの時点で我が壘家は籠城を始めて10日、12万の連合軍に対して兵力差は隔絶、他家の来援も望めぬ中で皺馬丘の守りが弛緩したという情報があり、坤斧様はその機に賭けた。しかし敵は準備万端、奇襲軍は飛んで火に入る夏の虫と相成った。恐らく ―)
欄三秀の眉間に地割れのごとく深い皺が寄った。
(内応 ― )
欄三秀は咄嗟に後ろを振り向きそうになった。
夜空に融けた十黄旗塔を、そしてその近くで就寝しているであろう、壘家の閣僚達を、見えもしないが確認したくなったのだ。
家中の柱石が敢行する奇襲計画を知るのは、家臣団の中でもごく一握りである。
今夜の奇襲も、裏切り者が連合軍に伝えているかもしれぬ。いやそもそも多勢に無勢、迎撃され、返り討ちに遭う可能性の高い作戦である。
(坤斧様の仇はとれませぬが、しかし)
欄三秀は太腿の半ばから下を失い、極端に小さくなった己れの右脚を、鞍上でポンポンと叩いた。
(虎が一頭残ったことだけ、奴らに報せて参ります。)
ここで彼は漸く振り向いた。
「狙うは城外北東2kmの号炸蹉蹉が陣!掻き回して帰る、者共死ぬなよ!」
固唾を飲んで見守っていた歩兵達は、はっ、と目が覚めたように、
「応!」
と鬨の声をあげた。
時刻は23時。
坦下門の大門扉が開かれた。
――――――――――――――――――――
大渤帝国軍の陣は寝静まっていた。
いや、渤軍3万の内、5,000を預かる武官、左霧馬酪は起きていて、己れの幕舎に、同じく5,000の師団長である帆愚恵繋淹を呼び寄せて、話していた。
「長陣にはなっておるが、美獣様は確実に坦陸を獲ろうということなのであろう。」
歴戦の勇士たる左霧馬酪の鷹揚とした態度に、若い帆愚恵繋淹は噛みついた。
「手緩くないですか。貴重な時間を浪費しているのです。坤斧が消えた今、坦陸は既に空城も同然。籠絡された将が連日当方に降っておるんですから、連合軍が堂々と坦下門に一斉攻撃すれば、中から門扉は開かれましょう。」
ふん、と左霧馬酪は鼻を鳴らして少し笑う。
「舟蹴淹が聞いたら嘆くぞ。」
「なぜ父が」
父の名を出された帆愚恵繋淹は、八重歯を剥き出し、年の割には立派に生やした顎髭を震わせ、そしてその青白い顔を赤くして吠えた。対する左霧馬酪は渤方の者には珍しい浅黒い肌はそのまま、ニヤニヤ笑っていたが、ふと外の異変に気付いた。
「なぜ父が嘆くのです!大渤随一の武勇で鳴らした父は、貴方のように腰がひけていない― 」
「どけっ!」
まだ頭から湯気を立てている帆愚恵繋淹を突き飛ばし、左霧馬酪は幕をめくって外へ飛び出した。短躯だが、発条仕掛けのように敏捷である。
「夜襲だ!」
左霧馬酪は叫んだ。そして、
「恵繋淹!親父殿の陣が燃えとるぞ!」
「えっ」
幕舎の床に転がった帆愚恵繋淹も驚き、飛び出てきた。そして、
「父上!」
叫ぶなり駆け出した。
――――――――――――――――――――
欄三秀率いる200名の奇襲隊は、寝静まる帆愚舟蹴淹5,000の陣に音もなく接近した。欄三秀は手綱を強く握りしめ、闇の中に沈む巨大な宿営地を凝視する。
(此度の渤軍3万において、帆愚舟蹴淹は5,000、息子の帆愚恵繋淹も同数の5,000、父子で三割超を占める。)
欄三秀は右脚を失っているため、身体を安定させるのに難渋するが、身体が鞍上で定まった一瞬で、ぴた、と弓を構えると、弦を引いてひょうと射た。舟蹴淹陣の見張りが過たず頭を射抜かれる。もう一人いた。しかし欄三秀の連射でその一人も倒れた。
(やはり。兵数が油断につながる。)
これで帆愚舟蹴淹の陣は、夜襲への対応が遅れた。
奇襲隊は声一つ立てず、宿営一つ一つの幕を開けて踏み込み、中で寝ている渤方兵を殺していく。中には丁度寝付けぬ兵もいて、それらの宿営内では小戦闘に至り、干戈を交える金属音、喚声等があがる。徐々に騒音が聞こえてくると、
「ん?何事だ?」
帆愚舟蹴淹自身が気付いて、宿営で跳ね起きた。
そこへ、
「遅い!」
と一言叫びながら幕を蹴破って駆け入る一騎。
「『黄焔弓虎』欄三秀、見参!」
「なに!」
欄三秀は馬上から短弓で速射し、帆愚舟蹴淹とその伴二人を続けざまに射抜いた。
宿営を出た所にいた自兵へ、欄三秀は命じる。
「戦闘はここまで。帆愚舟蹴淹が欄三秀に討たれたことを大声で叫びながら、この陣に火をつけろ。一人で3個、宿営に着火したら城へ一目散に戻れ。集合は不要。いいな。」
兵の返事を待たず、欄三秀は大音声で叫ぶ。
「圭粒参虎の一、『黄焔弓虎』欄三秀、帆愚舟蹴淹を討ち取ったり!」
夜の敵陣は大混乱となった。統率者が殺され、5,000の師団は俄かに制御不能に陥り、寝所が大炎上していく中で、「敵襲だ!」「舟蹴淹様が討たれた!」「欄三秀か!」「坤斧の手下だ」「え?坤斧?」「敵は100程度か」「いや、500はいるだろう」と多くの誤報が伝染病の如く広がっていく。混乱の部隊は随所で同士討ちを始める。
「父上はご無事か!」
師団長の息子、帆愚恵繋淹が駆けつけたのはそんな状況下であり、既に奇襲隊は風のように消え失せている。
勢いを増した火炎が、ただただ星のない夜空を焦がしているばかりであった。




